第4話 三條瑞希・十七歳高校生

「はぁ……」

 駅前通りのスーパーマーケット。その二階にあるゲームセンターの入り口に置いてあるベンチに、深く溜息を吐く女子高生の姿があった。

 一人で来ていたわけではない。その日は学校外で所属している、地域の吹奏楽団の仲間たちと来ていた。その仲間と、最高の気分でプリントシール機のカメラの前で笑顔を弾けさせた直後、楽しい時間に水を差す電話が鳴った。

 母からの電話は、とうとう離婚を決意したという内容だった。

 正直この少女、三條みずにとって両親の離婚なんてどうでもいい事だった。

「なんで楽しく遊んでるって知ってるくせに、こんな電話寄越すのよ。信じらんない!」

 瑞希は、既に通話終了しているスマートフォンの画面を見つめていた。睨みつける、と呼ぶほど強い眼光ではない。

 瑞希がそのまま何気なくメールの画面を開く。新規メッセージをタップして指が停まる。誰にどんなメールを送ると言うのか。画面を開いたものの、宛先さえ選べない。

「糞オヤジ……」

 瑞希は父をその名前で登録していた。メーラーの宛先に「糞オヤジ」と表示される。

 しばらくその画面を見て、母からの電話を切ってから何回目かの溜息を吐く。

「はぁ……ないわ、ないない」

 あり得ない。この期に及んであの父親に何か言っても、到底修復できるなど瑞希には思えなかった。

 ――修復? 私はあの両親に関係を修復して欲しいと願ったのだろうか。

 瑞希は一瞬考えてかぶりを振った。

「だからないない! ないっての!」

 そのフロアはゲーム機の電子音、中高生が騒ぐ音、リズムゲームの筐体を叩く音、大量のメダルがかき回される音、さまざまな周波数のノイズが、瑞希の叫ぶシグナルをかき消した。

「S/N比最悪だ……」

 それは瑞希がいう糞オヤジの口癖だった。

 程度が低いモノたちに対して、思いっきり侮蔑の意味を込めて呟くのだ。「S/N比最悪だな」「ダイナミックレンジ狭いんだよ」「サンプリング周波数が低い」。どれも昭和の言葉だ。

 いつまでも円盤ソフトにこだわる古い音楽業界の頭でっかちオヤジ。

 会社の中での立場が弱くなりつつあるのが、子供の瑞希にも分かる程、家庭内で仕事の愚痴ばかり溢していた。

 過去の栄光を引きずり、若い女性社員の前では仕事ができる男を装い、ペラッペラのプライドを振りかざす。

 先週瑞希の母の口から吐き出された言葉だ。

 瑞希はこの数日の事を思い返してまた溜息を吐く。

 ホントどうでもいい。

 どうでもいいから、小遣いくれて、ご飯だけ食べさせてくれればいい。

 家でケンカしてもらっても構わない。言い争いが始まれば外に出かけるから。

 でもテレビとパソコンだけは壊さないで欲しかった。新しいの買ってくれたからまあ良いけど、二日間パソコンが無いだけで、高校生にとってどれだけ痛手か。

 今、瑞希は選択を迫られている。

 食事を取るか、お金を取るか。

 家事は最低限手伝うだけか、バイトをしなくてもいいか。

 瑞希にとって母と住むか、父と住むかは、その程度の判断基準しかない。

「メンドクサイ。メンドクサイ。メンドクサイ。カンガエタクナイ。カンガエタクナイ。カンガエタクナイ」

 頭の中で回る言葉が、瑞希の唇を動かした。

 そうやって周囲の楽しげな空間から隔離させていた透明な壁を、一人の男が豪快に破壊した。

「だあ! すいませえん! それ止めてえ!」

「え?」

 その声の主は、スマートフォンの画面を俯いたまま呆然と眺めていた瑞希の前方から、この騒音の中でも九〇dB以上のS/N比を確保できるんじゃないかというくらい大きな声で叫びつつ、必死の形相で駆けてきた。

 その男と瑞希との間に、コロコロと転がってくる三つのプラスチック製のボール。

 男が何度か手を伸ばして掴もうとしているが、漫画の様に自分の足で繰り返し蹴っては、男の手の先を転がってゆく。

 瑞希の方へと転がってくるそれは、よく見るとボールではなかった。赤と透明、黄色と透明、水色と透明。それぞれ特徴のあるツートンカラーは、硬貨を入れてハンドルを回すと、玩具が中に入ったカプセルが出てくるアレだ。

