第5話 父と母と娘とハン

 ――差出人:瑞希 件名:なし 本文:てってれー

「なんだ、これは?」

 贔屓のプロ野球チームが十対一と大量リードをしていたので、テレビはそのままにのんびりと読書をしながら国産ウイスキーを飲んでいた瑞希の父、三條優樹まさきのスマートフォンに謎のメールが送られてきた。

 娘が高校生になってから初めて来たメールだ。

 しかし、三篠には娘が何を言いたいのかまるで分らない。だが、つい先ほど出て行った妻が、その直前に娘へ電話で話した内容が関係あるのは間違いなさそうだった。

「照れか? それとも手がどうかしたのか?」

 三條はメール画面を閉じ、娘へ電話をかけた。

『This is DT-phone. Your call cannot be completed. Because you have dial out of service or switch die』

 圏外か電源が切れているというアナウンスが英語で流れる。

「は? 意味のわからんメール送っといて、電源切りやがったな。……まさか、遺書か?」

 少なからずショックを受けているであろう娘を思い、一瞬暗い予感を抱いたが、あまりのバカらしさに首を振って自嘲した。

「てってれー」が遺書であるわけがない。

 リビングのテレビの中では、ファームから上がってきたばかりの投手が、大量リードの中で最終回のマウンドに上がっていた。

 プロ初マウンドだ。

 三年前の大卒ドラフト一巡目指名の投手。即戦力として期待されていたものの、ルーキーシーズン前のキャンプで肩を故障し、今やっとプロのキャリアをスタートさせる。

 一球目は大きく外れた。マウンドで大きく息を吸って、ゆっくりと吐いている。

 二球目。目つきが変わっていた。アウトローに糸を引くようなストレート。

 キャッチャーから帰ってきた球を、グローブで叩きつけるようにして受け取る。

「こいつはやり直せたんだな……」

 三條は人生の絶頂から一気に転落し、そこから這い上がってきたその投手に自分を重ねた。

「ふんっ。俺は這い上がる努力すらしなかったさ、どうせ、な」

 三人目の打者をファーストゴロに打ち取り、ベースカバーへと走る。その姿も軽やかで、躍動感に溢れ、野球ができる喜びが身体全体から滲み出ていた。

 ファーストから優しくアンダートスされた球を丁寧に受け、ファーストベースを踏んで駆け抜ける。ゲームセットだ。

 その投手が小さく、しかし力強くガッツポーズをした。

 その姿に、思わず三條も拳を自らの手のひらに撃ちつけた。

 ウイニングボールを先発投手に渡そうとしたが、お前が持っていろと言わんばかりに、突き返されていた。

「何やってんだろうな……俺は」

 三條は残りのウイスキーを一気に飲み干し、ソファーに身体を投げ出した。


 ――何故このコはついてくるのかな?

