第9話 ハンと親父

 何かおかしい事を言っただろうか。堀田は自分が言った言葉を思い返したが、笑いを取るつもりで言った言葉はない。それでも沙良が笑うと、智子も笑い出している。ただ瑞希だけは、他の三人の間を視線が忙しく行き来していた。

「何が面白かったんですか?」

 わからない事は聞けばいい。堀田は沙良に何故笑うのか尋ねた。

「そんな今更って思ってさ。それにハン君らしくないんじゃない? そんなんで働くの諦めてるなんて」

「俺らしくない? 沙良さん、そんな言うほど俺の事知らないでしょう?」

「そんな事ないよ。付き合いが短くたって見えるものは見える。付き合いが長くたって見えないものは見えない。私だって伊達に社会人長くやってないのよ? そもそも自分の人生でしょ? 親の意見も大切だろうけど、少しは自分で考えなさいって話ですよ」

 沙良は、わざと堀田の口調を真似て言った。それを横で聞きながら智子も頷いている。

「そんなに言うなら俺の過去の失敗談聞きます? それ聞いたら『働け』なんて言えなくなりますよ?」

 沙良は「ふんっ」と鼻を鳴らした。

「失敗ってわかってるんなら上等よ。仕事や上司のせいにして逃げるガキたちに比べたら百倍ましね。それと、失敗したから働かないって言うなら、私と、ともちゃんの失敗はどうなるの」

 堀田がその二人の顔を何度か見て頭を掻いた。

「あー、人の事なんかわっかんない!」

 そう言って立ち上がると、堀田は蔵から出て行ってしまった。

「あ……逃げちゃった。沙良さん、さっきのなんなんですか? なんとか自閉症って」

 瑞希がテーブルの上のグラスを片付けながら聞いた。家主が出て行って取り残された事には誰も頓着していない。

「発達障害だけど……あまり気にする事ないよ。なんであってもあれがハン君なんだし。『人の事なんかわかんない』なんて言ってたけど、わかってない事ないでしょうに。逆に自分をわかってもらえてないって意識がどこかにあるんでしょうね」

 沙良の話を盆にグラスを乗せたまま立って聞いていた瑞希は、思わず感嘆の声を漏らした。

「わあ……。なんか今更ですけど、お父さんが沙良さんを推すのにも頷けちゃった。沙良さん、なんか凄いです」

「あら、沙良さんだけ? 私は?」

 智子がもの欲しそうな顔をして言ったが、瑞希は智子の顔を見て口をパクパクさせるだけで言葉が出てこない。

「ないか……。そっか、何もないか……」

「ともちゃん、瑞希ちゃんを困らせないの。ともちゃんはよく気が付くし、人と人の間に立つのが得意じゃないの。それより、どうする? ハン君、スマホも置いて出て行っちゃったけど……」

 沙良に褒められてご満悦の智子が、自分の横に置いてあった袋を持ち上げた。

「とりあえず、ご飯作っちゃいましょうか。お腹が空いたら帰って来ますよ」

「猫じゃあるまいし……」

 智子にそう言って笑った沙良も「よいしょ」と、堀田がいたら馬鹿にされそうな掛け声と共に立ち上がり、蔵に置きっぱなしにしているエプロンを腰に巻き付けた。


 グリーンのポルシェ356カブリオレ。ハンドルを握る堀田は、幹線道路を北に向けて走っていた。走り出した二十分後から、流れる景色が田園風景に変わっている。

 堀田がこの道を走るのは二年ぶりだ。五十年以上前に作られたシンプルな車体は、一六〇〇CCの非力なエンジンでも軽やかにタイヤを回す。だが、堀田の重たい気分を風に流すには少々頼りなかった。

