第3話 沙良と智子とハン

「イエス! フリー! そう、それは無料! イエス! フリー! どうぞご自由に! ふふふーん、公園の水はお代わり自由ぅ……」

 沙良と智子が座るベンチから僅か十メートル。

 公園の中央に置かれた水飲み場。若い男がその水をペットボトルに貯めている。二リットルのペットボトルに、五本。合計十リットルだ。

「あの、沙良さん。あれって……」

「うん。思った。間違いないよ」

 沙良は、何だか懐かしい友達に会ったような気分になっていた。気付いた時には、自然と立ち上がって彼のもとに歩いて行った。

「何やってんの?」

 他に掛ける言葉はなかったのか。沙良は不思議な感覚だった。いつまでもフラフラしている弟を叱るような、幼馴染にじゃれつくような、そんな感覚。

「フリー、フリー、フリー、イエイ! フリー、フリー、フリー、イエイ!」

 自分に掛けられた声だと気付いていないのか、そもそも聞こえていないのか、堀田はリュックにペットボトルをせっせとしまっている。

「こら、パン耳! 聞こえないの?」

 沙良がしゃがんで堀田の顔を下から覗き込んだ。

「わあ! な、なんでしょうか?」

 元々大げさなリアクションをする男なのか、堀田は沙良の予想以上の驚き方で飛び上っていた。

「何やってんのって聞いてんの」

「社会通念上相当であると認識される程度に水をいただこうかと……」

 沙良には、十リットルが社会通念上相当とは思えなかったが、そんな事はどうでもよかった。

「これって君だよね? パン耳」

 沙良はそう言ってくだんの動画を再生し、堀田の目の前にスマートフォンを突き付けた。

「わわわわわ! そうです、それ僕! だからもう勘弁してえ!」

 堀田はその場に膝をつき、頭を抱えて上半身を激しく左右に振り続けた。どうにも芝居がかっている。

 素でウザい。でも憎めない。沙良が今まで出会った事のない人種だった。

「あんた公園に住んでんの?」

「いいえ。そう見えますか? ちゃんとお部屋借りて住んでますよ。ほら、あそこの」

 堀田が指す方を見ると、立派な門扉があり、枝ぶりの見事な松が左から右へ幹を伸ばしている。パッと見ただけでも二百坪はありそうな豪邸だった。

「は? 嘘でしょ? あんな家に住んでてパンの耳とか公園の水とか……おちょくってる? いきなり声掛けてこられたから適当な事言ってる?」

「ち、違うって。いや、違いますよ。おちょくってなんかないですよ。あの屋敷の蔵に置かせて貰ってるんですよ。庭の手入れなんかをする代わりに」

 沙良はまだ半信半疑だった。

「あんた名前は?」

「堀田ですけど。みんなはハンって呼んでます」

 沙良は名前を聞き出すと、智子を手招いた。

「堀田君、その蔵には自炊できるキッチンもあるのかな?」

 何が聞きたいのか真意が掴めぬまま、堀田は質問そのものに答えた。

「ありますよ。一通りは器具も揃ってます」

 沙良はその答えに頷いて、隣に来た智子の肩を叩いた。

「ともちゃん、今日は私が得意料理ご馳走してあげる。堀田君とこで」

 思わぬ展開に「はい?」と聞き返した堀田に対し、智子は「はい!」と乗り気で返事をした。


 半ば沙良に引きずられるように近くのスーパーへと連れてこられた堀田は、自分の身に起こっている事が理解できずにいた。

(おいおいおい、何がどうなってこの状況? なんで綺麗なお姉さん二人の後ろで買い物かご持ってるの? こんなにポンポンとかごに食材入れて……。新手のキャッチ? ハニートラップ?)

「これで全部っと」

 沙良は振り向いて、堀田が押すカートの中にバターを放り込んだ。

「ああ、堀田君、さっきから心の声ダダ漏れだよ? 綺麗なお姉さんって言葉に免じて、キャッチとかハニートラップってのは忘れてあげよう」

 そう言って笑った沙良を見て、堀田は本当に綺麗だなと思った。

「沙良さん、何ご馳走してくれるんですか?」

「それは出来てからのお楽しみっ」

 堀田は何気なくカートの中身を確かめた。鶏肉、ペンネ、チーズ、玉ねぎ、ブロッコリー、白ワイン、小麦粉にさっきのバター。

「グラタンですよね?」

「……」

 堀田の目には、さっきまで綺麗だと思っていた沙良が、修羅に見えていた。しばらく無言で睨む沙良に、堀田は軽く震えた。

「あんたね、そんな事言ったら、さっきキャッピキャピのウインクに舌出しした私がバッカみたいじゃない!」

「いや、かごの中を見てたから、それは見てなかったですもん! そんな恥ずかしい事してたなんて知らなかったですもん!」

 失言だ。さすがの堀田も、今のが失言だという事はすぐに気が付いた。しかし、目の前の沙良は笑っていた。

「あんたみたいに裏表がない人、初めてだよ。友達、多そうね」

 そう言って再び歩き出した沙良に、公園で声を掛けられた時から思っていた事を堀田は思い切ってぶつけた。

「オレに惚れたんスか?」

 その言葉に呆気にとられた沙良は、歩みを止め振り返った。

「ないない。それはない。ねえ、ともちゃん」

「え? 私は結構好きですよ。面白いし、顔はまあまあだし」

 沙良は再び呆気にとられた。

「どうかしました?」

「いや、立ち直り早いな、って思っただけ」

「私も自分でびっくりですよ。でも、そういう沙良さんこそ」

 沙良はカフェで初めてあの動画を見た時の事を思い出していた。あれを見る直前は最悪だった。自分の身体がドス黒い煙で出来ているような感覚。身体の一部を切り取ったなら、黒いどろっとした液体が溢れ、地球上の全てを黒く染めただろう。

