中篇


「軌道が、こう」

 休み時間、ぼくは中庭の樹の下で腕に角度をつけて、侵入者が消えた箒の軌道を再現してみせた。

「初動でそれか。箒乗りだな」グレゴリーが唸った。箒乗りとは、箒に乗るのが巧みな者を指す。

「それと、現場には銀の徽章が落ちていた」

 絵に描いてみせると、エミールが同じものを見たことがあるという。

「そんな紋章があったはずだ。後で図書館に行って調べてみるよ」

「アレクサンドル、そいつは小柄で、下級生に見えたんだな」

「うん。暗くて顔は分からなかったが」

「それ、俺の弟かも」云い出したのはフランクだ。

 フランクはそう想う理由を説明した。

「弟、最近になって箒乗りになりたいと云い出して、最速発進の練習ばかりしているんだ」

「お前の弟はまだ乳母のついている歳じゃないか。愕かすなよ」

 ぼくたちはフランクを小突いた。



 その夕べ、ぼくはもう一度、昨日と同じ時刻を選んで中庭に出てみた。同じ刻限であれば他にも何か気づくことがあるかも知れないと想ったのだ。

 薄暮の中ではしのびよる夜闇が、より濃く見える。

 川のある方角からカラドリウス門を通って学校に戻ってきて、この辺り。中庭にぼくは佇んだ。ここで彼はぶつかってきた。彫像が邪魔になって、走っていた彼には、ぼくの姿が見えなかったのだ。転倒していたが、怪我はしなかったのだろうか。

 それから箒がやって来て、それに掴まった彼は、見る間に飛んだ。

 昨日のことを想い出しながら、もう一度ぼくはカラドリウス門まで戻って行った。何となく上方に眼を向けたぼくは、「あ」と叫んだ。学校の敷地内では走ることは無論のこと、夜間飛行も禁止されている。それなのに誰かが校舎の屋根の上にいるではないか。しかも二人。

 壁際に舟の櫂が並んでいた。短艇部がそこに櫂を干していたのだ。ぼくは櫂の一つに跨ると、地上を蹴り、舟の櫂で空に舞い上がった。魔法使いは箒で空を飛ぶが、形状が似ているものならば代用できないことはない。短い距離に限るが。

「西の寮長アレクサンドルだ。そこで何をしている」

 舟の櫂に乗って現れたぼくの姿に彼らは一瞬、動きを止めた。どうやら彼らは屋根の上で殴り合いの喧嘩をしていたようなのだ。愕いたことにそのうちの一人は、ハンスユルグ先生だった。

 ぼくに注意を向けたせいでハンスユルグ先生がしたたかに男に殴られた。

「先生」

「アレクサンドル、魔法は使うな」

 ハンスユルグ先生が叫んだが、先生が云い終える前に、魔法杖を取り出したぼくは先生の向かいにいる男に魔法を放っていた。彼らは素手で闘っていたのだが、その奇妙さにその時は想いあたる余裕はなかった。

 高潮。

 突然、大波がぼくを襲った。事態が把握できたのは、押し寄せてきた真っ黒な濁流がぼくを呑み込み、屋根から地上へと叩き落し、急流がぼくを押し流した後だった。

 しっかり。

 煉瓦で舗装された地面に落ちる直前、誰かの声がした。その声が辛くも地上との激突からぼくを救った。

「アレクサンドル。眼を覚ますのだ。魔術師の幻影だよ」

 今、ぼくを揺すっているのはハンスユルグ先生だった。

 幻影。あの高潮が。学校全体を覆いつくしたあの放流が。

 ぼくはカラドリウス門とは反対側の門の端まで運ばれて、隅に転がっていた。此処まで押し流されたのだ。

 幻影は、それを現実だと認識した者には現物と同じ効果を与える。心臓を刺されたと想えば肉体に何の傷がなくともその者は死ぬ。だからあの波を本物だと認識したぼくは、水の氾濫に呑み込まれて高所から下へと滝から落ちるようにして流されてしまったのだ。

 しっかり。

 あの囁きがぼくを救った。墜落直前に誰かがぼくの意識を覚ましてくれたのだ。

 西寮の三階の窓が開かれて、グレゴリーとエミールとフランクが顔を出していた。

「ハンス先生。そこに倒れているのは級長ですか。彼は大丈夫ですか」

「大丈夫だ」掠れた声でぼくは応えた。

 そうだ、あの魔術師は。

「君は室に戻りなさい」とハンスユルグ先生が厳しい声で告げた。


 

 幻術の余韻でよろよろしながら西寮に戻ると、ぼくの室にはグレゴリーたちが待っていた。

 実家の屋敷に比べれば手狭だが、どっしりした家具や絨毯で飾られた寮の居心地は悪くない。通常は二人部屋なのだが、寮長は独り部屋だ。

「級長、あの紋章が分かったぞ。あれは魔術師の紋章だ」

 たった今、その魔術師の洗礼を浴びてきたところだ。

 魔術師。

 それは魔法使いとは異なるが、しばしば混同される。変色した銀を液体につけてぴかぴかにしてみせるのは魔法ではなく化学反応であるし、見世物の領域だが、人間界では「魔法だ」と騒がれもする。

