紅い花、白い花

朝吹

前篇


 驟雨のあがった、日没直後だった。初秋の清んだ大気の中、濃い色に変わった雲が低いところを流れている。この刻限がぼくはとりわけ好きだ。黄金色と藍色の向こうには別の世界があり、その世界はあの眩い残照の中に確かにあるのだと、そう想えるからだ。

 何か、特別なことでも起こりそうな気がする。

 夕空を映した川が学校の近くを帯のように流れている。岸に引き上げた小舟を囲んで短艇部の者たちが楽しそうに文句をつけていた。人間界の舟はなんて面倒なんだ。自力で操らなければならないなんて。彼らがずぶ濡れなのは雨に打たれたからだろう。

「よう、級長。アレクサンドル」

 短艇部の連中がぼくに気づいて挨拶を寄越した。ぼくは軽く手を振り返した。

「晩餐には遅れるなよ」

「分かってるよ、級長」

 ぼくは級長ではなく寮長なのだが、初年度が級長だったために、今でもそちらの称号で呼ばれている。どこの学校にも、「ああ、彼なら役職に丁度いいんじゃない」と云われて推挙される無難な学生が必ずいるものだが、まさにぼくがそうなのだ。誰からもほどよく好かれて、敵を作らないというあたり。貴族のおぼっちゃん学校だからそれで充分、通用する。

 短艇部は釣りもやっていたようだ。川に浸けたびくの中から、魚の跳ねている音がする。

 意外かもしれないが、魔法界であっても、何でも魔法でこなすというわけではない。人間界と変わらない生活の不便さを、慣習的にぼくたちは趣味の延長として継承しているところがある。釣竿を手にして意気揚々と戻ってきた短艇部もそうだ。


 人間界ではこんな道具を使って魚を釣っているらしい。やってみようぜ。


 高い尖塔を幾つも並べた学校の影が眼の前に黒く迫る。紅真珠色をした雲がその上を飛んでいる。空を見上げながら惚けて歩いていると、回廊に囲まれた中庭で学生とぶつかってしまった。けっこう強く。

 ぼくは大きくよろけた。何しろ相手が全力疾走していたのだから堪らない。走ってきた学生の方がすっ飛んで尻をついている。彼のほうが小柄だからだろう。

「大丈夫かい」

 手を差し伸べて引き起こしてやると、相手は黙ってぼくの手に掴まって起き上がってきた。最下級生だろう。

「学内を走るのは禁止だよ。君はどこの寮。急いでいた理由は」

 全寮制の寮長の哀しさだ。違反行為を見つけたらその場で注意するだけでなく、所属の寮の監督生にも報告し、再度注意してもらわなければならないのだ。とはいえ、東西南北に分かれた寮の監督生など、自身も学生であることも相まって、万事につけて甘いものだ。教師におもねって媚びるような奴なら顰蹙をかって最初から寮長には選ばれないし、規律に眼を吊り上げる四角四面のお堅い奴もいないから、この程度のことならば口頭での軽い注意に留まるはずだ。走ってはいけないよ。はーい。

「そんなに急いでどうしたんだい。どこの寮」

 ぼくが彼を最下級生だと想い込んだのは、敷地内を全力で走るという禁止行為をやっていたからだ。

 ところが、彼が無言で指さしたのは、ぼくの受け持ちの西寮ではないか。嘘だろ。ぼくは秋に入学してきた新入生を含め、寮生全員の顔と名まえを憶えているのだ。少数精鋭だから難しいことではない。

 彼はぼくの手を振りほどいた。

「転入生です」

 彼の方からぼそっと教えてくれた。しかしそれを聴いたぼくは余計に困惑した。学校側からは何の連絡も受けていない。

 訝しんでいるぼくの様子に不信感がありありと出ていたのだろう。転入生は、

「では」

 と誤魔化すように微笑むと、「さようなら」と云った。

「君、ちょっと待って」

 晩餐の予鈴が鳴っていた。

 回廊の向こうから何かがはやぶさのようにすっ飛んできた。視界を掠めたかと想うと、呼び寄せた箒に駈け寄って素早く飛び乗った彼の姿はひと息に上昇し、菫色に深く暮れている宵空の雲の中に姿を消していた。

