四 食事
”陸玖”
そう、俺の名前を呼ぶ海美の声がした気がした。
何よりも愛おしく、胸を締め付けるような懐かしさをもっと感じたくて耳を澄ます。だが、聞こえたのは海美の声ではなく、奇妙で不快な音だった。
——ゴリ、ヌチャ、グチュゴチュ、ネチャ。ボリ、ボリ……。ピチャ、ピチャル。
その音を擬音語で表そうとするのは難しい。ただ、さまざまな種類の音が混じり合いながら、水音や湿り気と粘度を感じさせる音だ。
目を瞬くと、瞼が眼球に張り付き、鋭い痛みが走る。モニターの見過ぎでもともとドライアイだったが、それにしてもひどい乾燥具合だ。まるで、長時間目を開けたまま寝ていたかのようだ。痛みを堪えながら何度か必死に瞬きを繰り返すと、瞳に薄く涙の膜ができる。ようやくまともに物を見ることができるようになったが、辺りは薄暗い。目を凝らしてみると、なぜか見覚えがある天井が見えた。いったいどこで目にした天井だったかと一瞬だけ考えて、いまさっきみていた夢のおかげですぐに思い至る。
そうだ。この天井は、海美の入院していた病院のものに似ている。
さらに視線を周囲に向ける。
俺の横になっているベッドは、天井に設置されたレールに沿って垂れる薄緑色のカーテンに囲われていた。おかげで、カーテンの外の様子はまったくわからない。しかし、ここが病院であることは間違いないようだ。俺自身も、浴衣のような前開きの入院着をいつの間にか着させられていた。
自分が会社で倒れたことは覚えている。倒れているところを誰かに発見されて、病院に担ぎ込まれたのだろう。そう思えば何も不審がることはないはずなのに、先ほどからずっと胸騒ぎがしている。辺りに響く奇妙な音が止まないのだ。その音は、俺のいるベッドを覆うカーテンの真横からしているようだった。
さらに、ものすごい悪臭がする。あまりにも色々な匂いが混ざり合っているため、どんな匂いと端的に形容するのは難しい。明確に断言できるのは、糞尿の匂い。さらに、電車で乗り合わせてしまったことのある、ホームレスから漂ってきた匂いを思い出す。そこに、消毒剤や、鉄っぽい匂いが微かに混じっている。どこかに悪臭の発生源がある感じではなく、吸う空気のすべてが汚染されていた。
響いてくる不快な音とも相まって、気分が悪くなってくる。胃のむかつきを抑えるために、体を丸めるように寝返りを打とうとする。だがそこでようやく、俺は自分の手足がベッドに拘束されていることに気がついた。
「は?」
思わず声が漏れる。
肌ヘ密着するような金属の枷が手足と足首に嵌められていて、体全体で大の字を描くように拘束されている。枷は短い鎖で繋がれ、体を動かす余地はほとんどない。さらに、右腕の肘の内側辺りにはなにか点滴の針のようなものが刺さっており、その針から出たチューブが、どこかへと繋がっている。
俺は自分の置かれた状況を把握するべく、可能な限り視線を動かし、指で感触をたしかめはじめる。
ベッド自体はどこの病院にもある、ごく一般的なパイプベッドだ。マットレスの表面は布ではなく、ビニールのようなつるりとした素材でできている。そんなことを言っている場合ではないが、寝心地も悪い。枷を繋ぐ鎖は、そのマットレスから伸びていた。
「なんだ、これ」
口から漏れた言葉は、あくまで咄嗟に出てしまった独り言だった。誰かの返事を期待していたわけではない。だが俺の声に応えるように、カーテンの向こう側から声がした。
「モツだょ」
そばに人がいたことにハッとしながらも、その妙なイントネーションのある声が言わんとしていることがわからず、咄嗟に問い返す。
「え、なんですか?」
「モツ。ぃや、ハラミかな。わかんなぃ。うふふ。おぃし、おぃしぃな」
ひどくくぐもった、そして滑舌の悪い男の声。
——ヌチャ、ネチャ、グプ、ヌチュ。
不快な音は続く。そこでようやく、この音が咀嚼音なのだと俺は気がつく。薄いカーテンが隔てる向こう側、ベッドの隣で、男が『なにか』を食っている。ブルリと体が震え、総毛立つのを感じた。
