第二章 白衣の天使の巣
一 工場火災
「ここは『こくしいん』だ」
俺たちはどういう状況にあるのかと問うと、聖はそう端的に答えた。馴染みのない単語だ。
「『こくしいん』? 藤薪病院じゃないのか」
「ああ、なんか元の病院の名前はそんなこと言ってたような気もする。アンタが最後に記憶してるのは何月何日だ」
「一二月一九日……いや。あのとき、もう真夜中は超えていたから、一二月二〇日か」
聖は怪訝そうな顔をする。
「なら、『こくしいん』のことも知ってるだろ。開院したのは一二月一日だったはずだぜ。朝から晩までニュースでやってたし、相当の騒ぎだったからよく覚えてる」
「あー……その頃の俺、ずっと会社に泊まり込んで働いてて。もし世間で何かあったとしても、何も情報を得られていない、と思う。その『こくしいん』って、どう漢字で書くんだ? 日本語でいいんだよな」
「マジか。あんな騒ぎを知らずに過ごせるとか、どんな働き方だよ。社畜って怖ぇー。特に外傷もないみてぇだけど、アンタもしかして、過労でここに担ぎ込まれたのか?」
床に寝転んでいたところからゆっくりと体を起こすと、聖は俺の横に腰掛けた。露わになっている左目だけで、彼は俺のことを信じられないものでも見るように凝視する。
自分がとんでもない生活をしていた自覚はある。
「会社で倒れたところまでは覚えている。ぐうの音も出ない」
俺の返事に、聖は軽く笑った。
「克服の『克』に、deathの死で『克死』と、それに病院の院をつけて『克死院』だ。つっても病院じゃなくて、克死状態のやつをただただ収容するだけの場所だ。いっつも対応が後手後手だった国の動きが、奇跡の日があってからそこだけ妙に対応が早くてさ。一二月一日に開院したんだ」
「克死状態? 奇跡の日?」
聖は丁寧に説明してくれているのだが、説明中で使われる単語の悉くが知識不足のせいでわからない。俺はただただ問うことしかできないが、聖は嫌な顔ひとつせずに説明を続けてくれた。
「奇跡の日ってのは、去年の一一月二〇日のこと。ちなみにアンタの記憶がない間に、もう年は越してるぜ。今日が正確には何日なのかはわからねぇけどな。奇跡の日は、世界中で誰一人死ななかった日として、次の日からそう呼ばれるようになったんだ。奇跡の日当日も、夕方ぐらいからは騒がれだしたんだがな。奇跡の日以来、人間はなにをやっても死なない存在になった」
「誰一人死ななかった日って……あっ。もしかしてあれは、そういうことだったのか」
俺の脳裏に、駅のホームで目撃してしまった光景が蘇る。電車に轢かれ、体を切断されてもなお生きていた少女の姿。あの日がまさしく、奇跡の日だったのだ。
「ちょっとは聞いた覚えがあったか?」
「いや。実は、一一月二〇日の朝に人身事故を目撃したんだ。そのときに、妙な違和感を覚えていたことをいま思い出して」
人身事故の詳細を軽く説明すると、聖は軽く笑った。
「気味が悪ぃ話だよな。死ななくなったって言っても、負った傷がたちどころに治るとか、人が老けなくなったとか、そういう魔法みてぇなことじゃない。どんなに体が死ぬような状況になったとしても、痛みや苦しみを感じたまま絶対に死ねないってことだ。ここにいるってことは、アンタも体験しただろうからわかるだろ? 本来であれば死ぬくらいの肉体の状況っていうのは、並大抵の苦痛じゃない」
頷く俺を見て、聖は言葉を続ける。
「そんで、どうやら人は地獄のような苦痛が限界を突破すると、頭がおかしくなるらしい。その、死を通り越して頭がおかしくなったやつのことを『克死状態』って呼ぶようになったんだ」
話を聞きながら、会社で倒れたときのことを思い出す。永遠とも思えるほどに続いた地獄の苦しみ。俺は、あの苦痛によってつい先ほどまで克死状態になっていたということだ。
「つまり、長い気絶をしていたような状況、ということか?」
「いや、気絶とはまったくの別物だ。克死状態でどういう症状を発現するかは本当に人それぞれみたいなんだが。ただただじっとしてる奴もいれば、叫び続ける奴もいるし、凶暴になる奴もいる。発狂する……って言った方がわかりやすいな」
「じゃあ、俺はいまも克死状態にあるってことになるんだろうか」
自分の精神状態を見つめ直してみるが、不思議な緊張状態と興奮が続いていて、まっとうなのかどうかの判断は難しい。
「いや。克死状態のやつは意味のある言葉を話さないし、まともに会話することはできない。つまりアンタはもう克死状態からは脱してる。理由はわからねぇけどな。おれが外にいたときは、克死状態になった奴は、もう絶対に元には戻らねぇって言われてたんだぜ。多分外では、いまもそう思われてるな」
聖はそこで一度言葉を区切ると、口角を上げて笑ってみせた。
「人が死ななくなったら、病院は患者で溢れかえるよな。患者の大半は奇怪な行動をし続ける。しかもそいつらは治る見込みがなく、従来通りの対応じゃ間に合わない……ってことで、克死状態の奴らだけを入院させるための施設が稼働しはじめた。それがここ、克死院ってわけだ」
