第3話 異常事態
黎都大学立川キャンパスで火災が発生した――という報せが最初に消防署にもたらされたのは、午後八時を過ぎた頃だった。
出動した隊員たちは構内に残っていた職員の一人に誘導され、消防車を奥へと進めた。火の手は見えないが、煙は第三校舎の一階付近から上がっていた。その周辺にいくつかの人影が見えた。人影は、ただ立ち尽くし、濛々と上がる煙を見上げているように見えた。消防隊員が声を掛けると、それらはゆっくりと振り返った。鈍い反応を不審に思いながら近づくと、人影たちは消防隊員に向かい、一斉に走り出した。
驚き、身構えた消防隊員たちの装備の上から抱きつく。その時初めて、薄暗がりの中で消防隊員は、飛びかかってきた男の顔を見た。
「な――!」
なんだこれは――と叫ぼうとしたが、その口は塞がれた。口内一杯に流れ込んだものは、温かな液体だ。はじめそれは、男の顔が溶けたものかと思った。それほど男の顔は歪んでいた。だがすぐに気づいた。そうではない!と。確かに異様な顔ではある。男には白目がない。眼球全部が漆黒だ。だが、その異様な目玉以外は〈ただの顔〉だ。溶けてなどいない。強いて言えば、大きく広げた口が消防隊員に噛みつこうでもするかのように開け閉めされているくらいだ。溶けて見え、消防隊員の口に流れ込んだのは男の顔を覆う粘性の液体だった。男の顔を覆っていたそれが流れ落ち、消防隊員の口に流れ込んだのだ。
気管を塞がれた消防隊員はパニックを起こした。失い掛ける意識の中、同僚の隊員に〈のし掛かる〉男の姿を見た。痙攣している仲間の手足が見えた。それがピタリと止まるのを見た直後、消防隊員の意識も闇に落ちた。
少し離れた場所に消防車は停止していた。運転席で様子を見ていた隊員は、慌てて車を後退させた。五人に飛びかかった男達が、再びゆっくりと立ち上がったのを見て、無線機に向かって叫んだ。
「緊急!緊急!」
その車両に付いてきていた別の消防車両は、猛烈な勢いで後退してきた先着車両が校舎の角に激突するのを見た。砕けたコンクリートやガラスが散乱する中に、誰が発しているか判らない絶叫が響いている。
何が起きたのか理解出来ない後方の隊員たちは、呆気にとられながらも、大破した消防車に近づこうとした。その中の一人が叫んだ。
「隊長、先着の隊員が!」
校舎の陰から、先に火災現場に到着していた隊員たちが現れるのを見た。その後ろには一般人も確認出来る。その全員が、奇妙なほどゆっくりと瓦礫を乗り越え、近づいてくる。
「どうした!一体何があったんだ!」
大声で訊ねると、まるでその声に反応するかのように、十数人の人影は走り出した。その動きはまさに、狂った人形だ。目指しているのは明らかに隊長たちのチームだ。
仲間の様子に、呆気にとられて立ち尽くしていた消防士たちは、飛びかかられ、倒れていく。言葉もなくして見ていた隊長に、一人の男が飛びかかった。直感でそれが大学の関係者だと分かったのは、男が白衣を着ていたからだ。男の顔は、奇妙に歪んでいた。顔をドロリとした液体が覆い尽くしている。それが何かは判らない。ただ、幾多の修羅場を経験してきたからこそ持てた自己保存の警報ベルが鳴り響くのを感じた。
「逃げ――」
飛びかかられ、押し倒されて声は途切れた。口は液体によって塞がれている。それは気管へ流れ込んで隊長の動きを止めさせた。飛びかかられて僅か数秒の出来事だった。
