第7話 洋二と瑞希とハン

「ああ、キミのだったのか。進路希望か……。いいなあ若者には夢があって」

 堀田は、プリントをチラッと見て洋二に渡した。

「ありがとうございます。……若者って、お兄さんもまだ若いじゃないですか」

 洋二がお礼以外の言葉を続けたのは、家族が帰ってくるまでの時間が退屈だったからだ。洋二には、これからこの変な男と会話して、仲良くなろうなんてつもりは微塵もなかった。

「うん。この前までね、俺も自分の事、まだ若いと思っていたんだよ。ところがさ、こないだ知り合った女子高生の考えている事が全然わからなくって。最近の若いやつは……なんて思っちゃったんだよね」

 たったの一言投げかけただけで、堀田は最近自分の身に降りかかった出来事を淡々と話し始めた。後ろから忍び寄る影にも気付かずに……。

「でさ、いきなり上がり込んでだよ。『シャワー借りる』なんて言うんだよ? しかもその後さ……」

「で、そのすっごくカワイイ女の子がシャワー行ってる間に、その子のバッグ漁って、私のスマホ勝手に触ったんだよねぇ」

「そうそう、ロックしてたんだけどさ、その前に解除するところ見てたからさ、ロック解除して、親に電話して引き取りに来てもらったんだよね」

「……そういう事か。電源入れた後はロックかかってるはずなのになって、気になってたんだよね」

「瑞希さん気をつけなよ。見られたらパスコードの意味なんてないんだから」

 堀田が、後ろから音もなく近づいてきた制服姿の瑞希の方へ振り向いて、ポンと肩に手を置いた。

 肩に手を置かれた瑞希は、その手を横目で見て、ひとつ溜息を吐いた。

「ねえ」

「なに?」

「少しは驚いたら?」

 瑞希がそう言うと、少しずつ堀田の目が見開かれていった。

「うわああああああああああ!」

 洋二は突然叫び声を上げた堀田に驚き、ずっと体の前の方に抱えて持っていたバッグを落とした。そして、慌ててズボンの濡れた部分を隠そうとしたために、余計に瑞希の注意を濡れた部分へと向かせてしまった。

「ほら、堀田がバカでかい声出すから、チビっちゃってんじゃん……」


「すみません、わざわざ」

 洋二は堀田から貸してもらったスウェットを履いて、何もない部屋の真ん中に置かれた折り畳みテーブルの前に正座して恐縮していた。

「あれ? このテーブルどうしたの?」

 瑞希がまだ真新しいテーブルをポンポンと叩いて聞いた。

「えっと、沙良さんが買ってくれた。グラタン作らせてくれたお礼にって」

「グラタンを? 作ってくれた?」

「違う違う。作らせてくれた、だよ」

「なんで? 天使か何かなの、その人? っていうかさ、君は何? 堀田の弟?」

 瑞希は今更ながらに隣に座る洋二が何者か気になったようだ。

「ち、違いますよ! 全然、全くの他人です。……あ、ちょっとすいません」

 ブンブンと顔の前で手を振っていた洋二の前に置いてあったスマートフォンが、テーブルの上で音を鳴らして震えた。

 モニターには真っ白い猫の画像と、「母さん」という文字が表示されている。

「もしもし。うん……。いや、帰ってないんだ、まだ。また鍵失くしちゃって。……公園じゃなくて、公園の近くの堀田さんって人の……え? いや、どうだろう? うん、うん、……わかんない。堀田さんってしか聞いてない。……わかった、ちょっと待って」

「あの、母なんですけど、堀田さんに代わって欲しいって」

 洋二はそう言って、堀田にスマートフォンを渡した。それに彼は怪訝な表情を浮かべながらも、洋二から電話を受け取って応えた。

「はい代わりました、堀田です。……え? そうです、ハンですけど……。嘘ぉ? じゃあ、この子ってタカ君なの? うわあ、世間の狭さたるや! ……おう! 任せときな! うん、ん? うん……ん? ……うんうん。ん? うん。んん? ……うんうんうん。ん? ……ってもういいよ! ぬははははは! わかった、そいじゃまたね、トンビちゃん。ちゃおちゃお!」

 突然のハイテンションに驚く二人をよそに、堀田は「なるほどね」と頷いてスマートフォンを洋二に返した。

「と、いう訳だって。いやあ、世間の狭さたるや……」

 呆気にとられている洋二より早く、瑞希が堀田に突っ込んだ。

「いやいやいや、『狭さたるや』なんて言われても……」

 その続きを、電話が切れている事に気付いた洋二が口に出す。

「全然わかんないです。どういう事です? 母と知り合いなんですか?」

 洋二はそう口にして、我ながら分かりきった事を口にしたと軽く自己嫌悪に陥った。あの電話の会話で知り合いじゃなかったら、いよいよ目の前の男は危険人物だ。

「そうだよ。いつからだったかなあ。俺がこの街に来て、すぐに入ったネットの地域コミュニティで知り合ったから……。もう六年くらいかな」

 六年前といえば、ちょうど洋二の父親が会社を辞めた頃だった。洋二は、堀田と母親との会話の中で出てきた、気になった言葉を聞いてみることにした。なんとなく、スマートフォンの画面に目を落としたまま口を開く。

