HAN

西野ゆう

第1話 ハン、起きる

 蔵の中で目を覚ました男は、時計の針を確認する前に指折り数え始めた。何度目の朝だろうか。この蔵で目覚めた回数を数え終わった後、人生何回目の朝なのかを計算しようとして、その意味のなさに、男は自嘲した。

 その男の名は堀田ほった明憲あきのり。二十四歳独身だ。

 蔵の中で目覚めたと言っても、いたずらをした子供のように閉じ込められたわけではない。ましてや、他人の蔵に忍び込んでいるわけでもない。この蔵を正式に住まいとして生きているのだ。

 蔵には現代人が住むに不便のないよう、最低限の改築が施されている。電気配線も水道管も剥き出しだが、堀田は些細な事を気に掛けるような性質ではなかった。

 相変わらず横になったまま身体を起こそうとしない堀田は、枕の周りでパタパタと手を動かしている。目当ての物を手のひらに掴むと、身体を仰向けの態勢から横向きに九十度動かした。

「おはようございます、と」

 堀田はグループチャットを立ち上げて、他人のチャットを確認する前に目覚めの挨拶を発信した。

 アカウント名は「HAN」となっている。自分の名前を言う時に、比較的強めに発音する部分を三字抜き出した形だ。この名はオンライン専用で使っているわけではない。元々名前をアルファベット三文字に略すのは、彼が中学時代に流行った事だ。中学時代の友人などからは、未だに「ハン」と呼ばれている。

 時刻は九時半。平日のこの時間、世間一般の多くの人々は働いているか、学校に行っている時間だ。それでもスマートフォンを眺めている人が多いのか、堀田の言葉にいくつか挨拶が返ってきた。

 その中のひとつに目が留まる。

 ――おそよう、ハン君。寝坊?

 それに堀田が「ふむふむ」と顎を掻いている。そして、スマートフォンの画面上で指を滑らせた。

 ――寝坊しちゃったよー! どうしよう! って一瞬焦ったけど、今日、仕事休みだった!

 発言する内容を読み上げながら打ち込むと、すぐに反応があった。

 ――毎日休みじゃん! ま、ウチもだけど。

 それに続いて、次々と他の人の発言も画面に現れる。

 ――今日は怠くて仕事行きたくない。ま、働いてないけど。

 ――特に連休明けの朝には怠さがつきものだよね。オイラは千連休中だけど。

「さすが、ニートグループ。今日も健全にぐうたらしてるなぁ」

 メッセージの受信がひと段落したところで、堀田はようやくベッドから降りた。

「とりあえず、トーストでも焼こうかな」

 床に置いている段ボール箱の中から、袋に入った最後の一枚の食パンを取り出す。そして、やはり床に直接置いてある、リサイクルショップで三百円まで値切って買ったトースターに食パンを入れてダイヤルを回す。

 いつもはパンが焼ける間にコーヒーを淹れる堀田だったが、今朝はトースターを眺めたままで固まっている。

「食パンを焼いたのがトーストだから、トーストを焼くって言い方ありなの、かな? 気になるな……。かと言って、スマホですぐ調べる愚人にはなりたくないよね。そこにあるのが真実だとは限らないし。そもそも世間は……」

 堀田はひとり言を溢しながら、庭の飛び石を跳ね歩くように思考を巡らせた。彼の悪い癖だ。

「チーン」という音の後にも、「ジジジジ……」とトースターのタイマーの音が続く。そのタイマーの音が、鳴くのに飽きたアブラゼミの泣き声のようにフェードアウトして止まると、堀田はようやくコーヒーを淹れ始めた。

「うーん、朝から下らない事考えて、貴重な時間を無駄にしちゃった。ま、時間なんて売るほど余ってるんですけどねー!」

 誰に対しての主張なのか。堀田は腰に両手をあてて、「はっはっは」と高笑いしている。

 コーヒーメーカーがガラスのサーバーへ完成品を満たす間に、堀田はトーストの隅々までむらなくバターを塗った。その食事の準備中にも、彼のスマートフォンからは通知音が鳴り続けていた。その内容を確かめるまでもなく、グループチャットに送られてくるメッセージなのだが、今日のそれは普段よりも忙しく鳴り続けていた。

「んぐ……。ごちそうさまでした!」

 食事中はスマートフォンを見ない。そう決めている堀田は、最後に喉へと押し込んだトーストの塊をコーヒーで流し込みながら、スマートフォンを手に取った。

「バイト……だと?」

 複数のメンバーが「バイト」という言葉を発言している。

 ――今日からバイトとか、この場所ではもう見たくなかった。

 ――また人生の敗北者をひとり生んでしまった……。バイト恐るべし。

 ――バイト? 何それ、美味しいの?