聞こえていた怒声も悲鳴も消えた。地面に倒れた消防隊員達は誰一人動かない。覆い被さっていた男達が、消防隊員から静かに離れ始めた。しばらくすると、倒れていた隊員達がノロノロと動き始めるのが見えた。それは酷く緩慢な動作で、立ち上がると両腕をだらりと下げた。二十数名の男達が、雨の落ちる構内でゆっくりと体を揺らしている。月明かりも無く、いつの間にか構内に設置されている明かりまで消えている。俯く男達の表情は見えない。虚ろな沈黙が夜陰にあった。
重邦は一分おきに千葉をコールした。応答はない。混乱に巻き込まれただけだ――そう思いたかったが、不安は胸で巨大な黒雲に育っていく。バッグを掴んで部屋を飛び出すと、背中に日菜子の声が聞こえた。それを振り払って自転車に飛び乗った。
表通りにはまだ帰宅途上の人々がいた。パトカーは即時の帰宅と、その後は外出を控えるようにというセリフを繰り返している。少し行くと停車しているパトライトが見えた。コンビニ前でたむろしていた男達が叱責されていた。
「何が悪いんだよ!コンビニ来ただけじゃねえか!」
「外出禁止だ!家に帰れ!早く!」
普段ならばもう少しは穏やかに諭す警察官が、顔を赤らめて怒鳴っている。元気の良い若者も面食らっていた。それを横目に、重邦は脇道に入った。なるほど確かに普段より人の気配はない。突然の外出禁止指示にも日本人は従順に従っていた。理解は後で出来る。いまは〈みんながするとおり〉にしよう――とでもいうように。
猛然とペダルを漕いで着いたのは、脩平の住むマンション前だ。来る途中の信号機はほとんどが消えていた。それでも幸い、マンションの電力は止まっていない。明かりの点いているエントランスに駆け込み、脩平の家をコールした。出たのは脩平自身だった。
「お前!何やってんだ?外出ちゃいけねえんだぞ?」
「いいから開けてくれないか?急いでるんだ」
普段ならば交わす軽口もない。鬼気迫る表情の重邦を見て、脩平は解錠した。部屋に行くと、脩平が出迎えた。後ろには脩平の母親と妹が居たが、不安そうに身を寄せたままで重邦に頭を下げた。
「お邪魔します!」
それだけ言って脩平の部屋に飛び込んだ。
「お父さんは?」
外務省勤務の脩平の父親だけ姿がない。
「残業だろ。っていうか、残業がデフォだからな」
外出禁止指示が出た段階で勤め先にいた人々はどうなるのか、重邦は眉間にシワを寄せた。
「こんな経験のある人は居るはずないし、指示した方も細かなフォローなんて出来やしない。電車も動かないだろうから、お父さんもしばらくは戻れないと思うけど、むしろその方が安全だ」
ベッドに腰を下ろした重邦はそう言った。
「何がどうなってんだ?さっきからもうテレビも映らないんだぜ?なあ、治安なんとかってのは――なんなんだよ?テロか?戦争か?」
椅子を引き寄せ、脩平は背もたれを抱いて腰を下ろした。言っている台詞ほどには脩平の表情は暗くない。脳天気さが状況にそぐわな過ぎて重邦は苦笑した。
「判らないよ。実際には何が起きているか、総理大臣の公式な会見でもなければね。ただ、これは言える。治安出動しなくてはならない何かが起きたんだ。それも、とりあえず外出禁止が都内に限定されているなら、起きたのは東京都内だ。テロというのは可能性として無くはないけど、戦争となるとどうかな。日本みたいな島国で、しかもそれなりに防衛力を持った国となると、突然の陸戦はあり得ない」
「なんでだ?戦争ってのは、ライフル抱えて撃ち合うもんだろ?」
重邦は首を横に振った。
「それは絶対にない。だってそうだろ?その撃ち合う相手ってのはどうやって来たんだ?」
「え?そりゃあお前…… 船とか?飛行機でパラシュートとか?」
重邦は鼻を鳴らした。