「タカとかトンビって……」

「うん。トンビっていうのは君のお母さんのハンドルネームで、君の事は昔からタカ君って言ってた」

「やっぱり……。で、さっき母はなんて?」

 洋二が顔を上げると、堀田はまっすぐ射るように洋二の目を見ていた。

「うん、これからもたまに面倒見てやってくれって。勉強とか。大学は国立に行かせるんだって言ってたからね」

「えー、堀田に勉強なんてみれんの? ってか、君も賢いんだねえ」

 瑞希にそう言われて、洋二は少し照れた。

「そんな……。そんなに特別賢いわけじゃないです。……それに僕は高校出たら働きたいんですよ」

 洋二がそう口にしたとたん、堀田の表情が険しくなった。

「トンビちゃ……お母さんの気持ちは知ってるんだよね?」

「そりゃあ、たった今も国立大がどうこう聞きましたけど……。うちにはそんな余裕ないですよ。母の収入だけですし。いつも厳しい、厳しいって言って、節約だらけの生活なんですよ? 大学なんて行けるわけないじゃないですか。今まで苦労かけた分、早く楽にさせてあげたいんです」

 洋二は、話している間にまっすぐ自分の目を見ている堀田の視線に耐え切れず、途中から俯いていた。

「それは嘘だね」

 堀田のその口調に、明らかに雲行きが悪くなってきた空気を瑞希が察して、何とかなだめようとした。

「ちょっと堀田! 人んの事情に首突っ込む癖やめなよ。この子の家にはこの子の家の事情ってもんがあるだろうし」

「瑞希さんはちょっと待って。っていうか、何の用で来たの? あ、やっぱ今はいい。それは後で聞く」

「な……」

 堀田は瑞希の訴えを無視して、洋二の顔を覗き込んだ。

「タカ君、いい?」

「洋二です」

「ああ、ごめん洋二君。洋二君はその節約が何のための節約なのかわかってる?」

 堀田の問いかけに、洋二は答える事なく下を向いたまま黙り込んだ。

「ほらね、わかってんじゃん。ダメだって、自分でちゃんと言って。どうしてお母さんが節約しているのか」

 洋二はさらに頭を落としている。

「言えないのは後ろめたい事があるからかい?」

「別に……そんな事はありません」

 この静かな蔵の中で、ようやく聞こえるくらいの声で洋二が答えた。

「じゃあどうぞ。それが自分で言えないようじゃ、どこの高校選んでもズルズル漫然と過ごすだけになるよ。……僕みたいになっても良いのかい?」

 最後の一言が効いたのか、洋二は顔を上げて、まっすぐ堀田の目を見た。

「僕を……、僕を大学に行かせるために貯金してるから……」

「それがわかっていてどうして期待を裏切ろうとしてるの? 単に勉強がしたくないからって逃げてるだけじゃないの?」

 図星だった。洋二は目の前にいる堀田にズケズケと言われた事よりも、自分の本心を自分自身にも隠して、うわべだけの、耳に心地いいだけの言葉で逃げていた事に腹が立ってきていた。

「大体さ、学校帰りにいつもパン屋によってベーコンエピ百九十円(税込)を買って帰れる君が、経済的理由で大学を……親の夢を諦めるなんて滑稽だよ。今度求人を見て来てみるといい。高卒と大卒との違い。免許や資格のあるなしでの違い。君が将来どんな夢を持っているか知らないけど、夢なんて後から後からどんどん膨らんでくる事だってある。その時に後悔しても遅いんだよ? トンビちゃ……ああ、もうトンビちゃんでいいや。トンビちゃんはその辺がよくわかってるから大学に行くように願ってるんだ。自分が欲しい物は後回しにしてでもね。トンビちゃんのためって言うんなら勉強頑張らなきゃ。でしょ?」

 しばらく部屋を沈黙が包んだ。

 沈黙に耐え切れず、瑞希が口を開こうとしたが、それより一瞬早く洋二のスマートフォンが再び鳴った。

「もしもし……。うん、わかった。すぐ帰る。じゃあ」

 洋二はその短い電話を切ると、鞄を持って立ち上がった。

「あの……兄が帰ってきたようなんで、僕も帰ります。あ、スウェット今度洗って返しますから。……それじゃ、お邪魔しました」

「うん。それ、いつでもいいよって言いたいところだけど、できるだけ早く返してね。それから、トンビちゃんによろしく」

 扉の前で靴を履いていた洋二に掛けられた声に、彼は振り返る事なく、上半身を斜めに傾けて軽くお辞儀をしただけで去って行った。

「ねえ、あの子大丈夫かなあ」

 瑞希が心から心配そうに呟いた。

「ん? まあ大丈夫でしょ。トンビちゃんの子供だもの」

 呑気に返された返事に、瑞希はわざとらしく大きい溜息を吐いた。

「で? 瑞希さんは何しに来たの?」

「あ、そうそう。お願いがあるの……」

「お金ならないよ?」

「そんなの知ってるよ!」

「じゃ、じゃあまさか……」

 堀田がじりっじりっと、後ろに下がる。

「ダメダメダメ! 女子高生とは付き合えないよ!」

 その言葉が出る前の動きで予想できた言葉とはいえ、瑞希は呆れかえった。

「頭ン中お花畑か! 違うって、沙良さんって人と、智子さんって人に会いたいの!」

 堀田は瑞希の真意がわからず、ただ首を捻っていた。

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