MUD EPOCH~泥の時代

狭霧

第1話 最終兵器、その名は悪鬼

 昭和十五年――

 原内閣の〈郡制廃止〉を受け、それまで東京府北多摩郡立川町だった地域は東京府立川市となった。その立川市の北部を流れる玉川上水近くに《鴨神工業》と書かれた控えめな看板が掲げられていた。

 工業――とはあるが、何を作る会社かは一言も添えられてはいない。中から音も聞こえず、人の出入りも見られない。建屋は鉄板とおぼしき装甲に覆われている。それ自体は一見すると異様だが、門の内側には幾つもの鳥かごが掛けられている。何十羽もの小鳥が喧しく囀る様を横目に見て、前川忠五は玄関へと向かった。

 ドアの脇に、まだ珍しいブザー式呼び鈴が付いている。押すと、待たされることなくすぐに開いた。顔を出したのは顔色の悪い青年だ。研究助手だというのは何度か訪れているので忠五にも判るが、名は知らない。それは、ここで働く全員に言える事だったが。

「お待ちしておりました」

 青年はそう言い、忠五を中に招いた。ドアを閉じる際には、外を注意深く見回していた。

 中は意外なほど明るい。見上げると、天窓が幾つも取られている。差し込むのは初夏の日差しだ。

「どうぞ」

 階段脇のドアを開けると、先は薄暗い下り階段になっている。青年が先に立ち、階段を下りた。下りた先は突き当たりで、正面には鋼鉄製の頑丈そうなドアがあるが、取っ手の類いは見えない。どうやって開けるのか、忠五も開けたところを見た事がないので判らない。その横に、ありきたりなドアが一枚あった。ノックをし、青年はそれを開けた。薄暗い部屋は奥に長く、右手の壁は奥まで続く腰高窓になっている。その中ほどに痩身長躯の男が立っていた。男はガラスの先を見下ろしていた。青年が男に近づくと男は忠五に視線を向けた。一言二言会話し、青年がその場を立ち去ると、男は忠五に手招きをした。

「ご無沙汰しております、《先生》」

 深々と頭を下げる忠五を見もせずに、《先生》と呼ばれた男は「うん」と応えた。鼻の下の髭は豊かだが白く、《先生》がある程度の年配だというのは判る。だが、実年齢どころか、名前もなにも忠五は知らされていない。ただ単に〈生命工学の世界的な権威〉としか教わってはいないし、それ以上知りたいと思ってもいない。

「急がすねえ」

 《先生》は表情を変えずにガラスの先を見つめたまま言った。分厚い頑強の奥で、細い目が瞬きをする。

「申し訳ありません。何分、状況が――」

「知らんよ、そんなことは」

 《先生》はガラスを離れて椅子に腰を下ろした。それに合わせるようにコーヒーが運ばれてきた。運んできたのは二十代前半の女だ。女が微かに頭を下げて去って行くと、《先生》はカップを手に取った。

「安定度数は七十八ほどだ。この分なら旧盆頃には目標の九十超まで行けると思うんだ」

「それは配備可能という意味にとってよろしいのでしょうか?」

 忠五の言葉に、湯気の向こうで細い目が光った。どうやら笑っているらしい。

「バカな事を…。いいかい?実験室でいくら安定度数を計測しても、それはあくまでも目標値に対しての達成度合いを表しているだけだ。訊くが、兵士になりたいという若者を〈目標値が、歩いて銃を運べることが百〉としたとき、それを戦地に連れて行って何かの役に立つかい?ただの標的かお荷物じゃないのか?まあ、現状はそんな事しか軍部に出来る事もないのだろうがね。我々の言う安定度数の百は、自律的な存在能力の維持を意味しているだけだよ」