 堀田はスーパーを出た後、いつものパン屋へ向かっていたが、ピタリと後ろをついてくる彼女の事が気になって仕方がなかった。

「あの……君はなんでついてくるの?」

「三條瑞希」

「ん?」

「さんじょうみずき。私の名前」

「ああ、どうも。堀田明憲です。ハンって呼んでね」

「別について行ってるわけじゃない。あたしが行こうとしている方に、あんたが先に行ってるだけ」

 ――またまたわかりやすい嘘を……。さっき俺が公園で水汲んでた時、ベンチに座って待ってたくせに。

 とは、堀田は口に出さなかった。

「まあ良いけどね。ここまで来てどっか行かれたんじゃ、そっちが気になってしょうがないから」

「堀田は何歳?」

「呼び捨て? いきなり? まあいいや。二十四歳だけど」

「ふーん……」

「…………」

「何よ?」

「なんでもありません……」

 しばらくそっとしておこうと、堀田は瑞希の事はとりあえず忘れて、パン屋でパンの耳を貰い、蕎麦屋で天ぷら用の廃油を貰い、川土手で野草を摘んで自宅の蔵へと帰った。

 白壁の蔵の扉に付けられた大きな南京錠の鍵穴に、堀田がポケットから出した鍵を差し込む。その後ろには、相変わらず瑞希がついて来ていた。

「三條さん、もう帰ってご飯食べた方がいいんじゃないの?」

「ここに住んでんの?」

「あれ、俺の質問に答えが返ってこないな……。うん、ここに住んでるけど?」

 堀田が扉を開けて蔵の中に入ると、当然のように瑞希も入ってきた。

「ここってお風呂あんの?」

「シャワールームなら。まあ見ての通りなんもない所ですよ。……ねえ、ケータイも電源切ったままでしょ? 家の人、心配してるんじゃない?」

 堀田の呼びかけは相変わらず無視されているようで、瑞希は蔵の中をキョロキョロと見渡している。

「どこ?」

「はい?」

「シャワールーム。あのドア?」

 瑞希が不自然に出っ張ったスペースに取り付けられているドアを指さした。

「そうだけど……ん?」

「借りる」

 瑞希は肩から下げていた小さな鞄をストンと床に落とし、その上に上着を脱ぎ捨てて、鞄の上に無造作に置いた。そして無言でシャワールームへと向かう。

「シャワー浴びるの?」

「なに、ついてくる気?」

「いえ、どうぞおひとりで……あっ」

「ありがと」

 堀田は自分をまだ若者の部類だと思っていたが、この時は最近の若者の考えている事はわからん、と心から思った。

 シャワールームのドアが乱暴に閉められると、僅かに衣擦れの音がしたのち、シャワーの水がシャワーカーテンを叩きつける音がした。

 堀田は床に置かれた瑞希の鞄へと目を向けた。

「違法性阻却事由の何かが適応されますように……」

 そう呟きつつ堀田は瑞希の鞄へと手を伸ばした。上着を取って畳み、鞄の横へ置く。鞄の口を開けると、目当ての物は一番上にあった。

 スマートフォンを手に取り、素早く操作する。

「ごめんねえ、ロック解除するところ見ちゃったんだよね」

 暗証番号を入力してロックを解除し、糞オヤジと入力されたメモリーを呼び出し、通話ボタンを押す。

 呼出音が鳴る前に、電話は繋がった。

「おい、あのメールなんだ? 今どこにいる?」

「俺……、私はお嬢さんをお預かりしている者です」

「ん? お前誰だ? 瑞希はどうした?」

「ああ、お嬢さんは今、身体を綺麗にしている所ですよ」

「……」

 堀田は、なんとなくシャワーを浴びている、と言うといやらしい気がして遠まわしに言ったつもりだったが、言い方を間違えたのではないだろうかと、少し後悔した。

「今どこにいる? そこはどこだ!」

「落ち着いて下さい! 警察になんか言わないで下さいよ。三丁目の公園あるでしょ? コンビニの正面の。そのすぐ横に大きな日本家屋があります。その敷地内の蔵、そこにできるだけ早く来て下さい」

「わかった、すぐに行く! 警察には連絡しないから、娘には手を出さないでくれ!」

 堀田は首を傾げた。また言い方を間違えたか、どう考えても誘拐か何かと勘違いされているような反応だった。

「ま、いいか。警察には言わないって言ってたし」


「なに、この匂い?」

 シャワーから出て来た瑞希が、バスタオルで髪を乱暴に拭きながら言った。

 キッチンでは堀田がパンの耳を揚げている。

「食べた事ない? パンの耳揚げたやつ」

 瑞希はその言葉には耳を傾けず、部屋の隅に移動している自分の荷物に視線を落とした。

「畳んでくれたんだ。……鞄、触ってないよね?」

 平静に、平静に。そう心の中で唱えて、堀田は透明のビニール袋に、粗熱が取れたパンの耳と、賞味期限が少し切れたシナモンシュガーを入れて、シャカシャカと音を立てて振りながら答えた。

「スマホなんか使ってないよ」

「……」

 瑞希は慌ててスマートフォンを取り出し、電源を入れた。直後に顔が引きつる。

「なに、この発信履歴! なんで糞オヤジにかかってんのよ!」

 瑞希がそう叫んで堀田に掴みかかったのと、蔵のドアが開いたのは同時だった。

「何やってるの! 瑞希!」

 瑞希のスマートフォンを握りしめたまま振り上げられた右腕は、その声の主を見ると振り下ろされる事なくだらりと垂れ下がった。

「ママ……」

 瑞希の母は、ずかずかと土足で部屋に上がって瑞希の腕を掴むと、そのまま瑞希を外に引き摺りだそうとした。

「離してよ! あたしはママにもパパにもついて行かないから!」

 ――パシン!

 蔵の厚い壁に僅かな残響を残して響いた音は、堀田の手のひらと瑞希の頬がぶつかった音だ。

「あ、あれ? ご、ごめん! なんか手が勝手に……」

 母親もどういう状況なのか頭の回転が追いついてこない様子で、しゃがんで顔を覆い泣く娘と、両膝を折って腹這いになり、頭を抱え込んで言葉になっていない後悔の呻き声を上げる男を突っ立って見ていた。

 ほどなく蔵に新しい客が現れた。

「瑞希! 無事か?」

 その声に堀田が顔を上げた。

「お、お前は沙良の……」

 三篠が見たその顔は、つい最近送られてきたメールに添付されていた写真に写っていた顔だった。


 堀田は三人と向き合って座ると、瑞希がこの蔵に来るまでの経緯を話した。両親に挟まれて座る瑞希は終始俯いたままだ。

 両親はチラチラと娘の顔を見ていたが、その表情も険しかった。

「話はわかった。勘違いして申し訳ない。ところで堀田君、君に訊きたい事があるんだが……。あかね、ちょっと待っててくれるか」

 そう妻に言って立ち上がろうとした三條を、堀田は制した。

「いいえ、それもこの場で話された方が良いですよ。恐らく三篠さんの家庭がこうなった原因に関係ある話でしょう?」

 堀田の鋭い眼光に、立ち上がろうとした三條は再び静かに腰を落とした。

 その時、三條の視界の隅に、見覚えのある愛情を注いだものが飛び込んできた。

「二十五番ト短調……バーンスタイン指揮……」

 堀田も三篠の視線を追って、同じものを見る。

「ああ、好きなんですよね、バーンスタインの甘ったるい位のレガートが。モーツアルトの交響曲の中でたった二つしかない短調のうちのひとつ。なのに、悲壮感が少ない。特に第一楽章、最後のコーダからの美しさは最高です。……で、沙良さんと智子さんの件ですよね?」

