第8話 堀田明憲・二十四歳無職

「はぁ……」

 堀田が溜息を吐く前で、十代、二十代、三十代と、世代を超えた女たちのトークが繰り広げられている。

「ムリムリムリ、無理! 絶対無理!」

 元家出娘と、その父親の元愛人二人。最年長の沙良が後ろにのけ反って、顔の前で手をブンブンと振っている。

「はぁ……。なんで巻き込むかなあ」

 繰り返された堀田の溜息に、顔の前で振っていた沙良の手が堀田の頭に伸びて、ペシっといい音を立てて額をはたいた。

「なあ、ハン君よお。あんたが話をややこしくしたんでしょう? ちょっとは考えてくんないかなあ?」

「その言いがかりって酷くないです? 元々沙良さんがあのおじさ……いったあ!」

 今度は智子の拳が堀田の額に命中した。

「沙良さんは悪くない! もちろん、私も悪くない。瑞希ちゃんだって悪くない」

 三條はこの蔵で堀田と話した後、何を思ったか二十年以上勤めた会社を退職して独立した。瑞希が言うには、それもこれも堀田に感化されたからだという事らしい。

「でも、俺だって別に悪くないでしょう? 過去のむにゃむにゃを考えなければ効率はいいと思いますし」

「普通はその『むにゃむにゃ』を無視できないの! あり得ないの! わかんないやつだなあ……」

 沙良は、のけ反らせた上体を支えていた手を床から解放して、その場にごろりと転がった。

「やだやだやだ……なんなのよもう」

「そんなに嫌ですか? この前も『三十路過ぎた女の再就職は厳しいわあーん』なんて言ってたじゃないで……ぐふっ」

 今度は沙良の足が堀田の腹にめり込んだ。

「『三十路過ぎた』って、本人しか使っちゃダメなのよ、ハン君。覚えといてね」

 三條は、演奏されている楽器そのものをスピーカーにするという新しい技術を使っている企業と提携して、専用のソフトを開発・販売する会社を立ち上げた。その新会社の社員として、沙良と智子を迎え入れたいと考え、家族に相談したらしい。

「空気読めって私も言ったんですよ? でも、お母さんも好きにすればとか言っちゃうし。お父さんは『あの二人以上にこの仕事ができる人材を見つけ出す自信はない』とか言っちゃってるし」

 父親がそこまで言う二人を自分の目で見てみたい。そう言って瑞希が堀田に頼んですぐ、無職の三人と女子高生は、無職のうちの一人、堀田の住む蔵に集合していた。

「奥さん……瑞希ちゃんのお母さんもその会社で働くっていうんでしょう? 地獄絵図だよ……」

「ですよね……」

 沙良の嘆きに瑞希も同意している。

 しばらくの沈黙が流れた後、智子がパチンと手を鳴らした。

「そうだ! めっちゃイイ考えが浮かんじゃいました!」

 表情を輝かせる智子とは対照的に、沙良と瑞希は眉間にしわを寄せた。

「ともちゃん、ハン君もそこで働けばいいとか言い出すんでしょ?」

 沙良の言葉に、智子は眼と口を大きく開いた。

「すっごい! どうしてわかったんですか?」

 その反応を見た沙良と瑞希が、通算上演回数三百回超えのミュージカル並に揃った動きで頭を抱えた。

「沙良さんと瑞希さんってそっくりですね。……はっ! もしかして瑞希さんの本当のお母さ……。はい、ごめんなさい、黙ります」

 やはり二人から同じ動きで睨まれた堀田は首を竦めた。

「えー、ダメですかね? ハン君もいたらバランス取れそうな気がしたんですけど」

 智子は冗談でもなくそう言った。

「ハン君が働こうものなら、泥船どころか、鉄の船並にすぐ沈むわよ」

 沙良が盛大に嘆息すると、堀田がその沙良を指さして笑った。

「沙良さん、鉄の船って普通じゃないですか。なんですか? 沙良さんは木の船しか見た事ないんですか?『えー、あんな鉄の塊が水に浮くなんて信じらんなーい』とか言っちゃう感じですか?」

 堀田から執拗に間違いを責められた沙良は、耳を赤くすると、うつ伏せになり両腕に顔を埋めた。

「酷い……。ハン君、酷いよ。人の……人の間違いを笑うなんて……。うっ、ううっ……」

 沙良が肩を震わせて鼻をすすり始めると、堀田は立ち上がって沙良の隣にしゃがみ込み、沙良の肩に手を置いた。

「ごめんなさい、沙良さん。ちょっと笑い過ぎました……」

 沙良は肩に置かれた堀田の手の甲に親指を添えると、内に捻りながら身体を仰向けにした。何が起きているかわからないまま腕を引っ張られた堀田のとぼけた顔の下に、沙良の片足が伸びる。その足で喉元を抑え込むと、もう一方の足は胸に乗せられた。

「そのくらいでこの私が泣くものかあ!」

 沙良がその叫びと共に、堀田の腕を絞り上げた。腕挫十字固めだ。

「沙良さん……。残念ながら痛くないです。むしろ気持ちいいくらいです……」

 沙良の腕挫十字固めは、形だけだった。極めるべきところが極まっていない。

「何二人でいちゃついてるんですか」

 二人のやり取りに、瑞希は笑っている。

「智子さんの案も、案外いいかもしれないですね」

 瑞希の呟きに、沙良と堀田はギョッとした。

「ちょっと、瑞希ちゃん? あなた、三條さんの暴走を止めようとしてるんじゃなかったの?」

「そうだよ、瑞希さん。俺が働くなんてありえなくない?」

 血相を変えて詰め寄る二人に対峙しても、瑞希は身体を引くどころか逆に乗り出した。

「それですよ。堀田も一緒じゃないと嫌だってお父さんに言うんですよ。それで諦めればそれで良し。もし堀田も働くって事になっても、こんなのいたら仕事にならないからすぐ諦めるんじゃないかなって。どうです?」

 瑞希の真面目な顔に、堀田と沙良は顔を見合わせた。

「確かに、それだと丸く収まりそうではあるけど……。本当にハン君が働き出したら、立ち上げたばかりの会社が滅茶苦茶にならない? 三條さんだけならいいけど、瑞希ちゃんたちの生活もかかってるのよ?」

 沙良がそう言って諭しても瑞希は「大丈夫です」と言って引かない。

「俺が働くと、みんな不幸になるよ?」

 堀田の訴えにも耳を貸そうとしない。

「不幸のどん底に転がりそうになったのを止めたのは誰だっけ? それに、何その理由? 堀田が働きたくないだけでしょ?」

 瑞希はそう笑い飛ばしたが、堀田はいつになく哀しそうな顔をした。

「ほんとなんだよ。だから、親からも働くな……っていうか、人様に雇われるなってきつく言われてるんだよね。……ドクターストップならぬペアレントストップがかかってんだ、仕事に関して」

 普段滅多に見せない堀田の表情に、三人は戸惑った。

「何言ってんの、ハン君。働いてみないとわかんないじゃない。私たちと一緒なら、別に大丈夫でしょ?」

 智子が堀田の顔を覗き込んでそう言ったが、堀田は首を横に振った。

「違うんですよ。俺、言ってなかったですけど、高機能自閉症ってやつらしいんだよね」

 それを聞いた沙良が、クスッと笑った。

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