 忠五は返事をしない。うかつな事を言って、何処に耳が潜んでいるかも判らないのだから。

「ご高説は承りますが、上層の求めている〈結果〉はただ一点――一日も早い実用化水準にしていただくことです」

 白い髭を撫で、《先生》は鼻で吐息を吐いた。

「まあ、それこそ承っておくよ」

 忠五はガラスに歩み寄った。特別製だと聞かされた事がある。ガラスの内側には総ガラス張りの個室がズラリと並んでいる。それぞれに〈一号〉〈二号〉と書かれているが、全部で幾つあるのかは分からない。個室は忠五たちが居る床より二メートルほど低い場所に作られ、個室のガラスも同じ特注ガラスだ。それらはすべて高さ一メートル五十センチ弱で、広さは畳一枚もない。その周囲には無数の実験機材が置かれ、研究員たちが立ち働いている。

 忠五は、その個室で生み出される奇妙なものをこの半年見てきた。〈一号〉は反応こそあったが、結局形になる事はなかった。〈二号〉〈三号〉はドロリとした塊にはできたが、自律的に動く事はなかった。その後、〈四号〉〈五号〉と進むうちに、それは期待されていた〈形〉になっていった。丈は幼稚園児ほどで、ゆっくりだが動く事も出来た。動くと言っても、その場でゆらゆらと揺れるだけではあったが。

――遅い…。こんな開発速度では、とても上層の望む時期までの完成など叶うはずもない。

 忠五は片眉を上げ、渋面を作ったのを思い返していた。

「開発には多額の資金を投入しています。とにかく結果を出して頂かなくては――」

「田植えしたばかりの水田に向かって、明日には米になれ――と、言っているようなものだな。君等はカネさえ出せば結果はすぐ得られると考えているようだが、科学とはそんな単純なものではない。仮に、私に文句があって誰か他のものに首をすげ替えたとしても、米がなるのは秋だ」

 コーヒーを啜り、冷笑を見せた。

「君等が美味しい握り飯を食えるのは、その先だよ」

 忠五は振り返り、《先生》を睨んだ。

「ではお聞かせ願いたい。実用化の具体的時期を、《先生》はいつ頃と踏んでおられるのですか?」

 歩み寄った忠五の軍靴に視線を落とし、《先生》は眼鏡を押し上げて忠五を睨み上げた。

「言ったろう?実るのは秋だと。ただし、それは早くて来年の――だ」

 視線がぶつかり、沈黙が続いた。次ぎに口を開けたのは忠五だった。

「判りました。その旨、そのまま上層に伝えます」

「それしかないね」

 忠五は小部屋をチラリと見た。空いているのは〈六号〉と〈七号〉だ。それまでの五室を空にしないところを見ると、それはそれで保存する意図があると言うことだ。

――この九月が目処か…。

 忠五は頭を下げ、きびすを返してドアに向かったが、足を止めた。振り返らずに「そう言えば」と天井を仰いで言った。

「米国において新型爆弾の開発をしているらしい――という極秘情報が入って参りました 」

 振り返り、ニヤリと笑った。

「科学とは、まさに収穫競争のようですが、先を越された側は収穫などする前に滅びそうですな。そうなれば開発などという時間も徒労の遊びだったことになる。その結果は即ち、科学者の能力の差という話になるのでしょうな」

 そう言い残すとドアを開けて出て行った。

「ふん!若造が、知った風な事を」

 離れて機器の傍に居た女が暗がりから《先生》に歩み寄った。

「原子爆弾の事でしょうか」

「それしかあるまいよ。いま理論的に可能な最大規模の爆発物と言ったら」

 《先生》は立ち上がり、ガラスに近づいた。

「原子爆弾か――バカな話だ。いかに核を制御しようとも、制御不能な要素の排除は不可能だ。つまり、核を使いたいと思う人間の欲望はね。まあ、だとしても、これが完成すれば局面は激変するだろう。例え相手に原子爆弾があろうと、何ら問題ではない。そもそも原子爆弾を使えば、その後その土地の利用は一定期間極めて困難になるはずだ。そんなものは〈対象の消滅〉という脅しには使えても、使った国にとって何の益もない。ただ殺したいだけなら別だがね。だが我々の研究は違う。完成の暁には、世界中が日本にひれ伏すしかないだろう。破壊もされぬまま、降伏するんだ」