 三條は目の前でのほほんとした様子で座る今時の若者が、自分が八〇年代後半に手がけた作品をこういう風に評するのが意外だった。嬉しさとはどこか違う驚嘆だ。しかも、自分のたった一言の呟きで、全てを悟っているようだと感じていた。

 三條は、大人しく堀田青年と話す事にした。これもいい機会だと腹を据えて。

「私は理想を追い過ぎた。時代の流れは敵だと思っていた。自分の価値観とプライドを無理やり混ぜ込んでそれを周囲にただまき散らしていたんだ」

「それは勝手な理想ですね。あなたの目標として胸中に静かに持っておくべきものです」

「ふん、そうはっきり言われると腹も立つが……。確かにな。そのせいでデジタル配信に力を注ぎ始めた会社と溝ができ始めた。その溝を手軽な女性で埋めようとしたのは私の弱さだ」

 妻であるあかねは、じっと三條の話に耳を傾けている。その表情に動きはない。

「それもです。弱さを持つのは誰でも同じですよ。一番の罪は真正面からぶつかってきた相手から逃げて、全く向き合おうとしなかった事ですよ。奥さんは今まで、ただ我慢していたんじゃない。あなたが気付くまで根気よく向き合っていたはずです。そうですよね? そして、まだ三條さんの事を愛している。だからこそ、三條さんからの電話にもすぐ出て、ご主人よりも早くこの場所に来た」

 妻のあかねは、膝の上で握られていた手に力を込めて黙っている。

「三條さんは楽曲の理解より、もっと理解すべき事があります。音のバランスよりも、もっと注意を向けるべきバランスがあります。仕事は自分だけのモノじゃないですよ。家族を支える手段でもあるという事を忘れないで下さい。働いてもいない私が言っても説得力ないかもしれませんけど」

 三條は堀田の言葉を静かに聞いていた。その目はじっと妻であるあかねの、握りしめられて白くなってゆく手に向けられていた。

「あかねは、何か私に言う事はないのか? 言いたい事ならいくらでもあるだろう」

 三篠の言葉に、あかねは俯いたまま小さく呟いた。

「……ってよ」

 その声は小さく、聞き取れない。

「なんだって?」

「あなたこそ私に言ってよ!」

 投げ捨てるように言ったその言葉でも、三篠はしっかりと受け止めたようだ。

「そうだな。お前はずっと俺に言い続けていたな。……すまなかった。堀田君の言う通り、俺はずっと逃げていたよ。今更若者たちのライフスタイルを勉強し、それに寄せたサウンドを創り上げる努力をするのが億劫だっただけだ。簡単に今まで血反吐を吐いて積み上げていたものを捨て去る事が怖かっただけだ。意地やプライドなんかじゃない。怠けていただけだよ」

 三條の言葉に、あかねは立ち上がって三條に詰め寄った。

「なんで捨てる必要があるの? なんで糧にしようとしないの? 私の事だってそう。ちょっと合わなくなったら、なんにも努力しようともしない。ちゃんと話をしようともしない。私はあなたの悩みを知ろうとしたのに!」

 激高した母親に、今まで俯いていた瑞希が勢いよく立ち上がった。

「もう帰ろう! もう家に帰ろうよ! この人にも迷惑だよ! ねえ……お家に帰ろう? お腹も空いたから、お家に帰ろうよ」

 娘の声に、三條も立ち上がった。そして堀田に深々と頭を下げた。

「ありがとう。娘が君に会ったのも何かの運命だ。これが幸運だったと思えるように頑張ってみるよ。……ところでそのモーツアルト、手に入れたのはいつだね? 君が生まれる前の作品だろう?」

「去年、ワゴンセールで。百円でした」

「ふっ、値段までは訊いてないのに……。そうか、百円だったか」

 苦笑する三條は家族を促し、蔵を出て行った。その後ろ姿に堀田は声を掛けた。

「瑞希さん!」

 瑞希が足を止め振り返る。その胸元にビニール袋が飛び込んできた。

「せっかく作ったんで持って帰って下さい。なんなら食べながら帰って下さい」

 瑞希は堀田に向かって笑顔で手を振って応えた。

 久しぶりに両親に挟まれて横一列で歩く。袋を開けると甘くて香ばしいシナモンシュガーの香りがした。

 三人で袋の中に手を伸ばす。

 ほとんどお金をかけずに作られたパンの耳の揚げ菓子は、三人が久しぶりに味わう幸せの味がした。

「さて、夕飯どうしよう……。沙良さん、余りものないかなあ」

 三人の姿が見えなくなるまで玄関で見送った堀田は、いつも通りの静けさを取り戻した蔵の中へと帰っていった。

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