 その三つを必死に追いかけてくる男。

「ちょっと怖いんですけど……」

 たじろぐ瑞希を無視して三つのカプセルと男が勢いを増して近づいてくる。

「お願いしますー!」

 瑞希が座っているベンチの後ろは吹き抜けになっていて、瑞希が止めなければ一階の人にあのカプセルが降り注いでしまう。中身が空の、たった三つのカプセルとはいえ、瑞希もそれはさすがに忍びないと思い、ベンチから立ち上がって転がってくるカプセルの進路を妨げた。

「あ、ありがとう」

 何とか両足を使って一階への落下を阻止した瑞希に、息を切らしてその男は礼を言った。

 その男は、四〇センチほどの円を描いて同じところを回っていた最後のカプセルを拾い上げると、ふーっと大きな息を吐いて、さっきまで瑞希が座っていたベンチにドカッと腰掛けた。

「あ……」

 男が座ったのを見て、瑞希が声を漏らした。

「ん? なに?」

「スマホ……」

 今その男が座っている所に、スマートフォンを置いていたはずだ。瑞希は自分のスマートフォンが無事か心配になった。

「そこ、スマホ置いてたんですけど!」

 瑞希が男の尻辺りを指さして言うと、男は慌てて飛び上がった。

「えっ? ゴメンナサイ! ゴメンナサイ!」

 男が立ち上がると、座っていた位置から十センチほど離れた場所に瑞希のスマートフォンが無傷で置かれていた。

「あ、潰してなかったみたいです。すいません、よく見てなくて。不幸中のハピネスタイフーンですね」

 ハピネスタイフーンて……。小学生の女の子に人気があるアニメのタイトルをもじるその男は、背もたれに密着して立っていた瑞希のスマートフォンを取って寄越した。

 そのスマートフォンからメールの送信音が聞こえた。

「え?」

「ん?」

 瑞希が慌てて画面を確認すると、白い封筒が空を飛んでいる。まさかと思い、メールの送信済みフォルダを確認する。

 ――送信済み 宛先:糞オヤジ 差出人:三條瑞希 件名:なし 本文:てってれー

「だ、ダメなやつだ。一番意味わかんないやつだ……」

 予測変換で、一番最近使った言葉が入力されて、しかも最悪な事に送信されてしまった。瑞希は頭を抱える。

 高校に入学して以来、初めて送る父親へのメール。

 それが、てってれー。

 メールを見て困惑する父の表情が瑞希には容易に想像できた。どうするべきか考えるのも億劫で、瑞希はスマホの電源を切った。そして目の前の男を睨みつける。

「ちょっと! 壊れしてくれた方がマシなくらい最悪なんですけど!」

 男はカプセルのひとつを開け、両手に持っていた空のカプセルの片割れたちを弄んでいたが、瑞希の剣幕に飛び上って驚いた。

 驚くだけならいいのだが、この男、驚き方が奇妙な事この上なかった。

 両手に持った透明のカプセルを自分の目にあて、口を大きく横に広げて「ひいぃっ!」と叫んでいる。

 面白い程綺麗に目のくぼみへフィットしたそれは、瑞希の目には驚いて目が飛び出たようにしか見えなかった。

「ぷっ、キモっ! ちょっとキモいってえ!」

 瑞希が声を上げる度、その男はひいぃっ、ひいぃっと、上体を後ろへ僅かにびくりと動かす動作を、目にカプセルケースを嵌めたまま繰り返している。

「ちょっと、あんたのそのカプセルなんなのよ。もう……や、やめて……」

 堪らず瑞希は指をさしながら爆笑した。

「カプセルじゃないっスよ。萌え萌えの人用コンタクトレンズっス」

「……は?」

「だから、萌え萌えの……」

「ははは……。なんだ、ただの危ない人か。よし、帰ろう」

 瑞希がゲームセンターの奥にいるはずの楽団仲間の姿を捜そうと動き出すと、その「ただの危ない人」が意外な言葉で呼び止めた。

「涙、拭いて行った方がいいっスよ。友達が心配します」

 言われて瑞希が手のひらで頬を拭うと、べっとりと手が濡れた。瑞希が自分の頬を濡らしたものの正体に気付くと、その流れは余計に激しくなった。

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