 しかし魔法界における魔術師とは、化学や錯覚を仕込んだ手品ではないのだ。

「正しくは、幻術師と呼ぶべきだな」

 彼らは催眠術を操ると云われている。先刻、ぼくが呑まれた大波。あれがそれだ。

 図書館から借りて来た古ぼけた書物をエミールが拾い読みして読み上げた。

「魔術師も箒に乗る。衰退して滅亡に瀕しながらも主な家はまだ存続している。その力は代々受け継がれており、正統な幻術師の血統は『銀のつぼみ』を紋章とする」

 ぼくが中庭から拾い上げた銀の徽章は変わった形をしていたが、あれは花のつぼみの意匠なのだ。つまり、この学校には銀のつぼみを紋章とする魔術師が入り込んでいるということだ。

 そこに、声がした。ぼくを幻術から救い出してくれた声だ。

 そのとおりよ。

 姿鏡からその声はしたようだった。

 ぼくたちは鏡を見た。そこに映っているぼくたちの人数が増えている。

「わたしの名はユディット」

 振り返った。

 窓際の緞子張りの長椅子に、ぼくたちと同じ年頃の女の子が箒を膝に乗せて座っていた。



 率直な感想として、女の子の存在威力は凄い。ユディットが一人いるだけで、いつもの寮の室がぱっと華やいだ気がする。よく女を褒める時に花に喩えたりするが、あれは比喩としてはまことに適切だ。視界が数段階、明るい。

「ええっと。ユディットといったね」

「そうよ」

「君は魔術師なの」

「そう」

「何の用」

「この学校に脅迫状を送り付けている者を探しに来たの。そんなことは止めるようにと云いたくて」

「ちょっと待って」紅茶を淹れていたぼくは口を出した。

 ユディットに茶碗を手渡しながら、ぼくは少女を見詰めた。肩口で髪を切り揃えている。夜に見かけたらもしかしたら。

 ユディットの方から打ち明けた。

「昨夜、中庭であなたにぶつかったのはわたし」

 やっぱり。

「男の子。頭からそう想い込んでいるようだったから、幻術をかけるまでもなかったわ。いいえ、謝罪は不要よ。わたしはお姉さんに比べて幻術師としては無能だし、箒に乗る方が好きで、昔から女らしくないと云われているの」

「そんなことはないよ」

 ぼくたちは声を揃えて否定した。ユディットは可愛い。とても。

 ユディットは、ぼくの淹れた紅茶を一口呑んだ。

「わたしは到底、マグダレーナ姉さんには及ばないのよ」

「優秀なきょうだいを持つ苦労は分かるよ」

 訳知り顔をしてフランクが励ました。

「俺の弟なんか、俺がまだ補助付きの箒に乗っていた歳なのに、もう垂直飛行を」

「これがわたしの姉さんのマグダレーナ」

 おおっという呻きがぼくたちから洩れた。ユディットが姿鏡に映し出してみせたマグダレーナ嬢が素晴らしい美女だったからだ。そのユディットの姉の、マグダレーナさんの実物が、鍵をかけていなかった窓から箒で室内に飛び込んできたから愕いた。仰天したといっていい。

 吹き込んだ風で窓際の書類が部屋の中に飛んだ。ぼくは急いで窓を閉めた。

「姉さん」

「貴公子の皆さま方。ごきげんよう」

 男子寮に女がまた一人。

「妹のユディットがご迷惑をおかけしたようです。お詫び申し上げますわ」

 箒に乗って唐突に寮にやって来たマグダレーナさんの髪には枯葉がくっついていた。この学校は森に囲まれているのだ。マグダレーナ嬢はよほど急いで来たとみえて、外套すら羽織っていなかった。

「いえいえ。迷惑など、何一つ」

 いちばん早く立ち直ったのはグレゴリーだった。グレゴリーは如才なくマグダレーナ嬢に椅子をすすめた。

「暖炉の前へどうぞ。級長、お茶」

 云われなくてもぼくは新しい器を出して紅茶を注いでいた。人間界の紅茶とは厳密には茶葉からして違うのだが、色といい味といい、ほぼ紅茶だ。

 マグダレーナさんは、魔法界における麗人の代名詞ヘタイラに匹敵するほどの美女だった。彼女は申し訳なさそうにしていた。

「こちらは男子寮ですから、すぐにお暇しなければ」

「秘密の客人なら、来訪していないも同然です」

 秘密のというところにぼくたちは力を篭めた。

 ユディットが紅い花なら、マグダレーナさんは何に喩えよう。一角獣に囲まれている気高い乙女の画を想わせる。少し硬質な感じのする白い花だ。

「姉さん」

「ユディット。莫迦な子」

 マグダレーナさんは両手で妹の頬を挟んで額と額をくっつけた。一方、ぼくたちは椅子から崩れ落ちそうになっていた。あんな美女から今のようにされてみたい。

「わたしとハンスのことで、あなたが頑張らなくてもいいのよ」

「でも姉さん」

「ところで、ハンスは何処かしら。寮監室には戻っていないようなの」

「ハンスとは、もしやハンスユルグ先生のことでしょうか」

「ええ」

 そこへ、廊下から寮長室の扉が叩かれた。

「級長、鐘楼が何かおかしい」

 女がいると分かるとまずい。入室は待ってくれと云おうとしたが、魔術師の姉妹は窓から箒で外に出て、既に姿を消していた。



》後篇

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