 残されたぼくは、唖然としていた。

「級長じゃないか」

 同じ寮のグレゴリーとフランクとエミールに声を掛けられた。

「そんな処で立ち止まってどうした」

「悪い、少し遅れるかもしれないと副寮長に伝えてくれ」

 正装して食堂へ向かう彼らに伝言を頼み、ぼくは幽霊にでも遭ったような心地で、先刻彼とぶつかった地点まで戻って行った。校舎に囲まれた中庭はすでに真っ暗だ。

 魔法杖の先端に火を灯して辺りを照らした。今のことは夢ではない、確かにぼくは誰かとぶつかった。

 確証となる痕跡を求めて見廻していると、草の上に何かを見つけた。夜露のようにきらっと光っている。ぼくはそれを拾い上げた。


 銀の徽章。


 宵空を仰いだ。彼の姿は完全に消えていた。そこに遺された箒の軌道は、垂直に近い仰角で、怖ろしくきれいな、星空に延びるような直線を描いていた。



 翌朝、早速ぼくは寮監先生の室を訪れた。転入生の有無を確認しようとしたのだ。寮監のハンスユルグ先生は朝っぱらから忙しそうだった。

「アレクサンドル。急ぎの用かな」

 急ぎといえば急ぎだが、違うといえば違う。ぼくは「お忙しいようならばまた後で構いません」と伝えた。

 数名の教師が寮監督室に集まって、ハンスユルグ先生を囲み、何かを相談しているところだったのだ。

「不審者を見かけたのでその報告です」

 ぼくがそう云って扉を閉めようとすると、ハンスユルグ先生はぱちんと指を鳴らした。

 室に集まっている教師も一斉にぼくを見た。

「その話をきかせてくれ、アレクサンドル君」

 暖炉に面した室の中央に手招かれた。

 手短にぼくは語った。「それで、該当する転入生がいるのかどうかの確認にお伺いしたのです」と締めくくると、教師たちはしばし無言になった。もうすぐ一限目の授業だ。

 落とし物として届けるつもりだった銀の徽章をぼくは卓上においた。

「その者と衝突した中庭に落ちていたものです」

 受け取ったハンスユルグ先生はその徽章を眺め、隣りの教師にそれを渡した。隣りの教師もしばし掌において徽章を見詰め、同じようにその隣りの先生にそれを渡した。

「アレクサンドル君。君はこれと同じものを見たことがあるかね」

「一度もありません」

「結構。これは預かろう。不審者の報告をありがとう」

「失礼します」

 とりあえず、転入生の予定はないということだけは分かった。つまり昨夕の彼は、やはり不審な侵入者ということだ。

「アレクサンドル」

 ぼくが室を出るのを追いかけるようにして、ハンスユルグ先生が教材を抱えて後ろから速足に歩いてきた。寮長と寮監という関係上、ハンスユルグ先生とはしょっちゅう顔を合わせている。二人きりの時には、くだけた感じにもなる。ハンスユルグ先生は十歳年上のぼくの長兄と同級生で、この学校の卒業生で、昔からうちの屋敷にも遊びに来ていた、親しい人なのだ。

「ハンス先生。朝から、何かあったのですか」

「これはまだ内密なんだが」

 ハンスユルグ先生は声を潜めた。

「学校に脅迫状が届いているのだ」

 脅迫状とは穏やかではない。個人宛だろうか、それとも。

「特定の人物あての脅迫状だ」

「そうですか」

 特定の人物とは学生なのかそれとも教諭なのかは詮索しないことにした。それがもしぼくの受け持ちの西寮の学生であるならば、今日でなくとも、ハンスユルグ先生がそれが誰なのかを教えてくれるだろう。「アレクサンドルは口が堅い」とは、友人間におけるぼくの評だ。口が軽い人間が信用されることは絶対に無いのだから、そのことで少しは得をしているのかもしれない。

 色硝子から差し込む朝陽が廊下にきれいな模様を作っている。グレゴリーとエミールとフランクが通りすがった。

「おはようございます、ハンスユルグ先生」

「おはよう」ハンスユルグ先生は挨拶を返し、

「さあ、もう授業が始まるよ。行きなさい」

 気さくにぼくの肩を叩いた。

 脅迫状。

 それと、昨夕の不審者とは関連があるのだろうか。



》中篇

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