第2話 中村沙良・三十四歳会社員

「はぁ……」

 何度目だろうか。

 の深い溜息は、その小さな口から出た瞬間、オープンテラスのテントで踊る早春の優しい雨音に撫でられ、湿った空気に埋もれてゆく。

 午前中に急遽行われた企画会議。

 そこで新プロジェクトのリーダーになるなんて――。沙良の目にぼんやりと映る景色は、スタンディングバーのモニターに流される映像と同様に無意味な状態だ。

「なんでリーダー私なの? アイツがあんなクズ男だったなんて……クソッ!」

 沙良の上司である三條さんじょうには家庭があった。同僚たちと新築祝いにも行った沙良が、それを知らなかったわけじゃない。しかし、彼女にはどうにもできなかった。止まらなかった。三條の視界に入る事が、沙良のだらけた毎日の中で、唯一の幸せだった。

 沙良は偽りだと気付かぬフリをして、ガラス玉のきらめきに身を投じていた日々を思い返した。

 不倫なんてバカだ。バカがやる事だ。不幸を生み出すだけで、幸せになんてなれるはずない。わかっていたはずなのに。知っていたはずなのに。それでも止められず、それでも幸せを求め続けた。あのクソ三條に――。

 沙良は後悔と自己嫌悪の想いを胸に、目の前のカップを口に付け、傾けた。

 空だ。

 何も入っていない。

 三十分も前から空になっていたカップが、沙良のカラッポな心を少し膨らませた。

「もういい。もうわかった。プロジェクトを成功させて、完璧な結果を突き付けてやる!」

 沙良にはその男の魂胆が見えていた。無理を押し付けて会社を辞めさせる気なのだ。職場に自分の子を堕胎したオンナがいるのは気が気じゃないのだろう。

 でも私はその辺のバカな女じゃない――。

 沙良は小さな復讐なんて望んでなかった。ずっとあの男の視界から消えず、遠くから胸をチクチク刺し続けてやる――。傾けても動かなくなったカップの底の黒い液体に、沙良は復讐の誓いを立てた。

 沙良がカップをテーブルに置いた時、その横に投げ出していたスマートフォンが鳴った。

由佳ゆかかな?」

 沙良は、大学時代からの友人である由佳に宛て、三篠と仕事に対する愚痴をメールしていた。

 ――まだ落ち込んでる? なんかね、友達から変なのまわってきたんだけど、これ見てみ? 笑えるよ。

 由佳から送られて来たメッセージには、動画のリンクが貼られていた。

「変なのって何よ……。キモいやつだったら承知しないんだからね」

 沙良はそのリンクを見るべきか一瞬悩んだが、由佳はつまらない悪戯をするような女ではない。きっと今の真黒な気分を灰色にしてくれるくらいの効き目があるものだろうと、指先でそっと画面に触れた。

「ただの紙切れに書かれただけの、その文字に潜む魔力たるや!」

 ボリュームを下げていなかったスマートフォンから大音量で流れてきた妙なセリフに、沙良は慌ててホームボタンを押した。

「ちょっ、ちょい! 音……。あ、す、すいません……」

 沙良は耳を真っ赤に染めて、周りの客に頭を下げ、バッグの中からイヤホンを取り出してスマートフォンにセットした。

「なに? 今の……」

 再度メセージを開いて、動画を再生する。

 画面では若い男が妙にキレのある動きと、大きな声でパンの耳へ賛辞を贈っていた。

「なんなの、これ……」

 場所は沙良にも見覚えがあった。駅前の通りから一本中に入った所にある、先週オープンしたばかりのパン屋だ。

 沙良は動画を見終わり、由佳に返信した。

 ――面白くない。イラつく。しつこい。ウザい。てか、近所なんですけど、この現場。こんなヤツが近くにいるとは……。あぁ、なんか歌が頭から離れなくなったじゃんか! 由佳のせいね、恨む! 猛烈に恨む!