ひどく、悪い予感がする。
俺は、自分の呼吸が荒くなっていくのを感じながら、音と声のする方をじっと見つめる。見えるのは微かに揺れるカーテンだけなのだが、その向こう側でなにが行われているのかを、取り返しのつかないことになる前に察知したかったのだ。
防衛本能に突き動かされるまま用心深く見つめていると、暗がりの中でも、カーテンの向こう側でモゾモゾと動いている影があることがわかった。大きな影は、隣のベッドの上でかがみ込んでいるようだ。
と、どこかから吹き出してきたような赤い飛沫が、目の前のカーテンにビシャリとかかる。俺はその瞬間、なにが起きたのか分からなかった。しかし、充満していた悪臭の中に混じる鉄の匂いが強まったことで理解する。
これは、血だ。
事態を認識した瞬間、自分の喉から風を切るような鋭い音が漏れる。抑えようもなく体が震えだし、俺の手足を拘束している鎖が耳障りな金属音をたてはじめる。
「ぅるさぃなぁ」
隣から男の声がした。続いて、ベッドに横になったままの体に、地鳴りのような振動が伝わってくる。俺の意図とは関係のないところで、カーテンがゆっくりと開く。
まず見えたのは、脂肪の塊だ。そこには、想像を絶する巨漢が立っていた。胸・腹・足・腕・背中。そのすべてに、人体とは思えない程の形状にまで垂れ下がった脂肪がついている。彼は全裸だが、全身が脂肪に覆われているせいで、局部などはまったく見えない。そもそも一般的な規格において、この超肥満体を覆える服は存在しないだろう。
だがなによりも俺の目を引いたのは、その奇妙なほどに白く感じる肌に塗れた、夥しい量の血だ。顔を中心に、口から胸を通り越して、でっぷりと突き出た腹にまで血は垂れている。ブヨブヨとしたグローブのような両手も血に濡れており、彼の握るカーテンには赤い大きな手形がついた。
俺は全身を震わせ続けながらも、血の跡を追うように隣のベッドを見る。すると、俺と同じように両手足を拘束されている男の体がそこにあった。
しかし。
「うあああああ!」
その男の状況を認識した瞬間、俺は絶叫する。
男の腹から、胸にかけての肌が無惨に破られていた。溢れ出した血の中で、原型をとどめていない臓物が散乱している。想像するまでもない。血まみれの巨漢によって食い漁られていた跡だ。異常すぎる状況に、思考が追いつかない。
呼吸も忘れてその光景を見つめていた俺は、腹を掻っ捌かれた男と視線が合った。それは形容ではなく、文字通りの意味だ。男はゆっくりと瞬きを繰り返し、まるで不思議なものを観察するかのように、絶叫する俺のことを見返している。男は内臓を喰われながら、まだ生きているのだ。
いったい、何が起こっている。
パニックになりながらも、拘束から逃れようと俺は必死に身を捩った。枷は緩む気配がなく、ただただ鎖が揺れる金属音が大きくなる。
「ぁー……」
巨漢が一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。彼が歩くたびに床が揺れ、ベッドが振動がする。
「おい、やめろ。なにをする気だ」
ドシン、といっそう大きな振動をたて、巨漢が俺のベッドの横に膝をつく。
視界のほとんどを占領していた巨体が退いたことで、周囲の様子がより広範囲に見えるようになった。ここは、六つのベッドが並べられている病院の大部屋だ。すべてのベッドには拘束された男がおり、俺以外全員の胸から腹が大きく開かれ、内臓を食い破られている。部屋の床は一面血の海に染まり、その惨状の凄まじさを物語っていた。
ここまでの状況を把握して、次に俺の身に何が起こるのか、想像することは容易い。
「やめろ、やめてくれ! 嫌だ!」
金属の拘束が外れることはないと承知の上で、叫びながら渾身の力で暴れる。
と、そのとき。ヘッドボードの辺りから、なにかが落ちてきた。コードに繋がった小型の機械がマットレスの上で一度弾み、滑って、俺の拘束されている右手にたまたま触れる。
