三 先天性心疾患
白い靄が立ち込めている。
目を凝らしても、はじめは何も見えなかった。しばらくすると、鼻腔に強い消毒剤の匂いが届いた。嫌な記憶が呼び覚まされる。
靄の中に光が射し込み、ゆっくりと浮かび上がった光景は、見慣れた病院の廊下だった。自分がいる場所が判明しても、靄は完全に消え去ることはなく、視界が全体的に白んでいる。
俺は、廊下の壁につけて置かれたビニール張りのベンチに座っていた。特にすることもなく、足をブラブラと揺らす。足先を跳ね上げるたびに、小さなスニーカーが視界に入る。お気に入りだったがボロボロになってしまった、稲妻の形の反射材が貼り付けられた青いスニーカー。それは、祖母がプレゼントしてくれたものだ。
ふと気になって、両手を目の前に翳してみる。ふよふよとした柔らかい子供の手がそこにあった。いま、俺の体は小学生の頃に戻っている。
手を下ろすと『A507』と書かれた病室の番号が目に入った。
ドアが閉じられている病室からは、久しぶりに聞く母の啜り泣く声が微かにしている。何を言っているのかはわからないが、ボソボソと話し続けている声は主治医のものだろう。いったい何を話しているのか、気にはなる。だが、俺には大体の予想がついていた。彼は彼女の体調について、いつも悪いことしか言わないのだから。
俺の目の前を、幾人かの看護師や医者が足早に通り過ぎていく。誰も俺に視線の一つも送ってこない。
まるで自分自身が置き物か何かになったようだ。この気分は特別なものではなく、家や学校など、どこにいても感じるものだった。世界は、俺を中心には回っていない。俺に求められているのは、おとなしくソファに座っていることだけ。待つためだけの時間が、一時間ばかり経過する。
ただ、暇だな……と思った。それは、無為な俺の気持ちだった。けれども自分の考えを打ち消すため、すぐに首を振る。そんなことを思ってはだめだ。彼女はいつだって病室の中で頑張っているのだから。
なにかマイナスなことを考えるたびに頭に浮かんでくる言葉は、俺が生まれた時より周囲の大人たちから言われ続けたものだ。もはや、言い付けられているからそう思うのか、自分から生まれた考えなのか、区別をつけることは難しい。
不意に、病室の扉が開いた。
「陸玖。
父の声に呼ばれ、俺はソファからピョンと立ち上がる。
中へと入った小さな病室には、光が満ちている。部屋の中央にベッドが一つだけ置かれおり、そこに横たわっているのは、幾つもの管に繋がれた痛々しい姿の少女。俺には、彼女がとても美しく見えた。
「陸玖」
彼女は、か細い声で俺の名を呼ぶ。
「海美」
名前を呼び返すと、俺はベッドの横へと歩いていった。海美の手を握ると、奇妙にひんやりとしている。だが、想像よりも強い力で握り返されてホッとした。
「ごめんね、今日はせっかくのクリスマスイブなのに、ずっと病院で待たせて。陸玖はもうすぐ帰れるからね」
「海美は帰れないの?」
振り向いて尋ねると、父親は眉を下げて頷いた。
「お父さんたちは外で先生とお話ししてくるから、海美のことを頼んだよ」
父親に言いつけられ、俺は頷く。
主治医を先頭に、病室にいた大人たちが外へと出ていく。ハンカチを目元に当てたままの母は、父に肩を抱かれていた。
病室には、俺と海美だけが残される。体重をかけないようにしながら、手を握ったまま、俺はそっと海美の胸元に頭を寄せる。入院着に耳をつけると、自分のものよりも弱々しく感じるものの、しっかりとした鼓動が聞こえた。トクトクという規則正しい音に安心する。
「手術したところ、痛い?」
「麻酔が効いてるから、いまは痛くないよ。陸玖、お腹空いてない?」
「少しだけ」
正直に答えると、海美は吐息だけで笑う。
「お家帰ったら、お腹すいたって、ちゃんとお父さんに言うんだよ。お母さんは多分、私に付き添ってくれるから、朝まで帰れないと思う。ごめんね」
「海美のせいじゃないよ。早くよくなってね」
海美はよく俺に謝る。自分が母を独占してしまっているという、罪のような意識があるのだ。俺が抱いている寂しさを察してくれているのは、海美だけだった。
