第2話 端緒
「脩平はどうするの?」
帰り支度を終えた知賀小梢が訊ねると、クラスメイトの若宮脩平は渋い表情で振り返った。
「俺はどこに居る?」
「え?どこ……って、私の前?」
「そうだ。てめえの五十センチ前だ。それでなんでそんなデカい声出す必要があるんだよ?」
「え?そんなに大きな声だった?」
廊下側最後列の二人に向かって、窓側最前列の沓田美佳は頷いて見せた。
「見ろ!俺の耳が壊れたらお前の責任だからな!」
鞄に教科書を詰め、膨れる脩平に小梢は「今更耳くらい壊れたって」と呟いた。
「聞こえてる!」
「耳良いんじゃん!」
鞄を抱えて脩平は廊下に出た。後を追うように小梢も教室を後にした。
廊下は生徒で溢れていた。
「我が都立朱野台高校は試験前で部活も無し。みんな帰って臨戦態勢だね。でも試験勉強なんてやるはず無いのに、部活しかやる事のない脩平たちには酷な期間よね」
サッカー部次期主将に内定している脩平は小梢を睨んだ。
「サッカー部がバカばっかなのは否定しないが、部活バカなら笹本だって同じだ!」
「何で笹本君まで〈たち〉に入るの?学年一位だよ?」
不意に声を掛けられた。
「〈たち〉の一員は悲しいな」
振り向くと、笹本重邦本人が立っていた。入学以来、学年の首位を明け渡した事がない生徒会副会長は、今夏の生徒会選挙で会長に選ばれるのも既定の路線だ。
「居たんだ!びっくりさせないでよ、もー!」
胸を押さえる小梢から視線を逸らし、眼鏡を押し上げた。
「居て悪かったけど、もう居なくなるから」
「なんだ?どこか行くのか?重邦も帰るんだろ?」
脩平と重邦は小学校からの幼なじみだが、重邦の父が経営する医院には、子供の頃から怪我で世話になり続けている脩平だ。
「千葉先生のとこにね」
千葉は化学の教師で、科学部の顧問でもある。
「部活禁止だぞー。いいのかー?ズルいぞー」
キックの真似をする脩平に小梢は肩を落とした。
「バカねー。笹本君は別格なのよ」
「は?成績が良いと規則にも縛られないのか?メッシは反則して良いのかよ!」
食ってかかる脩平に、重邦は吐息を吐いた。
「そうじゃないよ、ちょっと個人的な用があるだけさ。だから、君たちとのトリオ漫才もこの辺で」
手を上げ、廊下の先へ向かった。その後ろ姿を見送り、脩平は首を傾げた。
「あんな変人が、なんで頭良いんだろうな?」
「こっちの変人は頭が悪いのにね」
見ると、並んで笑う小梢は脩平を見上げていた。
「お互い様だ」
互いに「ふん!」と鼻を鳴らし、昇降口へと向かった。
『化学教官室』と札の掲げられた部屋の前で、重邦は足を止めた。中から怒声が聞こえたからだ。
「帰れ!」
声は千葉のものだと判る。だが、怒鳴られている相手の声は聞こえない。普段温厚な千葉をこれだけ怒らせる事の出来る者など、おとなしい生徒の多い朱野台高校に居るとは思えない。
開けるわけにもいかず、廊下で待つと、ドアが開いた。出てきた人物を見て、重邦は内心で驚いた。どう見ても保護者とは思えないし、出入り業者であるはずがない。マイクロミニのスカートからは関節が無いのではないか?と思わせる真っ直ぐな足が伸びている。上は夏物のジャケットを羽織っているが、その下に着ている白いブラウスは豊かすぎるバストに押し上げられ、ボタンも飛びそうだ。重邦と視線がぶつかると、微かに笑った。
「先生、これだから気をつけて」
頭の上に指を二本。重邦はコクリと頷き、女の脇をすり抜けて部屋に入った。開いたままのドア越しに、女は言った。
「また来ます!承諾をいただけるまで何度でも!」
ドアに背を向けている千葉が怒鳴り返した。
「二度と来るな!」
ドアは閉まり、静かになった。
「あの、千葉先生」
重邦の声に千葉は振り返った。
「おう、笹本か。悪かったな変なとこ見せてしまって」
別に良いんですけど――と言って椅子を引いた。腰を下ろすと、重邦はバッグから小瓶を取りだした。
「持ってきました」
古びて文字も読み取れないラベルが貼ってある。それを手に取り、千葉は明かりに翳した。
「これが〈それ〉だね?」
「はい、祖父の離れで見つけました。それと、このメモと」
ぶ厚いメモを差し出した。ラベル同様の古さで、元々の印刷部分は右から左に向かって文字が並んでいた。手書きのタイトルなどはない。千葉は表紙を捲り、頷いた。
「随分と几帳面な方だったようだね。メモなのに目次がある。整理されていて見やすいな」
重邦は僅かに首を傾げた。
「几帳面は笹本の家の体質みたいなものでしょうね」
笑いもせずに言う重邦に、逆に千葉が苦笑した。
「金庫にあったんだって?よく開けられたね」
重邦は細い目を皿に細めた。
「古い金庫です。その気になれば、たいした問題はありません」
なるほど、と頷いて千葉はメモに目を通し始めた。
「お祖父さんは曾お祖父さんの始めた製薬会社を継がれたんだよね?」
「はい。でも、儲からなかったらしくて、そう長い期間ではなかったみたいですけど」
「曾お祖父さんは薬学畑だったようだね」
それには重邦は首を横に振った。
「詳しいことは知らされてません。父にも、亡くなる前の祖父にも訊いたことはあるんですけど、帝大医学部出だということは教えてくれるんですけど、それ以外のことは何も」