手に触れたそれがナースコールであることが、俺にはすぐにわかった。どこに通じているのかもわからず、無我夢中で中央のオレンジ色の大きなボタンを押す。
「だれか、誰か……助けて! 食べられる、助けてっ」
声が届いているのか、いないのか。世界のすべてから切り離されたような地獄の中で、恐怖だけが体を動かしている。
巨漢は、俺の声やもがく体の動きを気にする様子を見せない。ただ、ひどくゆっくりとした動きで俺へと手を伸ばす。そして入院着の紐を引くと、俺の裸体が露になった。巨漢のその手つきは、まるでホイル焼きにされた料理の包みを開いているかのように、楽しそうだ。
「んー、ふふふ、んーふ」
体型によるものと思われる荒い呼吸の中で、巨漢は鼻歌らしきものを歌っている。
——食われる。
それは、生物の根源的な恐怖だ。全身の血が逆流し始めている感覚がした。暑いわけではないのに、毛穴という毛穴から汗が噴き出す。瞳の端からとめどなく涙が溢れた。
血に塗れた巨漢の醜悪な顔が、ゆっくりと俺の腹部へと近づいていく。そこまで接近してはじめて、巨漢の髪がどす黒い乾いた血で固まっていることに気がつく。彼はいったいどれほどの時間をかけて、この尋常ならざる食事を続けているのか。俺はどれほどの苦痛を味わいながら、この男に食われるのか。
熱く不気味な吐息と、垂れる涎、硬い歯のような感触が、腹に触れた。
「いやだあああああああっ」
絶望とパニックの中で絶叫した、その瞬間。ゴンッと、ひどく鈍い音がした。
巨漢が全身から力を失い、俺の腹の上に突っ伏す。
「ぐえっ……」
押し潰されて、あまりの重さに、絶叫とは違う声が出た。
顔をあげれば、そこにはいつの間にか別の男が立っていた。暗がりの中ではわかりにくいが、金に染めた長めの髪を、後ろの高い位置で一つに括っている青年だ。垂らされた前髪の下には包帯が巻かれ、右目を隠している。着ているのも俺の身に纏っているような入院着ではなく、ストリートの若者がよく着ているような、オーバーサイズのフード付きジャケットだった。肩で呼吸を繰り返し、振り下ろしたばかりの消火器を握りしめたまま、彼は気を失った巨漢を見つめている。表情には、予想外のものを目にしたような驚きが見てとれた。
俺もまた呆然としたまま、見知らぬ青年を見つめた。そして、いまなにが起こったのかを理解する。青年が手にしている消火器で巨漢の頭を殴り、気絶させてくれたのだ。つまり、彼は俺の味方だ。
「た、助けてくれ……」
俺の懇願の言葉に、青年はハッとしたように俺へと視線を移す。だがその眼差しには、なにかを疑うような色がある。
「アンタ、名前は?」
「陸玖だ。今泉陸玖。どうしてここにいるかは、わからない。ただ目が覚めたらここにいて、こいつに食われるところだったんだ。お願いだ、この拘束を外してくれ」
俺は早口で必死に捲し立てる。青年にこのまま見捨てられてしまうのではないかと危惧したが、俺の返事を聞き、彼の表情はあっさりと変わった。緊迫した疑いを含んだものから、どこか安堵したようなものへ。
「わかった、大丈夫だ。いま外してやるから、動かねぇでちょっと待ってろ」
青年は俺の真横へと移動すると、ポケットから取り出した鍵で、俺の手足に嵌まる枷を外していく。
彼が枷の鍵を持っていたことに安堵すると同時に、どうして持っているのかという疑問も湧いてくる。彼の服装はどう見ても病院関係者ではない。そもそもどうして俺が拘束されていたのかもわからないが、彼が鍵を持っているということは、彼が俺を拘束した張本人なのだろうか。
両手足の枷を外し終えると、青年はチラリと俺の顔を見て、首を振った。
「色々と聞きたいことがあるだろうが、話はあとだ。ここから出るぞ」
青年は言うと、俺の体の上にのしかかっている巨漢の体を押し退けようとする。彼の言葉には、一も二もなく頷いた。わからないことだらけだが、彼のことは信じられると感じられた。