 正面に巨大なクロマツが姿を現し始めた。旧街道の一里松としての働きをしていたクロマツは、今は堀田家のシンボルと化している。

 その松の幹に寄り添うように車を停めると、ちょうど祖母が顔を出してきた。

「ただいま。……親父は?」

 堀田はエンジンを切って、車からは降りずに祖母へ父の事を恐る恐る聞いた。

「あら、明憲。どうしたの?」

「いや、だから親父は?」

「もうすぐ帰ると思うけど。今何時だい?」

「五時半。……じゃあ、ここで待ってるから」

 そっけない堀田に祖母は肩を竦めて、庭の隅にある小さい畑へ向かうと、青ネギをいくらかハサミで切って家の中へと戻っていった。

 たった二年しか経っていないというのに、クロマツの幹が一回り太くなったように堀田には見えていた。最後に帰ったのは、堀田が大学卒業後に勤めた商社を辞めた時だ。その時に父から言われた言葉がいつも頭の片隅にある。

 ――外で勤めるのは諦めろ。お前は普通じゃないんだから。

 仕事はできる。ルールも守れる。それでも普通ではないから働けないという事に、言いようのない憤りを感じた事もある。だが、父が言った通り、働く事を止め、考える事を止めて生きやすくなったのも事実だ。

「月見草松と待てど待宵草、明けて朝顔天道虫……なんだったっけ?」

 ふと頭に浮かんだどこかで聞いた歌を堀田が呟くと、一台の軽トラがポルシェの手前で曲がって門を潜っていった。

「無視かーい!」

 明らかに一度視線が合った父は、堀田を気に止める様子もなく敷地内へと入った。それを追って堀田も屋敷に足を踏み入れた。

「親父! 話がある!」

 軽トラのドアを開けた父に叫びながら駆けよると、明らかに驚く父の顔があった。

「明憲……どうした? 久しぶりじゃないか。元気だったか?」

 畑から返ってきた父は、日に良く焼けていた。ノースリーブのシャツから伸びた腕は、このまま体当たりをしても、簡単にはじき返されるだろうと容易に想像できるほどに鍛えられている。だが、メガネの奥の目を細めて自分を見る様子に、堀田は父親の老いを感じた。

「親父、メガネ合ってないじゃねえの? 次の免許の更新までに作り直しなよ」

「なんだ、そんな事を言いに来たのか?」

 堀田は父にそれを言いに来たのだろうかと、自分でも考えた。が、すぐに首を振って、本来の目的を果たした。

「俺、働きたいんだけど」

「ん?」

「だから……。俺、もう一回働いてみようかと思う」

 改めて堀田の決心を聞いた父は、それでも首を傾げていた。

「わざわざそれだけを言いに来たのか? もう子供じゃないんだから、そのくらい自分で決めたらいい」

 今度は堀田が、予想とは違った父の反応に首を傾げた。

「いや……、親父がもう雇われるのは諦めろって言ったじゃないか」

「そんな事言ったか? どこで? いつ? 何年何月何日何時何分何秒?」

「言ったよ。二〇一四年六月十四日の晩飯の時だから七時ぐらい。何分何秒までは憶えてない」

 堀田の答えを聞いても、父はピンと来てない様子だった。

「その日のカープは?」

「逆転負けで交流戦九連敗目……」

 堀田は当時の事を想い出して頭を抱えた。その日の父はやけに機嫌が悪く、酒を浴びるように飲んでいた。

「残念だったな。次の日だったら、言った事も憶えてただろうに。いや、そもそもそんな事言わなかっただろうな。あの日は最高だった。七回だったか? ブラッドの満塁弾……」

「ちょっ、ちょっと待ってよ。それじゃあ、あの一言はノーカン?」

「あ? ああ。そうだな。憶えとらんし。ノーカンだ」

 シラっと言ってのけた父に、堀田はさらに頭を抱えた。

「なんだよ。俺のこの数年間って、何だったんだよ……」

「ちょっとだけだろ。いいじゃないか。父さんは若い時八年間放浪していたんだぞ」

 この男の話をまともに聞いてはいけない。堀田は、目の前で白い歯を見せて笑っている父の顔を見てそう思うと、蔵に客を置いて出てきた事を思い出した。

「後で電話する。家に友達を待たせてるんだった」

「なんだ、飯食って行かないのか?」

「いい。多分帰ったら作ってあると思うから」

 それを聞いた父がわざとらしく口笛を鳴らした。

「なんだ、友達って女か?」

「ああ。三人いる」

 父がさらに口笛を鳴らした。

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