「誰かがバイトを始める?」

 どうやら「今日からバイト」という発言を誰かがしたようだが、その発言は、その他のメンバーからのリアクションで遥か過去へと流れてしまっている。堀田は時間を急いで巻き戻そうと、両手の人差し指を交互に動かし、素早く画面をスワイプした。

「あった……。今日からバイトって、シーナちゃんじゃん。……マジかぁ! 裏切ったかぁ!」

 ――シーナさんがルームから退出しました。

「ニートのニートによるニートのためのチャットルーム」というネーミングの部屋に、有職者や学生は存在してはならない。仕方のない事なのだが、ひそかに想いを寄せていたメンバーが去り、堀田は哀しみに蔵の高い天井を見上げた。

「あーあ、しょうがねぇや。図書館行って、帰りにパン買って帰るか」

 ニートの(以下略)チャットルームからは退出したが、他のルームでの繋がりはある。もちろん、個人でメッセージを送る事もできる。堀田は自分の心と同じく、重たい蔵の扉を開いて外に出た。


「なんじゃこりゃあ! マジっすか? これって、どんだけ貰ってもタダっすか?」

 朝の重たい気持ちを忘れ、堀田が嬉しさのあまり悲鳴を上げたのは、駅前に新しくオープンしたパン屋。そこで、レジの端っこに置かれたパンの耳が詰められたビニール袋を目にした時だ。複数の袋が置かれた籐製のバスケットには、クリップで止められた紙に手書きの文字でこう書かれていた。

 ――ご自由にお持ち帰りください。

 何度もその文字を確認していた堀田は、身体をぶるりと震わせると、両手を広げ、天を仰ぎ、声高らかに歌い始めた。

「ただの紙切れに書かれただけの、その文字に潜む魔力たるや!」

 素早く横にステップし、合いの手を自分で入れる。

「潜む魔力たるや!」

 パンの耳の入った袋をひとつ手に取り、それを高々と突き上げた。ビニール袋越しに見える電灯の暖色系の光に目を細める。

「求人情報誌なんかじゃない、これって食べ物だよ。(そうさ、食べ物さ)イエス! フリー!(そう、それは無料)イエス! フリー!(どうぞご自由に)Oh! 好きなだけぇ!(好きにしてぇ)」

 もうひとつの手にも袋を持ち、その場でターン。

「持ち帰っちゃうよ!」

 スライディングしてポーズを決める。

「いよっ! パンのーみぃーみぃー!」

 足を踏み鳴らし、顔の横で手拍子パパパン! と、手を叩くつもりだったのだろうが、「パン!」と大きな音を立ててビニール袋が破け、店内には紙吹雪の代わりにパンの耳が舞った。

「あっ、ご、ごめんなさい! つい興奮して。これ、弁償しますから……って、これ無料か。すっげぇ、無料。弁償のしようがないっ!」

 何故か胸を張ってそう言い放った堀田の近くで、幼女が呆然と口を開いていた。

「ママ、このお兄ちゃん変」

「見ちゃダメ! 見ちゃダメよ! こらっ、指ささないの!」

 それでも堀田に笑顔を向ける幼女に手を振り、堀田はレジに立つ若い女性の方に怖々と視線を向けた。彼女はいつから構えていたのか、スマートフォンのカメラを堀田に向けていた。

(うっわ、この客うっぜぇー! オープン初日からこれかよ。パン耳全部持ってっていいから、店の中で変なミュージカルとかやんねぇでもらえるかなぁ! 特に最後の顔! ピンクのライティングで星飛んでそうなドヤ顔がイラつくわぁ)

 そうレジの女性が心中で嘆いているのが目に見えた堀田は、激しく後悔していた。

「あの、えっと、その……」

 この場をどう取り繕えば良いのか言葉を探していると、先ほどの幼女が堀田の腰辺りを後ろからつついた。

「これ、お兄ちゃんの?」

 差し出された幼女の手には、堀田のスマートフォンが握られていた。どうやら激しく踊っていた時に落としてしまったらしい。

「ああ、ありがとう。お嬢ちゃん、偉いね」

 そう言って堀田が幼女の頭を撫でようとすると、母親が幼女を抱き上げて小走りで店の外へと出て行った。

「黒歴史だ。完全に黒……」

 そう呟いていた堀田の手の中で、今渡されたばかりのスマートフォンが震えた。

「ん? んんん?」

 画面に表示されたメッセージを見て、堀田は背中に汗が伝うのを感じていた。

 ――シーナさんからのメッセージ「ちょい、マジで怖い客がいんだけど。動画見てみ」

 堀田がリンク先で再生ボタンを押すと、見慣れた男が画面の中で踊り始めた。図書館に入った時からマナーモードにしていたため、音声は流れない。

「嘘だ……」

 堀田がレジに立つ女性に視線を向けると、その女性は眉間に深く溝を刻んだ。汚らわしい物を見るかのように。

「シーナちゃん?」

 堀田はそう首を傾げながら、レジの女性に自分のスマートフォンの画面を見せた。みるみる女性の顔が青ざめてゆく。

「そうだよ。僕だよ。僕が……ハンだよ」


 彼の名は堀田明憲。

 またの名をHAN。

 世界は彼を求めている。かも知れない。

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