両手足の自由を得た俺もまた、なんとか巨漢の下から逃れようともがく。しかしその体はあまりにも重く、ブヨブヨとした皮膚がゴムのグリップのように摩擦を強くしている。なかなか巨漢の下から脱出することができない。
「だめだ、抜け出せない」
「しっかりしろ。一、二の三でいくぞ。一、二の……」
青年が掛け声をかけてくれようとしたとき。体にかかっていた重みが、突然ふっとなくなった。巨漢が体を起こしたのだ。
「あー……ぃたぃぅうう。ままぁ」
地響きのような声。意識を取り戻した巨漢は、脂肪に埋もれた小さな瞳で間近にいる俺を見る。その眼差しには、妙に寂しげな色があった。
「陸玖、逃げるぞ!」
青年に名前を呼び立てられ、俺は腕に刺さっていた針を引き抜いた。跳ね起きてベッドから降りるが、足に力が入らず、その場に座り込んでしまう。
「だめだ、足が……」
「弱音吐くな、食われてぇのか、根性だせ!」
青年は厳しい声を発しながらも、見捨てることなく俺の腕を掴んで引き上げた。巨漢の手が俺の足を掴む寸前。俺は促されるままに青年の肩を借り、共に走り出す。
「ままぁぁあ、ぼおおぅううぅうよぉおおお」
背後から聞こえるのは、人のものとは思えぬ声。巨漢の立てる震動が、汚れた床を伝わって裸足に響いた。
血の海と化している部屋から出ることには成功したが、照明はどこにもついていなかった。廊下には窓がないため、部屋の中よりもいっそう暗い。
巨漢を閉じ込めるため、俺たちはすぐさま後ろ手に病室のドアを閉め、鍵をかけて足を止める。が、次の瞬間には、巨漢が全体重をかけドアをぶち破って出てきた。
「うっそだ……」
「こいつ、もう人間じゃねぇだろ」
呆然とする俺の体を再度引きながら、青年は悪態をつく。俺たちは再び廊下を走り出した。振り返る余裕はないが、なおも巨漢が追ってきていることはその振動でわかる。
「クソ野郎が。あんな見た目で走れんのかよ」
ドアでもその行手を阻むことができないとしたら、いったいどこに逃げればいい。
「……そうだ、階段! 階段を上ろう。きっとあの体型じゃ階段は上がれない」
咄嗟に思いついて叫ぶ。
「なるほど、いい考えだ。けどよ、階段はどこにある」
「こっちだ!」
俺はある一方向を指差した。青年は俺の案内を疑うことなく進行方向を変える。
この案内は、決して当てずっぽうでは無い。廊下へ出たことにより、俺はここが『
しばらく走ると、目前に広々とした階段が迫った。思うように動かない足を叱咤し、階段を駆け上がる。踊り場まで到達したときに歩調が合わなくなり、俺たちはお互いにもつれるようにして、派手に前へと転んだ。
視界に、俺たちを追いかけて階段下までやってきた巨漢の姿が映る。
「やつの様子はどうだ」
青年は転んで腹這いになった体勢のまま、階段下を見る。俺もまたその場に座り込んだ状態で、巨漢の姿を観察する。
こうして距離をあけて改めて見れば、より醜悪な姿の全貌がわかる。あの他人の血に塗れた口をつい先ほどまで腹につけられていたのだと思うと、背筋がまたゾッとした。走ったことによるものか、緊張からか、なにが原因なのかは最早わからないが、鼓動がうるさいほどに高鳴っている。
巨漢はしばらく階段下でうろうろとしていたが、やがて諦めたのか、振動を響かせながら廊下を戻っていった。その姿を目にした途端、体を支配していた緊張の糸が途切れる。俺は深く息を吐き出し、階段の手すりにもたれるようにして体から力を抜く。青年もまた同じように脱力し、踊り場の床に横になっていた。
しばらくはお互いに無言のまま、体力の回復に努める。だが、俺は言わねばならぬことを思い出し、青年へと視線を向ける。
「助けてくれて、本当にありがとう。あの……」
何と呼びかけたら良いものかと逡巡していると、青年はそんな俺の心を読んだかのように、口角を上げて不敵に笑った。
「おれの名前は
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