「ほんとだね。会社も辞めちゃったし、人生変えられちゃったわ。あんなパン耳に……」

 二人の人生を変えた張本人はというと、ペンネ、チーズ、グラタンとかなんとか鼻歌交じりに、カートに入った食材をただ幸せそうに眺めていた。


 不思議な光景だ。

 外はもう暗くなっている。

 蔵を改装したとは言っても、窓を南と東にひとつずつ設置し、各種配線を施した程度の部屋だった。

 高い所に下げられたLED電球の傘は、明るさの割に冷たく感じるのを和らげようと考えたのか、オレンジ色に塗られていた。

 本やテレビといった物はなく、娯楽と呼べそうな物は、入り口近くに立てられた釣竿ぐらいだ。あれも趣味というより、食糧調達が目的のように見える。

 全く面白みがない部屋に、不釣り合いなほどに響く笑い声。

 三人はそれぞれ手に白ワインが入ったグラスを持ち、沙良が作ったグラタンを頬張っている。テーブル代わりの段ボール箱は、笑い声を吸って震えていた。

「で、ブロックされちゃったんですよ。意味わかんなくないですか? ブロックしたところで、リアルのバイト先ばれてるんすよ? しかもパン耳ただでくれる店なんて、また絶対行くに決まってるじゃないかって話っすよ」

 堀田は先月の動画拡散事件から、チャットをブロックされたままのシーナが働くパン屋で、たまにパン耳を仕入れているらしい。しかし彼女とは目を合わせる事も、言葉を交わす事もないと嘆いているのだ。

「うーん、でもハン君が好きだったのは、あくまでも彼女が使ってた二次元のプロフ画なんでしょ? 私が代わりに癒してあげますって」

 アルコールが入ったからなのか、智子は堀田にすり寄って、積極的にアピールしている。だが、堀田には全く効果が無いようだ。

「そうですか? じゃあミニブログで絡んで下さいよ。脳内で好きなキャラクターの画像に差し替えますから。っていうかですね、そんな事してたらまた泣くのともちゃんですよ? 癒してあげるなんて言いながら、男の人に依存し過ぎです。めっ! ですよ、めっ!」

 そう言って堀田は智子の頬をつまんで横に広げた。

「なんれひゅか、わらひやらめれひゅか(なんですか、私じゃダメですか)」

「そじゃないス。ともちゃんは、もっと強くなって、自分を大事にしなきゃダメって言ってるスよお」

 つまんだ指はそのままに、今度は上下に動かし遊んでいる。そんな二人のやり取りを見て、沙良は大声で笑っていた。

「ともちゃん、ハンの言うとおり! もっと自分を大事にしな。私みたいな行き遅れババァになるよ?」

「そうですよ、沙良さんみたいになっても良いんですか? うわっ! 痛ひ! ひゃひゅへへっ(痛い! 助けて)」

 智子は堀田の指を振りほどき、自分がされたと同じように頬をつまんで引っ張った。智子の頬は赤く指の跡が付いている。だが、頬にあった別の跡は薄らいでいた。

「今のはハンが調子乗りすぎ! いいぞ、ともちゃん、もっとやれぃ!」

 ケタケタ笑う沙良の前に置かれた彼女のスマートフォンが、メールの着信を知らせた。

 ――沙良、もう一度考え直してくれないか。僕には君が必要なんだ。家内との事も話を進めている。お願いだ、帰ってきてくれ。――三篠

 沙良はそのメールを見て嘆息した。自分がどれだけ愚かだったか。男に依存するにも相手が最悪すぎる。だが、このメールに冷静に対処できるほどに、この一日で成長できていた。目の前のこの男によって。

 沙良は空の食器が残ったままの段ボールを回り込み、智子に耳打ちした。

 それに智子も頷いて返す。

 堀田を沙良と智子で挟むようにして、沙良がスマホのカメラを起動して正面に腕を伸ばす。

「じゃあ行くよ。せーの!」

 沙良の合図で、二人の唇が堀田の頬を挟み撃ちにした。

 その瞬間をスマホのカメラで撮影し、三條に送りつける。

 ――メールしてくるなって言ったよね? 私達二人、もうこの人と生きてくから。あなたとは別次元に生きる人です。とても素敵な人です。そういうワケで、私にフラれたからって、ともちゃんにメールしても無駄ですからね。では、奥様とお幸せに――沙良

 文章を打つのも、送信ボタンを押すのも、呆気ない程にスムーズだった。こんな簡単な作業を今まで出来なかったのは自分の弱さだ。それを振り切った喜びに沙良は浸った。

「え? やっぱり沙良さんもオレに惚れたの?」

「ないない。それはないって。ふふふっ」

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