海美の心臓は、生まれつき多くの障害を持っていた。そのため、日常的に運動をすることができず、ずっと体が弱い。昔から幾度となく心臓の手術をしているが、ザルにつぎはぎをして鍋として使っているようなものだ。原因不明の体調不良が度々発生するため、家の中は常に海美を中心にして動いている。そのことに言いようのない寂しさを覚えはするが、俺も海美が大好きだった。
他の誰もが海美を見ていても、海美だけは俺のことを見てくれる。海美は心臓の形が人とは違うから、心も他の人とは違う形をしているのだと思う。優しくてかわいい、大切な俺の双子の姉。
「ケーキ屋さんでクリスマスケーキの注文、してたでしょ、あれ、ちゃんと家に帰るときに受け取りに行ってね」
「受け取ったら、ケーキ持ってこようか?」
「今日は無理かな……でもほら。来月は誕生日があるから、ケーキはその時にまた、一緒に食べようね」
海美は、繋いでいるのとは反対側の手をのばし、彼女の胸元に寄せたままの俺の頭をゆっくりと撫でる。同い年だというのに、海美は紛れもなく俺の姉だった。撫でてくれるひんやりとした手が気持ちよくて、俺はうっとりと目を閉じる。
「円周率、何桁まで覚えられた?」
不意に、海美が聞いてくる。
「一八〇までいった」
「ふふふ、やっぱりすごいね。もうすぐ二〇〇いけるね。陸玖は天才だよ」
褒めてくれる海美の言葉に、胸の奥がくすぐられるように嬉しさを覚える。
なぜだか俺は、昔から無意味な数字の羅列を覚えるのが得意だった。〇から九までの数字に、無意識に人格のようなものを感じるのだ。俺にとっての数字の羅列は、馴染みのある街を散歩して、友達と順に会って行くような感覚に近いものだった。
円周率という延々と続く数字の並びがあると知ってからは、俺はそれを憶えることを趣味であり、特技としていたのだ。海美は何が楽しいのか、俺が円周率を呪文のように唱えるのをよく聞きたがった。
「はじめから聞かせて?」
「いいよ」
ねだられるままに、俺は円周率をはじめから誦じていく。そうして、両親が戻ってくるまでの時間を俺たちは共に静かに過ごす。生まれるときに誤ってふたつに割れてしまった魂が一つに戻るような、穏やかで優しい時間だった。
海美が受けた手術は、本来はクリスマスと正月が済んだあとに予定していた。それが、海美の体調の急激な悪化を受け、急遽今日行われたのだ。
海美が言ったとおり、母は付き添いとして病院に泊まり込むことになった。俺と父だけのクリスマスイブ。父は俺のことを思って、普段以上に努めて明るく振る舞っていてくれていた。しかし、それでも家は広く寂しい。
事前に予約していたクリスマスのホールケーキを受け取って、二人で食べた。四人で食べる予定で購入していたものだったので、二人で割るとどうしても多い。だからと言って、たくさん食べられて嬉しいとは思わなかった。海美が好きだからという理由で、チョコレートのクリスマスケーキを選んでいたのだ。やはり海美に食べて欲しかった。海美の喜ぶ顔が見たかったし、母には笑っていて欲しかった。
その晩。海美が早く家に帰ってこれるようになることを祈りながら、広く感じる子供部屋で、俺は一人で眠った。
翌日の朝。パジャマ姿のままで自宅の二階からリビングへと降りていくと、海美と二人で飾りつけたクリスマスツリーの根本に、プレゼントボックスが一つ置かれているのが見えた。包装紙の色は青。その色が俺へのプレゼントだということを示している。
俺は目を見開く。胸に去来するのは、喜びと戸惑いがないまぜになったものだ。プレゼントボックスを見つめながら、どうすれば良いのかわからなくなり、リビングの入り口で立ち止まる。困惑の理由は、こんなことが起こるクリスマスは初めてだったからだ。
