夏のグッド・バイ

緑川曜

第1話

 私は小説を読むのも書くのも大好きだが、津山治の小説だけは好きじゃない。何せ作者は、だらしない、流されるだけのダメ男。そんな人間を何故誰もが愛し、評価するのか。

 裕福な家に生まれて、友達にも恵まれ、成績も上位で顔も並外れて綺麗な私は、世間で言う「スクールカースト」の頂点に立っている。毎日楽しくて、何もかも上手くいって、手に入らない物なんて何もない。女子高生の中でも、私は更に価値が高い。

 廊下を歩いていれば、誰もが羨望の眼差しを向ける。侑里、桃谷、と、生徒も先生も誰もが声を掛けてくれる。だって、私は綺麗で、勉強もできる無敵の女子高生だから。



 教室が、ホームルーム終了後の開放感に満ちた中、入学以来ずっと仲の良い愛香が、歩いて来た。

「ねぇ、真衣が委員会で遅くなるって。一時間はかかるし、お喋りして待ってない?」

「そうなの? ならそうしよっかー」

「終わったら、この前駅前に出来たパンケーキのお店行こ。映えるやつ注文してアップしないと」

 頷きながら教室を見回すと、一人のクラスメイトに目が付いた。思わず舌打ちをする。同級生の亜美。誰もが私を讃える中、唯一私から顔を背ける彼女は、垢抜けてなくて、陰気で、いつも一人で津山治の小説を読んでいる。

 完璧な出来栄えの料理の中に異物を見つけた時のような苛立ちをぶつけるように、言葉を発した。

「津山治なんてクソカスだよねー。あんな男のどこが良いんだろー?」

 吐き捨てた言葉に、愛香たちが同意し、笑う。私の言葉に、亜美が身体を強張らせた。

「私みたいに恵まれた家の人間なのに、何で不幸ぶるんだろ。どうかしてるよねー」

 いよいよ我慢できなくなったのか、亜美が鞄と本を手に教室を飛び出した。その後ろ姿はどこか滑稽で、室内を飛び回っていた蝿が出ていくようだ。その滑稽さを更に嘲笑う心地良さは、本当に堪らない。

 

 誰かが呼んでいる声がする。

 導かれるように、薄らと目を開けると、見慣れない天井と数人の知らない人が、私の顔を覗き込んでいた。

 誰? この人たち。

 何? ここは何処?

 私はファミレスで愛香たちとダベった後、別れて、家に帰ろうとしてた。…そうだ、車が突っ込んできて…。

 不気味さと戸惑いに誘われるように声を発するも、それは不明瞭なものとなった。

「治坊ちゃんが目を覚ましたぞ」

「本当に可愛いわ」

「この金井村に君臨する、津山の家一番の美男子だな」

 金井村。津山の家。治。津山、治。

 どういうこと。私、まさか津山治に転生しちゃったってこと? 何で。何でこんなことになったの。

 私は津山治なんかじゃない、女子高生の桃谷侑里なのよ。早く元の世界に戻して。身動ぎをしながらそう叫ぼうにも、喉の奥を封じられたように言葉が出ない。途方もない不安と心細さから、私は火が点いたように泣き始めた。私を知らない人達が必死であやす。嫌悪感を感じ、更に泣き叫ぶ中、自分と年の変わらぬ女性と目が合った。いつも挨拶をしてくる下級生に似た面立ちの少女。学校でいつも向けられていた憧憬の眼差しに応えるように、笑顔を向ける。楽しい訳でも無いのに、私は何をしているんだろう。

「あぁ、笑った」

「治坊ちゃんのお世話は、サトに決まりだな」

 大人達が安堵したように笑う。


 何をしても注目される。無敵だと思える。何でもソツなくこなす私は、女子高生だった頃と変わらない。だが、そう感じるようになったのは、いつからか。

「息が詰まる」

 津山治としての生を得て、十数年が経った。元々女として生きて来たから、男として生きることには嫌悪感しかない。私は女なのに、何で男として生きなければいけないの。

 子供の頃、最初の抵抗として、女の子らしい物を欲することを口にした時には、家中がざわついた。当然、家族は私に女の子らしい物を与えてくれる訳もなく、男として生きるしかなかった。更に、娯楽もない田舎という容赦の無い現実から逃れるように、私は小説を書き始めた。そして、家を出ることを夢見るようになった。

 こんな家、絶対におさらばしてやる。家の外にさえ出れば、無限の自由があり、好きに生きられる。そう思って、進学先の弘前、東京で好き勝手をするも、常に津山家の目が光っていた。津山家の力は、東京でも強かった。金井村では大地主で、父は東京では名のある国会議員だ。

