1-2.

 呆然としながら、働かない頭を少しでも動かして自分の記憶を反芻する。

 最近、残業続きだったことは、覚えている。一人暮らしだったり、お独りサマだったことは覚えている。でもどこの都道府県に住んでいたかと問われたら、都会の方だった、ということしか答えられない。会社に勤めていたことは思い出せるが、会社の名前や自分がどの部署にいたのかは思い出せない。大学まで出たことは覚えているが、その記憶も曖昧だ。恋人がいたことは、……思い出せないのだが、この思い出せないは恋愛経験がないという意味なのか記憶が薄れて忘れてしまったのか、どちらか分からない。


 思い出せなくて気持ち悪いのだが、いつまでもこうしていられない。この意味不明な理解できない状況で、唯一の日本語があと24時間弱で失われてしまう可能性があるのだ。のんびりしている暇はない。それに、と下を見る。お腹がぐう、と鳴った。生きている限り、お腹は空くしトイレに行きたくなる。餓死する前に、食料を調達する必要がある。事態は比較的、切迫していると言えた。

 もう一度、日本語で書かれた文章を読み直す。目が滑って読めていないところもしっかり、きちんと読み込んだ。


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 初めに、ここは現実である。であるからして、死んだらリセット、などは利かない。それを努々忘れることなく、得られた幸運を噛みしめて生きていくことを推奨する。

 なお、この日本語の文章は君がこの本を開いてから24時間後に消える。それと同時に、君の日本語の言語能力も失われる。君の身体にはこの世界アークトゥルスの言語がインプットされているので、その言語能力を如何なく活かして欲しい。


 さて、日本人の君に分かりやすく現状を説明するならば、君は異世界転生した。転移ではなく、転生である。何故ならば、君の身体は再構築してあり10歳まで若返っているからだ。なお、見た目も変わっているから後ほど鏡を確認するといいだろう。見た目はこの世界アークトゥルスに馴染むもので、ランダムになっている。変更希望は受け付けていないので諦めて欲しい。

 日本人であった君の記憶は、どんどんと過去のものとなっていく。特に、プライベートなことである自分や家族、友人の名前など様々なことは既に思い出せないはずだ。この世界アークトゥルスにやってきたと同時に失われるものなので、焦らずとも問題ない。皆一様に、自分のことは忘れている。覚えているのは、日本人だった頃の常識や趣味、それに付随する知識のみである。それを生かすも否も君次第である。自由にするといい。


 この世界アークトゥルスは、科学ではなく魔法が発展した世界である。人々は皆、ステータスカードというものを自身の内に持っている。君もこのステータスカードを持っている。後述するが、このステータスカードの内容は、君の今居る神子の塔にいる間は変更が可能だ。変更可能なのは、生前の記憶をもとに算出したポイントで、そのポイント分だけ種族やギフト、スキルを選ぶことが出来る。君がこの世界アークトゥルスでどう生きたいかで、ポイントの使い方は変わるだろう。よければ君の先輩であるこの神子の塔の住人や、1階のみで交流できるこの世界アークトゥルスの住人に相談するといい。本棚の本も参考になるだろうし、2階の大図書館も参考になるだろう。君1人で決めてもいい。好きにするといい。ただ、先人の知恵は馬鹿に出来ないし、人は1人では生きていけない。よく考えることだ。


 この神子の塔を出ると、帰ってくることは出来ない。正確には、1階にしか入れなくなる。ステータスカードの内容を弄れるポイントも、失われて固定される。そのことを念頭に置いて、この神子の塔の出立を決めるといい。この神子の塔の滞在期間は無期限だ。ちゃんとこの世界アークトゥルスで生きていく覚悟が出来たら、出立すればいい。


 最後に。この世界で、君が為すべきことはない。強いて言うなら、この世界アークトゥルスを好きに生きて、この世界を好きになってくれたらいい。健闘を祈る。

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 気になることは色々と書かれているのだが、ひとつひとつ処理していこう。お腹が減ってきているが、そんなことよりこの文章の方が気になる。まだ事態はひっ迫していない。現状把握の方が先だろう。さっきと言っていることが違うな、とちょっと自分に笑った。笑えるならまだ頑張れる、気持ちを切り替える。