 由佳にそうメールを送りながらも、沙良はなんとなくもう一度動画を再生した。

 なんだろうか。イラつくけど、しつこくてウザいけど、憎めない。この人には悩みなんてないんだろうな。沙良がそんな事を考えながら、三回目の再生。彼女には自然と笑顔が溢れてきた。

 ――パン!

 飛び散るパンの耳さえ、輝いているように見えた。

「よしっ。……すみません、コーヒーおかわりください」

 沙良の口から出た言葉は、無意識にリズムに乗っていた。小さな幸福のリズムに。

 コーヒーを頼むと、沙良はバッグの中から会社のロゴが右下に印刷されている便箋を一枚取り出した。


 会社に戻った沙良は、退職届と書かれた封筒を上司である三條の机に叩きつけた。

 三條は、目の前にやって来た沙良と目を合わさぬようにして飲んでいたお茶を、思わず自らのスーツにぶちまけた。

「な、なにごとだ?」

 それでも三篠はハンカチでお茶を拭う動作に集中して、沙良の顔を見ようとしない。

「課長! いや、三條さん。もう二度とホテルに誘わないで下さい。二度と私の身体に触れないで下さい!」

 オフィスにいた同僚たちは、最初に沙良が退職届を叩きつけた音で、既に二人に注目していた。

「ちょっ、ちょっと。さ、さ、中村君! 何を言ってるんだ君は?」

 三篠は立ち上がり、皆の視線を避けるように沙良の横に立って身体を窓の方に向けた。沙良はそんな三篠には構わず、おかわりしたコーヒーを飲みながら言おうと決めていた言葉たちを並べた。

「それから、私の事を『さらりん』とかって呼ぶのもやめて下さいね? 例えばこのメール……。『早くさらりんに甘えたいデスヨ。またお膝の間に顔をうずめたいデスヨ』……二度とこんなキッショイメール送ってこないで下さい! あと、外回りだとかいって二人で出た時、勤務時間中なのにホ……」

 沙良の言葉を遮るように書類の束が飛んできた。

 三條からではない。

 そして、沙良に向けてでもない。

 それは、沙良の後ろで肩を上下に激しく動かしている、派遣社員の金本かねもと智子ともこが、三條に向けて投げつけたものだった。

 沙良は瞬時に悟った。三條はこのコにも手を出していたのだ。まだ二十歳の小娘にまで。

「ホントなんですか、沙良さんが言った事! ホントにホントなんですか!」

 フロア中の社員の視線を集める三條は、言葉を選びきれず、短い単語をブツブツ並べるだけだ。

 本当に下らない男だ。こんな男のために、人生の中の貴重な限りある時間を浪費するのはばかばかしい。沙良は三條の机を蹴りあげた。

「説明してやれよ、糞じじい! できないんだろ? できねぇよな! カッコばっかりつけやがって!」

 今まで常に笑顔を心掛け、後輩からも優しく頼りになる先輩として慕われる事の多かった沙良の剣幕に、周囲も呆気に取られていた。

「ともちゃん、行こう。時間の無駄だよ」

 沙良はまだ三條の方から視線を外せずにいる智子の手を引き、ドアを乱暴に開け、会社を後にした。


「泣いたってしょうがないよ。その涙さえ、あんな男にはもったいないよ」

 会社近くの公園のベンチに、沙良と智子は並んで腰を下ろしていた。

 智子はもう二十分間も泣きっぱなしだ。

 その智子を見て、沙良はバッグの中からスマートフォンを取り出した。

「ともちゃん、これ、見てみ? なんか色々アホらしくなるから」

 沙良は、そう言ってあの「パン耳ミュージカル」を智子に見せた。

「ふふっ、なんですか、これ……。ばっかみたいですね。パンの耳ですよ? ふふふっ」

「でしょ。パンの耳だよ、たかが。でもそれだけで、こんなに幸せそうにしてる人がいる。バカだけど。突き抜けてアホだけど」

 実際会ったらどんなヤツなんだろうか。ちょっと会ってみたいな、なんて思う自分も相当なバカだろうか? 同じ事を思っていた二人の目の前に、その男は現れた。

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