「あり得ないな。そんな船の接岸をそもそも許すと思うかい?それも、戦争のレベルというなら相当の兵員数だろ?だから空からもない。バラバラに降りてきて、その後、慣れない場所でどうするんだ?何万人もそれで運ぶ?降下後の指揮を考えたら、そんな効率の悪いことはするわけがないよ。僕が日本に戦争を仕掛けるなら、選択肢はミサイルオンリーだ。けど、どこかにミサイルが落ちたっていう報道も無かった」
「つまりなんなんだよ?その治安なんとかって?」
重邦は脩平の目を見た。――言おうか、可能性を――。だが、躊躇われた。いまの時点で〈本当にそんなことが起きるものか〉重邦にも確証はない。
「お父さんは本当に霞ヶ関だね?」
「連絡取れないから判んねーけど、銀座じゃないなら、な」
うん、と頷き、重邦は言った。
「ならすぐに危険というほどじゃないと思う」
「なんで言えるんだよ?」
外務省は霞ヶ関だ。銀座だとしても中央区。重邦は言った。
「勘だよ」
呆れた様子で脩平は頷いた。
「まあいいや。オヤジも男の端くれ。何かあってもなんとかするだろ」
「お母さんと綾ちゃんにもあまり心配しすぎないように言ってくれ」
「お前からだって言ったら安心するんだろうな。俺が言っても聞かないくせして」
両手を広げて見せた。
「それだけ言いに来たんだ」
「外出禁止なのにか?お前、よく警察に見つからなかったな?外はものすげえ量のパトカーだらけだろ?上から見ても判るぜ」
「裏道は山ほどあるさ」
脩平は首を傾げた。
「その辺の道もローマまで行ける――ってやつだな」
「色々間違えてるけど、まあね」
そう言うと重邦は立ち上がった。
「帰るのか?」
「いや、立川の方に行く」
「親戚でも居るのかよ?」
ソルガードのライフパックを背負い、重邦は首を横に振った。
「知賀さんだ」
「へ?小梢?何しに行くんだ?」
ドアを開けて廊下に出る。重邦は脩平の妹で小学六年生の綾の頭を撫でた。
「ここより向こうの方が危険だ」
靴を履いて向き直った重邦を見つめ、脩平は母親を振り返った。
「俺、ちょっと出てくる」
母は目を丸くした。
「何を言ってるの!外出禁止よ?判ってるの?逮捕されちゃうかも知れないのよ?パパもまだ帰らないのに……」
脩平も重邦と揃いのリュックを持っている。肩に掛けると、笑って言った。
「重邦曰く、オヤジもここもまだ安全らしい。俺じゃなくてこいつが言うんだから信用出来るだろ?」
綾が頷くのを見て、脩平は眉根を寄せ、綾を睨んだ。
「それに、仲間が危なくなる前に救助に行かなきゃ。出来たらこっちに連れてこようかって相談してたんだ」
「おい、脩――」
言いかけた重邦を手で制した。
「だろ?」
ウインクして見せた。ウインクの下手な脩平のそれは、両目閉じだ。重邦は苦笑し、脩平の母親に言った。
「おばさん、大丈夫です。危険な真似は絶対にしません。約束します。綾ちゃんも、すぐに戻るからね」
「本当?」
「だから言ってるだろ?大丈――」
「お兄ちゃんじゃなくて笹本さんに言ってるの!本当に大丈夫?」
「なんだこの野郎!兄が信じられねえのか!」
重邦は綾の頭を撫でた。
「約束するよ」
綾は微笑み、頷いた。
「ママ、笹本さんがそう言うんだから絶対に大丈夫だよ」
「そうね……笹本くんが言うんだから…」
「実の子の、この信頼度の低さはなんなんだよ!」
脩平は項垂れた。
「とにかくすぐ戻るって。立川でしかないし。じゃあ、ちょっくら行ってくらぁ」
脩平はそう言い残し、二人は出て行った。
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