俺は当時から、サンタクロースがこの世界に存在しないことを知っていた。クリスマスの朝には、両親から直接プレゼントを渡されるのが毎年の恒例だったのだ。包まれている場合はプレゼントの包装紙は赤と決まっていて、中身はいつも一つ。家族でできるボードゲームや、子供が座れるほどの大きなぬいぐるみなど、海美と俺で共用することを前提にした選択がされていた。
「おはよう、陸玖。どうしたんだ? あれはサンタさんから陸玖へのプレゼントだろう。開けないのか?」
すでに身支度を済ませていた父が、チーズを乗せて焼いたトーストを手にキッチンから出てくる。サンタさんから、という言葉の響きに、わずかに心が躍った。
「でも、いいのかな」
「いいに決まっているだろう。開けてみなさい」
背中をそっと押され、俺はおずおずとプレゼントボックスに近づいた。包装紙を破いてしまわないようにテープを外し、蓋を開ける。
箱の中には、格好いいソリッドな模様の入ったサッカーボールと、俺の足のサイズに合わせたスパイクが入っていた。普段から海美に合わせて室内で過ごすことが多かった俺は、特にサッカーが好きなわけではなかった。だがプレゼントの中身を見た途端、興奮による熱が頬にのぼるのを感じた。これは紛れもなく、自分のためだけのプレゼントだと感じられたからだ。
「お父さん、これ。サッカーする時に履くやつ?」
「そうだよ。履いてみてごらん」
俺は嬉しくなって、サッカーボールを抱えたままカーペットの上に座ると、真新しいスパイクに足を入れた。
そのとき、玄関からドアの開く音が聞こえた。帰宅の挨拶はないまま、やけに乱暴に感じる足音が廊下を通り、リビングに母が現れる。母の目の下には濃いクマができ、疲れきっている様子が伺えた。病院では始終泣いていた母と別れてから、たったの一晩しか経っていない。それなのに人相が変わっている。彼女の疲労が、身体的なものではなく精神面からきていることは明らかだ。
「お母さん、おかえりなさい」
母の纏う気配に怖さを感じたものの、いつものように、俺は笑顔を顔に浮かべて声をかける。そうしなければ、いっそう彼女の機嫌が悪くなるような気がして。
母は無言のまま、充血し、ギョロリとした瞳で床に座る俺を見た。サッカーボールを抱え、足にはスパイクを履いている。その横にはプレゼントが入っていた箱と、煌びやかな包装紙。そして、クリスマスツリー。
そんな光景が、病院から帰ってきたばかりの彼女には、どう映ったのか。
「海美が苦しんでいるのに、アンタは何も思わないの!」
口を開いた母から出てきたのは、恨みのこもったヒステリックな怒声だった。到底、実の息子に向けるような声色ではない。
俺は思わず縋るように父を見たが、彼は視線を逸らした。そして自分に火の粉が降りかからないようにと、そそくさとキッチンへ戻っていく。
母の怒声は続く。
「クリスマスだかなんだか知らないけど、浮かれて、ヘラヘラ笑って! 病院で苦しんでるのは、アンタの、双子のお姉ちゃんでしょうっ」
俺は、一言も声を発することができなかった。なす術もなく嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように、ただ体を硬直させる。
と、母は俺の腕の中にあったサッカーボールを両手で掴んで、持ち上げた。
「なんなのよ、これ。なんなのよ……海美は好きで運動しないんじゃないのよ。したくてもできないの。それなのに、こんなものアンタが持って遊びに行ったところを見たら、海美はどんな気持ちになるか、考えたの? えっ?」
母は渾身の力を込めて、サッカーボールを毛足の長いカーペットの床の上に叩きつける。もちろんボールは壊れることはない。衝撃をカーペットに吸収されて小さく弾んだ重いボールは、ただひどく大きく鈍い音を立てた。その音をきっかけにしたように、母の怒声が止む。代わりに、彼女はフーッと長く深い息を吐いた。
「もういいわよ。好きにしなさい。アンタは、海美がどうなってもいいんでしょ。アンタのせいで、海美が死んじゃうから」
最悪の捨て台詞。
興味を失ったように、母は俺から視線を外す。そして、大きな物音を立てながら支度をし、荷物を持って、海美の待つ病院へと戻っていった。
