第6話 亀山洋二・十五歳中学生
「はぁ……」
ひとり川沿いの土手で小石を蹴りながら帰る学ラン姿の男子中学生が、今日渡されたプリントを手に溜息を吐いた。
「進路希望って言われてもな……」
その溜息を吐いた
「勉強、嫌いなんだよな」
洋二と五歳違いの兄
その姿を見ていた洋二は、当然の事のように大学進学は考えておらず、兄と同じ高校へ進学するのだろうな、と漠然と考えていた。
洋二の家庭は決して裕福ではない。
まだ兄も洋二自身も小学生だった頃に、洋二の父親が精神を病み、普通の会社員として働く道を完全に閉ざされた。
病気になった者に対しての会社の対応は冷たく、法令で定められた手当の期限が切れると、呆気なく彼の父は退職させられたのだ。
父親の退職後から母親が近くの工場で働いてはいるものの、最低賃金に毛が生えたほどの給料しか貰えていない。
そんな環境の中で大学への進学など、初めから選択肢としてあり得なかった。
「奨学金があるって言ったってな、そんなん貰うより働いて給料貰った方が良いに決まってる」
洋二は、ひとり言を溢しながら駅前通り近くのパン屋に向かう。帰りが遅い母と兄を待つまでの腹の足しを求めて。
洋二が店内に入ると、良く見かける変なやつが今日もいた。レジの女性が、その客を見てあからさまに嫌な顔をしている。
「げっ、また来た……」
そのレジの女性は、変な客に聞こえても一向に構わないといった様子で、レジカウンターの中で蛙を踏み潰したような声を発した。
「シーナちゃーん、そろそろ解除しても良いんじゃなーい? 別にアタックもしてないんだから、ブロックする事なくない? アタックにブロック……。アタックに……クックック、ハハハハハ! バレーボールかよっ!」
レジから厨房の中へと逃亡した女性に向かって、その変な客はカウンターで頬杖をついて変な事を言っている。
――ああ、今日もまた一段といっちゃってるな。
洋二はそう思って見て見ぬフリをした。
トレーを手に、ベーコンエピを一本取る。ご飯前に甘ったるい菓子パンは食べない。度々店を訪れる洋二の中学生らしからぬこだわりに、リーンなパンこそパンだと認識している店主は好印象を抱いていた。
「いらっしゃい。今日もご家族の帰りは遅いのかな?」
レジを担当している女性店員が厨房に逃げているので、代わりに店主が洋二の対応に出てきた。
この田舎とは呼べない程度の地方都市では、まだ田舎の人情のような物が残っている。恐らくは幼少期のモラルを駄菓子屋で学んだであろうその店主は、非常に世話を焼くのが好きなようだった。あの変なやつにでさえ、気持ちよくパンの耳を与えている。
「まあ遅いと言っても八時には帰ってきますけど。それまでお腹がもたなくて」
笑顔でそう言った洋二に満足そうに頷きながら、店主が小さな袋に詰められたラスクを一緒に袋に入れた。
「余り物で悪いけどね、サービス」
「ありがとうございます。ここのラスク、母が好きなんで喜びます」
洋二に食べてもらおうと入れたラスクだったのだが、店主は洋二から返ってきた言葉に、益々嬉しそうな顔をして洋二を見送った。
「……あんたも親孝行しなよ」
カウンターに身を乗り出して厨房を覗いている変な客、堀田に対して、半ば呆れたような顔で店主が言った。
「え? 俺ですか? まあ、それは、おいおい……」
洋二が家に着き、鍵のかかったドアを開けようとポケットの中を探る。しかしあるはずの鍵がない。いつも入れているズボンの右側のポケットは、いつ入ったのかもわからない砂の粒が爪の間に挟まっただけで、空っぽだった。
今まで他のポケットにも、鞄の中にも入れた事はなかったが、それでも一応探した。だが、やはりどこにも家の鍵はなかった。
「参ったな……」
洋二はカバンから携帯を取り出して時間を確かめた。
――五時半。
「あと二時間半か。パンでも食って待ってるか」
鍵を失くしたのはこれが初めてという訳ではない。ずっと家に入れなくなるわけではなく、兄か母が帰ってくるのを待っていればいいだけの事だ。洋二は来た道を少し戻り、途中の自販機でコーラを買って公園のベンチに腰掛けた。
パン屋で買ったばかりのベーコンエピを袋から半分出してかぶりつく。香ばしい小麦粉の香りと、少し塩味の効いたベーコンの脂が口の中に広がる。素朴なパンは噛むほどに甘みを増して、少し酸味を放つ酵母の働きにも感謝したくなる。
「母さんも、進学校じゃなくても良いって言ってくれるよな」
コーラで口の中に残った幸福を泡と一緒に胃の中へと流し込み、洋二は進路希望の記入用紙を鞄から取り出して再度眺めた。
洋二の母は、彼の成績が良いことを当然のように喜んでいた。近所には自ら「トンビが鷹を産んだ」と触れ込むほどだ。
洋二も、本当は母が大学に進んでもらいたいと思っている事を感じ取ってはいたが、とにかく苦労はかけたくないと願っていた。父が心を病んでからの苦労を目の当たりにしてきただけに、その思いは他の同年代の誰よりも強い。
パンをもう一口食べようと、袋を少しずらした時、手にしていたプリントが風で飛ばされた。
「あっと……げっ!」
慌てて手元を離れたプリントを掴もうと腕を伸ばした拍子に、ベンチに置いていたコーラの缶を倒してしまった。倒れた缶からこぼれ出したコーラが、洋二のズボンを濡らした。
「なんだよもう……あっ」
風に舞ったプリントの行方を目だけで追っていると、公園の中央にある水道の水を、せっせとペットボトルに入れている人物の足へと張り付いた。その人物がプリントを手に取り、怪訝な顔で眺めている。
「すみません、それ僕のです!」
洋二はズボンの濡れた部分を鞄で隠し、立ち上がって声を掛けた。洋二の声に気付いて振り向いたその顔は、洋二がパン屋で見かける、あの変なやつだった。
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