「聖は克死院のスタッフなのか?」
「いや、おれもアンタと立場は一緒だよ。気がついたらここにいた。おれが克死状態を脱したのは、日にちのカウントが正しければ、いまから一週間前だ」
この世から人が死ななくなったという荒唐無稽な話は、本来であればにわかに信じられることではない。ただ、俺自身が身をもって体験してしまっているし、その事実を飲み込めるだけの光景をすでに複数目撃してきた。『この世界からは人が死ななくなったが、代わりに克死状態になる人が出てきた。克死状態の人々を収容するための施設として、克死院が作られた。俺は過労の末に克死状態になり、その克死院に入院した。ここがその克死院である』というところまではわかった。しかし、俺はここでまた新たな疑問を抱えることになる。
では、この院内の異様さはなんだ。
窓の外から差し込む光の様を見ると現在は夕暮れ時のようだが、院内に電気は一つもついておらず薄暗い。スタッフが見当たらないどころか、先ほど走ってきたフロアには他の人の気配がいっさいなかった。いままでで目撃したのは、院内を自由に動き回る異様な巨漢と、拘束されたまま巨漢に食われた患者たちだけ。
眉を顰め考え込む俺の姿を見てから、聖が勢いよく立ち上がる。
「納得いかねぇって顔してるが、残念ながらいったん話はここまでだ。おれは早いところ戻らねぇと。アンタも一緒に来いよ」
「戻るって、どういうことだ? 外に出られるのか」
「いや。どの窓にも鉄格子が嵌ってるし、たぶん、外にはどこからも出られねぇよ。実は、この中にもう一人克死状態じゃねぇやつがいて、ナースセンターに置いてきたんだ。そいつのところに戻る」
さらりと告げられた『外にはどこからも出られない』という言葉に引っかかるものを感じながらも、俺は一度、先のことを考えないことにした。
「なるほど……その、ナースセンターは何階の?」
問いながら、壁の表記を見た。ここは五階と六階の中間にある階段のようだ。
「ナースセンターって各階ごとにあるのか? 俺は、アンタのいた病室まで階は移動してきてねぇよ。だから、ただ戻ればいいだけなんだが……そういえばアンタさっき、病室から出た直後に階段の位置も知ってたよな」
「ああ。さっきも言ったが、この建物は藤薪病院っていう病院だったはずだ。藤薪病院に家族が入院していたことがあって、俺は過去に何度も来たことがある。克死院になったときに大幅な改修工事がされていなければ、だいたいどこにどういうものがあるかはわかると思う」
「そっか、内部の構造に詳しいってのはありがてぇな。実は俺、克死状態から目が覚めてからいままで、ほとんどそのナースセンターから出てなかったんだ。簡単な院内マップはあったんだが、自分が建物のどこにいるのかすら、よく分かってなくて」
「ああ。去年経営破綻したという話は聞いていたが、藤巻病院はもともと、国内有数の超大型病院だったからな」
俺の記憶にある限り、藤薪病院はA棟・B棟・外来棟という三つの建物が渡り廊下で連結していて、内部構造は複雑だった。いまはどうなっているかはわからないが、病院時代、外来棟はその名の通り外来患者用の建物で、A棟・B棟はそれぞれ病種別の病棟になっていた。内装の感じからいって、ここはおそらくA棟だ。
昔の記憶を呼び覚ましながら、また階段下を覗く。
「あのデブはもういなくなったか?」
「ここから姿は見えないな。どこかの病室に入っていったのか……あの巨漢が克死状態ってこと、なんだよな」
肯定が返ってくると思い問いかけたのだが、予想に反して聖は眉を寄せた。
「おれもぱっと見たときはそう思ったんだが。消火器で殴りつけたとき。あいつ、一瞬だが気絶したよな」
「そう見えたけど……それが?」
「克死状態の人間は、寝ねぇんだよ。外にいたときに聞いてた情報じゃ、どんな薬を投与しようが、頭を殴りつけようが、克死患者は絶対に意識を失わないって言われてた。だから、もしあのデブがあのときに気絶したんだったら。あいつはおれたちと同じように、もう克死状態から回復してるのかもしれねぇって思ってな」
あの巨漢がまともな精神状態にあるとは思えない。しかし、俺は聖の言葉に思い出すことがある。
「そういえば……目が覚めたとき、あの巨漢とほんの少しだけ話したんだ。ほとんど会話にはなっていなかったけど。でも、意味のある言葉ではあったと思う」
「それじゃあいっそう、あのデブは克死状態じゃねぇのかもな。克死状態じゃあないにせよ、話は通じなさそうだから、危険であることには変わりねぇけどさ」
聖の返事に俺は顔を顰める。
同じ人間を生きたまま食っていくという行為が、死を超えた先の特殊な発狂症状なのだということであれば、まだ辛うじて納得ができる。しかし、もしそうでないのであれば、彼はなにを考えて動いているのだろうか。あの血の海に染まった病室で見た光景と、身に迫った危機を思い出して、また気分が悪くなる。思わず口元に手を当てた。