母の出ていく玄関ドアの音を聞き、緊張の糸が切れる。頬を、涙の滴が伝っていく。
「あ……っ。あああああ」
喉を裂くような嗚咽の声が漏れた。
最悪のクリスマスが終わり、年を越した。父からもらったスパイクとサッカーボールは、一度も使うことなく近所のゴミ捨て場に置いてきた。
手術で可能な限り心臓の欠陥を修復し、真摯に治療に励んでも、海美の体調は回復する兆しがなかった。まるで、海美は死神に愛されているようだと思った。海美自身が、そして俺たち家族が繋ぎ止めようとしても、死神が、海美の人とは違う形をした命を掴んで離さないのだ。
当初は一週間で退院できる見込みだったものが、三週間経ったいまでも、海美は病院にいる。俺も毎日病院に通ったが、海美は誰の目にも明らかに、日毎弱っていった。
今日は一月一六日。父と母は「海美の一〇歳の誕生日」と言ったが、正しくは海美と俺が一〇歳になる誕生日だ。
もう、自分で食べたものを海美は消化できない。だから、約束のケーキを食べることは叶わなかった。
だが、海美は誕生日プレゼントとして、俺だけが側にいることを望んだ。俺もまた同じことを望み、俺はその日一晩、二人きりで海美と共に過ごす権利を得た。
俺と海美は一つのベッドに入り、ぎゅっと抱きしめあって眠った。海美の体は、もはやたくさんの管からは解放されていた。呼吸は酷く荒かったが、表情は穏やかだ。
消灯時間が過ぎた病院は、とても静かだ。ピッタリと触れ合った体から響く、海美の小さな鼓動を聴き逃さないで済むことが嬉しかった。
「クリスマスの日、お母さんがひどいこと言ったんでしょ」
幸せなまどろみの中で海美が囁いた。海美の声は高く可愛らしくて、まるで声までも天使のようだと思う。
「誰から聞いたの?」
俺の問いかけに答えないまま、海美は言葉を続ける。
「お母さんのこと、許してあげてね。あの夜、私、急にすごく体調が悪くなっちゃったの。それを見て、お母さんも辛かったんだと思う。でも、陸玖も辛かったよね。ごめんね、私のせいで」
「海美のせいじゃないよ」
何度口にしたかわからないセリフを言ってから、俺は自然と浮かぶ言葉を、口から漏らす。
「お母さんのお腹の中で、僕がいたから、海美の心臓が大きくなれなかったのかなって、最近思うんだ。だから、もしかしたら、海美が辛い思いをしてるのは、僕のせいなのかもしれない」
「陸玖は何も悪くないよ。陸玖がいてくれるおかげで、私が死んでも、お母さんもお父さんも、寂しくないでしょ」
「死ぬなんて言わないでよ」
海美は穏やかに微笑むばかりで、俺の制止の言葉にも気にした様子はなかった。ただ、これだけは言わねばと、覚悟を決めていたようだ。
「お父さんと、お母さんのこと、お願いね」
「海美」
「でも、一番は陸玖自身のことを、大切にしてね」
海美は自分の身に何が起きようとしているのか、誰よりも理解していた。小さく、甘く囁かれる言葉に、やけに熱い涙が溢れた。
「海美、僕をひとりにしないで」
「優しくてかわいい、世界で一番大切な、私の双子の弟」
「海美……いやだよ」
「大丈夫。私はずっとここにいるよ。ここで、ずっと、ずーっと、陸玖のことを守ってあげるからね」
昔から、俺は『死』がひどく恐ろしかった。海美のことが愛しすぎて、その大切な海美を、いつか自分から奪っていってしまうのが『死』であることをわかっていたから。間近に迫っている死の気配に、俺はブルブルと震えた。そんな俺の背中を、海美の手がゆっくりと撫でる。
「大好きよ、陸玖」
大好き、大好き、大好きよ。
海美以外の誰も言ってくれないその言葉を、海美は何度も繰り返す。痛いほどに優しい、ガリガリに痩せた海美の細い腕の中で、俺はいつしか泣き疲れて眠りに落ちていた。
約束の一晩が明けた、その日の朝。
両親が病院に駆けつけた数分後。
白い病院のベッドの上で、まるで眠るように穏やかに。
海美は死んだ。
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