 しかも、何かに縋るように大勢の女性達が寄って来た。芸者、女給、良家の子女。一体、津山治の何に惹かれ、何に縋ろうとするのだろう。行きずりの女性からは心中を求められ、嫌気がさしたところに麻薬中毒になった。何故、誰も彼も彼に何かを望むのだ。彼の欲する物は、何一つ得られてはいない。津山家と決別し、自由に生きることを望めば望むほど、雁字搦めになっている。

「…私って、こんなに弱い人間だったの?」

 弱い人間。誰もいない病室でぽつりと口にしたその時、亜美の姿が浮かんだ。唯一、私に羨望の眼差しを向けなかった亜美。あんたなんて空っぽのつまんない女、とでも言いたげなその表情と、津山治の表情が重なる。

「…私は弱くない。津山治なんかと違う」

 でも、何故こんなに彼のことが気になってしまうのだろう。

 

 家庭を持ち、家族に恵まれた。戦争も終わり、執筆も順調。女性達が寄ってくるのは変わらない。にもかかわらず、私は縋ってくる女性達を振り切れず、更なる罪を重ねていく。

 一人の女性に、子供を産ませてしまった。女としての意識からか、産むなとはどうしても言えなかった。振り切るように彼女と別れると、戦争未亡人の女性と出会った。

 誰もが、津山治に熱狂する。自転車で一気に坂道を下っていくように、執筆量が増えていく。得体の知れない存在に操られているかのように、ペンが走る。怖い。誰か助けて。呟くように口にしたその時、我に返ったように気付く。…みんな何かに縋りたいのだ。弱い自分に寄り添ってくれる何かに。それは、津山治のみならず、私自身も。

 ずっと津山治の小説を読んでいた亜美。

 今、私が書いているものを、彼女はいつ読むのだろう。


 屋上から眺める六月の空は、高くて眩しい。もう夏だ。日に日に日差しも強くなり、木々も緑が濃くなっている。学校の側を流れる小川のせせらぎは、あの時と変わらないものだ。

 戦争未亡人の女性と飛び込んだ川の水の感触が、私の身体と意識を包み込んだと同時に、懐かしい声が聞こえた。

 侑里。

 両親が呼んだ名前。私は、それをきっかけに意識を取り戻した。六日ばかり眠っていた間に三十八年の人生を経験してきたことは、誰にも話してはいない。だが、津山治の人生を追体験した経験は、一人で過ごすことの有意義さを私に教えた。だからこそ、退学することに迷いはなかった。

 ポケットから真新しいスマホを取り出す。番号を変え、通信アプリも作り直した。父には、入院中に今の学校での生活に疲れたことを話していた。転入する学校は、進学校であること以外、何も知らない。

 一人、物思いに耽っていると、屋上の扉が開いた。振り返ると、亜美が津山治の本を手に立っていた。亜美は驚きと警戒に満ちた顔で私を見返すと、踵を返し、屋上を出ていこうとする。

「ねぇ、津山治のどんな所が好きなの?」

 咄嗟に発した声は、縋るような物だった。私の質問に、亜美が足を止めた。一分ばかりの沈黙の後、亜美は、震えつつも凛とした声で返した。

「寄り添っていてくれるところ。弱い自分も、嫌いで堪らない自分も否定せず、優しく包み込んでくれる。だから、好き」

 弱い自分。嫌いで堪らない自分。津山治の人生を追体験した今なら、分かる気がする。学校で、相手の求める虚像を演じてきた私の姿は、道化だった。だが、私と津山治では決定的に違う物がある。彼は、自分の弱さをしっかり見つめ、誰のことも決して嘲笑しなかった。本当の自分に対する後ろめたさを抱きつつも、人に寄り添っていた。それは、津山治だからこそ出来たことなのだ。

「そっか。知らなかった。…あんな酷いこと言って、ごめんね」

 私の言葉に、亜美が目を丸くする。

「私、学校を出たこの足で、父の実家のある青森に行くの。…ねぇ、私も津山治みたいに、誰かの心に寄り添って、生きる為の力になれるかな?」

 俯く私に、亜美が頷く。

「できると思う」

 亜美の言葉が、視界を滲ませる。堪えるように雲一つない澄んだ空を見上げると、小さく鼻を啜り、笑った。そして、津山治の未完作品の題名を、笑顔で呟くように口にした。

「グッド・バイ」

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