「ま、こんなところで怯えてても仕方ない。歩けるな?」
問いかけられて頷き、立ち上がる。多少なりとも落ち着いたせいか、俺の体は空腹を感じはじめた。けれどもいまはまだ、そんなことを言っている場合ではない。
「俺の元いた場所に向かうが、もし途中でデブに見つかって追いかけられたら、またここに戻ってくる。ナースセンターにあいつは近づけない。それでいいな?」
聖は俺の横を通って階段を降りていく。彼の最後の言葉には、妙に重い決意のようなものを感じた。
「そのナースセンターにいるのは、聖の大切な人なのか?」
「会えばアンタもわかる。さっさと行くぞ」
軽い好奇心から問いかけるが、明確な返事がないまま端的に行動を促されてしまった。仕方なく後を追うと、階段から出てあたりを見渡してみる。進行方向にも、左右の廊下にも巨漢の姿はない。俺と聖はお互いに顔を見合わせ、頷き合うと、来た道を慎重に戻っていく。
院内は静まり返っている。耳を澄ませば、どこか遠くから人間の声のようなものが聞こえる気もする。音の発生源は、少なくともこのフロアにはない。
廊下をまっすぐに進んでいくと、右手に特徴的なカウンターを備えたナースセンターが見えた。何事もなく目的地に近づけたことに安堵し、緊張を緩めかけたとき。前方に、奇妙な影が映る。
俺はすぐさま、その場で歩みを止める。
薄暗い廊下の中、黒い紙を貼り付けたように浮かび上がるシルエットは、人の形に似ていた。だが、一般的に考えられる人の形状よりもかなり細い。仮にあの影が人だとすると、腕部が左右非対称で、片方は長すぎる。右腕にあたる影の部分は床にまで届いており、引きずるような体勢になっている。
隣を歩いていた聖は、まだ影の存在に気づいていない。ナースセンターの中へと入ろうと、カウンターの方に近づいていく。前方の影がゆらりと動いた。聖の足音に反応しているかのようだ。
「なあ、聖……」
その異様な存在を知らせるため、俺が小声で呼びかけたそのとき。こちらへ向かって猛烈な勢いで影が動き出した。異様に軽いカサカサという足音と、金属で床を引っ掻くような耳障りな音が同時に響く。
その音に、聖も接近してくる影の存在に気がついた。
「なんっだ、あれ……」
「こっちに来るぞ、どうする」
躊躇している間も無く、手を伸ばせば触れてしまいそうな距離までそれが迫る。先ほどから充満している悪臭に混じって、焦げ臭いような異様な匂いが鼻腔に届く。
と、俺は影の正体を理解した。それが黒いのは、暗くて影になっているからではない。
それは、男女の判別すらつかないほどに全身が焼けて黒焦げになった人間の体だ。まだ骨だけになるまでは焼けていないのか、全身が肉には覆われている。しかし、本来であれば絶対に生きていられるわけがない、焼死体と形容して良い状態の人体だ。それが、驚くほど機敏に動いている。
「うわあああああっ」
焼死体の異様に長い右腕が振りかぶられ、頭に打ちつけられる寸前で、咄嗟にしゃがみ込んで回避する。腕は俺のいた横の壁へとぶち当たり、壁の一部を破壊した。コンクリートが崩れると同時に、金属の高い音が響く。腕の先端は、鉄パイプのような金属の塊になっていた。全体が黒ずんだ血に汚れている。
焼死体は、それを武器として握っているわけではない。おそらく、焼死体が現在の状態になった火事のときに、体の傍にあったものが尋常ならざる炎の高温で溶けて癒着してしまったのだ。実に醜く、そして、異様な光景だった。
しゃがみ込んだ俺の体を目がけて、焼死体の右腕が再度振りかぶられる。
「危ない!」
聖が叫ぶ。彼は床を蹴り、焼死体の背後から腕にしがみついた。必死に羽交締めにして焼死体の動きを押しとどめようとするが、焼死体はもがくように腕を振った。力を込めていなさそうな仕草であったにもかかわらず、あっさりと聖の拘束は解かれてしまう。そのままの勢いで投げ飛ばされた聖の体は、廊下に設置されていたベンチに鈍い音を立てて激突する。
「聖!」
叫びにも似た声で呼びかける。
聖は俺の声に応えることも、立ち上がる様子もない。ベンチに背を預け、その場で項垂れたままだ。気を失ってしまったらしい。
理由はわからないが、克死状態の人間は異様なほどの怪力を持っているようだ。一方で俺はいま、武器になるような物の類をなにも持っていない。身につけているのは浴衣のような布切れ一枚の入院着だけ。靴さえ履いていない。そもそも、たとえ俺が武器になりそうなものを持っていたとしても、この世界で人間は絶対に死なないのだ。克死状態では、意識すら失わせることができない。
怪力を持ち、昏倒もしない不死の存在。そんなモンスターのような相手を、俺一人でどう対処すればいい? 逃げるにしたって、現状どうなっているのかもわからない院内をいつまでも無策に走り続けるのか? そもそも、聖の体を支えて、いまの俺の体の状態で逃げきれるのか?