 まず、若返っているという文言。ついでに見た目も変わっているらしい。辞書並みに分厚くて重い本を持ったまま、ドレッサーに近付く。ドレッサーの鏡を覗き込んで、はっ、と息を呑んだ。

 サラサラなラベンダー色のボブの女の子が、ぽかーんっと間抜けな顔を晒していた。色白の肌で、前髪をどかすと眉毛までラベンダー色でちょっと笑った。まつ毛もラベンダー色かな、と覗き込むとやっぱりラベンダー色のまつ毛で、瞳の色は黄色だった。いや、黄色というにはちょっと輝いて見えるから、金色だろうか。目立ちそうな容姿だが、この世界に馴染む容姿らしいので大丈夫だろう。見慣れないけど。

 身体を見てみると、真っ白なワンピースを着ていたのだが、胸はぺったんこだった。どうやら第二次性徴はきていない、かなり若い女の子のようだ。10歳に若返った、というのもあながち嘘じゃないのかもしれない。そもそも、いくら思い出せないと言っても前の私はこんな容姿ではなかったし、胸もそれなりにあった成人女性だったはずだ。つまり、この分厚い本の言っていることが正しい可能性が高まった。


 そう言えば、この辞書の名前はなんだろう、と表紙を見てみると張り紙や本棚と同じ文字で、『最初に読む本』と書いてある。何か聞いたことあるな、と思ったら張り紙に書いてあった。「※この部屋の『最初に読む本』及びその補助となる説明書に目を通してから部屋を出ることを推奨するものとす」と書いてあったのだから、つまりこれを読まないとこの部屋を出るのは推奨できないと。ならオススメ通り、このままこの本を読むのがいいだろう。

 私は、ベッドに座ると、『最初に読む本』を読み込み始めた。


 ぐうぅ、とお腹が鳴る。そこで私は顔をあげた。随分と本に熱中してしまったらしいが、空腹も限界のようだ。だいたい要点も分かってきたし、一旦コーヒーブレイクしてもいいかもしれない。

 私は、『最初に読む本』をベッドサイドテーブルに置くと、冷蔵庫に向かって歩いた。本の内容が正しければ、大変ハイテクな冷蔵庫になっているはずだ。

 冷蔵庫を開けると、一番上のドアの中には、トレイに乗った皿がいくつか。下のドアを開けると、冷えたピッチャーがいくつか。水、牛乳、リンゴジュース、オレンジジュースとラベルが貼ってある。私は、トレイを取り出して部屋の中央のテーブルに乗せ、水のピッチャーを持って椅子に座った。トレイの上の皿には、ハンバーグ、サラダ、丸パン、フルーツヨーグルトとボリューミーな内容だった。

 手を合わせて、いただきますと挨拶してから、水をごくりと飲んだ。


 『最初に読む本』には、日本語で書かれた先ほどの文章の次のページに、この世界アークトゥルスの文字で、神子の塔の説明が書かれていた。とはいえ、1階がアークトゥルスの住人との交流スペースで部屋がたくさんあって面談可能で、2階が図書館であること、3階が訓練場で武術や魔法だけでなく調剤や錬金術といった技術系の訓練もできること。その他は、当たり前のような問題を起こすな、喧嘩は神子の塔を出てから、くらいしか書かれていなかった。

 ちなみに、1階がアークトゥルスの住人との交流スペースになっている理由は、簡単に言えば勧誘という名のお見合いの会場のようだ。神子の塔の住人は、地図や情報誌からだけでは分からないこの世界のあれそれをアークトゥルスの住人から情報を仕入れる。アークトゥルスの住人は、ポイントに限りがあるとはいえ、自分でステータスカードの内容を弄れる優秀な人材の勧誘をする。いわゆる、人材の需要と供給というヤツである。

 だからか、神子の塔の周りは宿場町として発展し、今では商業都市にまで大きくなったらしい。人が集まるからモノが集まる、の典型例だろう。そんな都市の中心地の塔の5階に、私はいる。


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主人公に恋愛経験があるか否か、真実は闇の中。

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