 空き部屋に見える〈六号〉と〈七号〉を見つめる目は冷ややかに燃えている。

「午後から、さっき生まれた〈九号〉の自立歩行試験を行う」

 感情を感じさせない声に、女は一礼をしてその場を離れた。

 

 数日後の新聞に大きな見出しで『米内内閣総辞職』の文言が踊り、六日後の七月二十二日には『第二次近衛文麿内閣誕生』の号外が配られた。陸相に任命されたのは第一次近衛内閣で陸軍本部長と次官の任にあった東条英機だった。東条は次官時代、対北方ではソ連と、対南方においては米英との二面戦争を避ける事は出来ない――と唱え、新聞記事になった男だ。本格戦争に突入すれば日本の敗北は必定、それを避けるにはアメリカとの妥協点を探り、場合によっては派遣している兵の撤退も視野にいれるべき――という近衛側の案に対し、戦闘あるのみを訴える東条は、時の総理である近衛と対立を深めていた。


 明けて昭和十六年、六月――。

 陸軍参謀本部詰めの課長職に昇進し、雑事に追われる忠五だったが、久しぶりに自身で『鴨神工業』に足を運んだ。世界情勢が混沌としていく中、陸軍による〈計画完成の要請〉はすでに命令と化していた。

「だからいつ動くのかと訊いている!」

 空の個室を見下ろしたあと、机に足を載せ、出されていた茶を蹴り飛ばして前川忠五は怒鳴った。立って見ているのは、《先生》だ。

「判っていないようだから教えてやる!軍には幾つもの〈開発計画〉があるんだ。ここもその一つ。そう、一つに過ぎない!そこで安穏と科学遊びをし、毎晩酌婦で酒を楽しめる身分にしてやったのは誰だと心得ているのか!」

 机を蹴り飛ばし、立ち上がった。《先生》は沈黙し、床に流れる茶を見ていた。その表情は、憔悴という言葉がよく似合っている。元来痩せた男ではあるが、骨の上に皮を張り付けただけの顔が青白く薄暗がりに浮かんでいる。

「我が国はいま存亡の危機を水平線の先に見据えている。敵国とは奪うか奪われるかしかない!話し合い――などとほざく腑抜けどもも居るが、話し合っている間に何もかも奪われ、亡国となった後に後悔しても時はすでに遅い。先んずるより他に道はない。それには、良いかね《先生》、この計画が成功する以外の手はないんだよ。それがどうだ!翌年の秋には米が食えるとか言っていたが、このざまは!」

 灰皿を掴み、個室を見下ろす特注ガラスに投げつけた。瀬戸の灰皿は二つに割れて跳ね返った。

「事はもう、急を要するなどと言った暢気な時期ではなくなってるんだよ」

 忠五はサーベルを腰に差し、背を向けて言った。

「今月中だ。今月中に、完成しましたという連絡をよこせ!それ以外の連絡は不要!ただし――」

 振り返った忠五は猛禽類の眼差しで睨み付けた。

「完成しなかった場合は、相応の責任を取って頂く」

 忠五が出て行くと、女は灰皿を拾い、割れ目を合わせてみた。

「焼いた土は割れると元に戻りませんね」

 個室に視線を送った。

「アレのようにはいきません」

 ガラスに《先生》も歩み寄った。

「何故仰らなかったのですか?完成している――と」

 女は《先生》の枯れきった横顔を見た。心労は、開発中よりもむしろ完成後に訪れていた。

「言えるものか」

 《先生》はガラスに手を突き、個室を見下ろした。中は空に見える。事実、先刻まで居た忠五も空だと認識をした。だが《先生》は呟いた。

「こんな恐ろしいものになるとは――これでは、悪鬼だ。これが世に出れば人類は……」

 空に見える個室の床が僅かに波打つように見えた。


 同年十二月八日未明――日本はハワイ、オアフ島の真珠湾に奇襲を掛け、第二次世界大戦という混沌に飲み込まれていった。

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