必死に思考を巡らせながら、こちらへと接近してくる焼死体を見つめる。しかし、いくら考えたところで突破口は見当たらない。
救いは、たとえここでどんなに殴られても、俺たちもまた絶対に死なないということだろうか。だが、それは本当に救いなのか? 汚れた鉄パイプに殴打の限りを尽くされ、肉塊になって、地獄のような苦痛の中で再度克死状態に陥ることは、死を超えた最悪の事態ではないのか。
……だめだ。たとえ待っているのが地獄であったとしても、俺は何もできない。
奇妙な諦念が心を覆う。至近距離まで近づいた焼死体の姿を目にすれば、恐怖で体が小刻みに震えはじめる。
そのとき。チャリンと小さな金属音がした。
焼死体はすぐさま音に反応した。猛烈な勢いで振り返ると、目の前にいた俺を無視して踵を返し、聖の方向へと移動しはじめた。
音のしたほうへ俺も視線を向けると、その正体はすぐにわかった。聖のポケットに入っていた、俺の枷を外してくれた鍵が落ちたのだ。
ふと、俺の脳内で雷のような閃きが走る。
考える前に走り出していた。
俺は、余計なものを身につけていない分、動くときに大きな音を立てないで済む。焼死体よりも速く聖の元へと駆け寄ると、落ちた鍵を拾い上げ、ナースセンターとは反対へ向かって放り投げる。鍵は再度、落下地点でチャリンと高く澄んだ音を立てた。
すると俺の思惑どおり、焼死体は鍵の音に導かれるようにして、そちらの方向へと移動していく。
ふと、意識を失っていた聖が目を覚ました。
「……っ」
彼の口が開きかけるのを察して、俺は聖の口元を片手で強く覆った。同時に自分の唇の前で指を立て、静かにするようにと合図を送る。俺の必死な形相に、聖も意図を理解したようだ。左目を見開いたまま、こくこくと頷いている。
俺たちは廊下の片隅に身を寄せ合うようにしてしゃがみ込んだまま、息を殺して、じっと様子を伺う。焼死体は、しばらくウロウロと鍵の落ちたあたりを徘徊していた。こちらに戻ってくる様子はない。
そうしてただ身を硬直させて、体感的には三〇分ほどが経った頃。焼死体は別の何かに気を引かれたように、その場を離れていった。
不気味な姿が見えなくなって、俺はようやく聖の口元を覆っていた手を離した。二人同時に、強張りきっていた体からゆっくりと力を抜く。それでも、まだ声を出す気は起こらなかった。
聖はジェスチャーで動き出すことを俺に伝えてきた。頷きで返すと無言のまま立ち上がり、二人でナースセンターのカウンターの内側へと入る。聖が先頭になり、奥の部屋へとつながるドアを開けた。
そこは、ナースセンターの内部。看護師たちの事務所となっていたはずの場所である。しかし、様子は一変している。扉を入ってすぐの位置には、事務机がバリケードのように天井付近まで積まれていた。そのせいで、バリケードの内部がどうなっているのかはよくわからない。
事務机の隙間から奥に小さく窓がある様子は窺えたが、ガッチリと外側から嵌った鉄格子の奥に見えるのは、太陽も沈みかけの昏い空だ。院内の他の場所と同様に、部屋の中は薄暗い。音を立てないようにして、俺は後ろ手にドアを閉めた。
聖が俺に目配せをして頷いてから、優しく小声で呼びかける。
「ゆめ、出てきて大丈夫だぞ」
一瞬の沈黙の後。バリケードの影からは、幼い少女がヒョコリと顔を覗かせたのだった。
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