重邦の話を聞きながら、千葉はメモを読み進めた。
「実験記録のようだな、これは…」
普段見せない厳しい眼差しで、千葉は読み進めた。時折首を傾げ、頷き、眉間にしわを寄せながら。
「笹本君も読んだの?」
「はい、一応は。でも、不飽和多重結合化合物の永続重合反応とか書いてありますけど、正直何のことだか。不飽和二重結合ならモノマーの重合がポリマーになっていくわけで、それは理解出来ますけど、永続重合だの、仕舞いには裏表紙のその〈言葉〉ですから、なにがなんだか。でも先生、高分子ポリマーなんて昭和三十年代に見つかった物ですよね?おかしくないですか?メモには何処を見ても日付はないけど、瓶の方には微かに〈昭和十六年〉って――」
千葉は裏表紙を見た。そこにはただ一言〈危険・不滅の化合物〉と書かれていた。重邦は小瓶を見つめた。内容物は僅かに粘性を見せているが透明度が高い。見た感じは、シロップだ。沈殿物は無い。
「状況的に、この小瓶がメモに書かれている物質だというのは疑えないと思うわけです」
千葉は腕組みして瓶を見た。
「それで、これを調べて欲しいというワケか」
千葉はメモをテーブルに置き、椅子に浅く掛けて天井を見た。
「はい。先生のお知り合いとかで、こういった物を調べられる方が居たらお願いしたくて」
「うん」
目を閉じて思案する千葉の次の言葉を待った。
「大学の研究室に先輩がいるんだが、預かってそこに回しても良いかな?」
重邦は頷いた。
「勿論です。保管してあった事から見ても、意味のある物だというのは想像出来ますけど、この先もずっと金庫の中に――というわけにもいきませんから」
千葉は引き出しを開けてメモと瓶を仕舞った。
「興味深いし、今夜早速先輩のところに行ってみるよ。何か結果が出たら報せる」
そう言い、鍵を掛けた。
重邦は頭を下げ、教官室をあとにした。
夜、テレビを見ていると速報が入った。
〈今夜八時ころ、東京都立川市の黎都大学校内で事故発生。近隣に避難指示が出されました〉と流れた。
黎都大が千葉の母校だと知っている重邦は、携帯電話で千葉を呼んでみたが応答はない。何度かけ直してみても繋がらない。
不意に、母親の好きなドラマから、画面は突然切り替わった。カメラも慌てているらしく、夜空を映したかと思えば、遠い都会の夜景を捉えたりしている。ようやく激しく明滅するパトライトの中にレポーターらしき男を捉えた。スーツにヘルメット姿でマイクを持っている。イヤホンの調子を確かめつつ後方を振り返っていた。指示があったらしく、慌ててカメラを見た。
「緊急です、緊急です!ここで緊急ニュースをお伝えします。私は現在、都内立川市にある黎都大学理学部キャンパス前に来ております。壁の向こうは黎都大学です。今夜黎都大学内において激しい爆発があったということです。消防や警察が現在調査しておりますが、現場には何かの焦げる匂いが漂ってはいますが、火の手は見えません。詳しい事は判っておりませんが、ただ――」
「どけ!マスコミ、どくんだ!」とマイクが拾う。レポートをしていた男は思わずよろけ、ガードレールにぶつかった。どこか痛めたらしかったが、レポートを続けた。
「ご覧いただけますでしょうか?あれは……自衛隊の装甲車です」
緊急速報の文字が画面一杯に現れた。手書きのそれは、〈角坂総理大臣は今夜、自衛隊に対して治安出動を命令!〉という一文だった。
「治安――出動?」
重邦も知識としては知っていた。戦後の日本に自衛隊が置かれて以来、一度として発出された事のなかった命令だ。それは武装した自衛隊の市街地展開を意味している。装甲車の後からも、機能も知らない特殊車両が数台、検問で封鎖された大学構内に入っていく。一部車両は巨大すぎて通れず、門を破壊して瓦礫を踏み越えていった。
「これが……東京でいま起きている事態です!信じられない……ああ、また壊れる……」
レポーターの声は震えていた。スタッフの頭が映り込んだ。スタッフはレポーターに紙片を渡した。それを見たレポーターは、一瞬呼吸すら止めたように見えた。改めてカメラを見た後、ゆっくりと読み上げた。
「たったいま入った情報です――。と、都内に……」
唾を飲むのが判った。
「外出禁止の指示が――」
それとほぼ同時に警察官と自衛隊員が叫ぶのが聞こえた。
「民間人は避難!離れて!」
拡声器からは尋常ではない音量で声が流れた。上空には数機のヘリコプターが旋回を始め、地上に向けてサーチライトを照らしている。
「地域住民の皆さんは、慌てず、自衛隊の指示に従い、直ちに避難してください!外出禁止令が敷かれましたが、この地域からは可能な限り遠くへ!移動に際しては車両は使わずに慌てないよう――」
その瞬間、構内で爆発らしき明滅が見えた。
小さな悲鳴が起きた。レポーターたちもすでに収拾の付かない状態にあった。道路に落ちたマイクを、転がったカメラがまだ撮っていた。悲鳴と怒声が入り交じり、夕方から広がっていた暗雲からは小雨が落ち始めていた。
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