湖畔の村にて-2

「さて、ニール」

 不意に人狼ライカンが言って我に返った。今にも舌なめずりしそうな顔をして、白髪はくはつの男がこちらを見ている。

「俺は腹が減った」

 月を隠す漆黒の瞳が、満月色に染まっていた。

「駄目だ」

 と、彼は端的に、しかし強い口調で言って首を振った。今にも涎を垂らしそうにしていた人狼の顔から殺意が削げ、飼い主に媚びる犬のような面持ちになる。

「もうずっとお預けだ」

 イヌ科の動物が尖った耳を倒したときのような顔をして、人狼はしょげたふうに呟く。魔力を宿す瞳は満月色のままだ。

「ここは教会の聖域の中だぞ、わきまえろ」

 彼が溜息混じりに告げると、人狼はふん、と不満げに鼻を鳴らす。

「貴様らの神なんぞ知ったことじゃない、お前が駄目なら久しぶりにガキでも喰らう」

 言って、人狼はにたりと口角を上げた。世話になろうとしている村の人間に危害を加えると匂わせて、彼を思い通りにしようという魂胆など透かし見るまでもない。この流れに慌てていたのは今や昔のことだ。勝手にしろと言う代わりに吐息して、

「せめて村の外でやれ」

 彼は冷たく言い放った。

 朝方。夏だというのに冷気が肌を撫でて、安っぽい寝台の中で彼はぶるりと震えた。すかさず熱い舌が頬を舐め、鼻面で彼の身体を起こそうとするので身じろぐと、ふさふさの毛並みが肌に触れて目を開ける。

 昨夜、突き放す彼の様子に不貞腐れ、部屋から消えてしまった白狼が彼を包むように丸まった。血の匂いはしないから、彼の言いつけを守っていたのだろう。

 人狼は狼の姿の大きさも器用に変えられるようで、馬ほどもある体躯は大型の愛玩犬ほどに縮んでいる。

 飼っているのか、飼われているのかわからない。けれども、法や秩序を嘲笑う化け物は彼の言うことには従順なので、ぽかぽかと温もる毛並みに頬を擦り付ける。

「外は霧が出てるぞ」

 と、狼が言った。

「賛美歌が聞こえるかも知れない」

 修道院にまつわる怪談を囁く狼に、彼は毛並みを撫でてやりながら再び目を閉じる。

「……黙ってろ」

 この人狼と居るようになって、いつの間にか彼にも横柄な口調が移ってしまった。彼は生来、気弱な気質だったはずなのに、長生きはしてみるものである。

 そんなことを取り留めもなく思いながら、彼は再び深い眠りに就いた。次に目を覚ましたときには日が昇り、狼の毛並みを暑苦しく感じる程度には室温も高まっていた。

 教会は聖務の関係で朝が早いために、二人が起き出した頃にはとっくに朝食は済んでしまっていた。朝餉を残してあると告げる神父の厚意を丁重に断り、彼は湖に足を向ける。とはいえ、二マイルの距離を歩くわけではない。彼を喰った白い人狼ほどではないとはいえ、彼の体内にも魔力はある。それを使って地脈を移動するくらいのことは簡単にできるのだ。

 町に近い湖岸は避暑を求める人々で賑わっているようだったので、彼はひっそりと、孤島に近い湖岸に姿を現わした。昨日、足を浸して涼んでいた湖岸が遠目に見える木立の中だった。湖に流れ込む小川が木漏れ日にキラキラと輝き、水鳥や野鳥の囀りが心地よく聞こえる。

 対岸の孤島には、上陸できそうに張り出した岩礁が見えた。接する岸壁には人為的に作られたであろう道が崩れかけて残っている。確かに島にはかつて、人が居たのだろう。そんな痕跡を見て取って、彼は修道院の荘厳な屋根を見上げた。

 尖塔や薔薇窓を特徴とする建築に移行する前の、バシリカ式より重厚なリヴ・ヴォールト造りのようだった。それらが主流だったのは遅くとも一二○○年代までだと言うから、あの建築物は相当な年月、湖を睥睨していることになる。

 昨日、懐かしそうに目を細めた人狼の横顔を思い出す。彼より遥か昔から息づいている不死の化け物は、あの修道院で何をしたのだろう。きっとろくでもないことに違いないと思いつつ、あの白い人狼の足跡そくせきに興味があることは否めない。

 ──ニール。

 背筋がざわつくような声で名前を呼ぶ、白い化け物。何物にも縛られることのない人狼は唯一、彼にだけは執着する。

 ──嗚呼、俺の愛し子。

 そう言って頬を撫ぜる掌は死人しびとのように冷たいのに、いつかの家庭教師がそうしたときのように、人狼が触れた場所だけが熱を持つような心地がする。

「行かないほうがいい」

 彼の唇を撫でる親指の感触を思い出していると、不意に声がして、彼は思わず振り向いた。物静かな木立の中、枯れかかった古木に背を凭れた家令が腕組みをして、いつになく険しい顔をしていた。

「あそこは未だに地獄の瘴気の只中だ、何処にも逝けない亡者どもが彷徨うろついてる」

 金の瞳が彼を見ていた。常の人狼らしからぬ、本気の警告だとわかった。

「何があった」

 と、彼は孤島に半身を向けたままで尋ねた。人狼はついと肩を竦め、

「聞きたいか?」

 冗談めかすように口角を上げた。

「……いや、いい」

 僅かに黙したあと、彼は緩やかに首を振る。人狼が関わる出来事は人の正気を疑いたくなる話ばかりだから、きっと、ここでも同じだろう。

「美しく生まれつくのも難儀だな、ニール」

 そう言って、家令姿の人狼は古木の幹から背を浮かせ、腕組みを静かに解いた。満月色の瞳の中、縦に割れた瞳孔が鋭さを帯びる。

 地鳴りのような声で人狼が言った。さり気なく彼の前へと進み出ながら、

 対岸を真っ直ぐに見据えて唸る。

 人狼の視線を追った彼は息を呑んだ。腐り果てた皮膚を垂れ下げた修道者が岸辺に立ち、限りなく骸骨に近い顔で口を開け、物欲しそうに手を伸ばしていた。

 人狼の威嚇を浴びた亡者は瞬く間に霧散した。木立に囀りが戻り、古木は成木に変わっていた。

「ふん」

 と、人狼が忌々しげに鼻を鳴らす。珍しく殺気立つ横顔を見上げたまま、彼はぽかんと口を開けている自分に気づく。

 いつの間に暗くなっていた視界は、豊かな木漏れ日で眩しいほどになっていた。

「下級の連中が俺に楯突くなんて早すぎる、すらひれ伏す俺のものには指一本、触れさせない」

 そうして人狼は甘い笑みを浮かべて、彼を振り向く。彼が思い出した感触の通りに親指で唇をなぞり、

「だから少しだけ、なぁ、ニール?」

 キスしそうな至近距離に顔を寄せ、蠱惑的に甘えた。

 その手を払い落とすことに躊躇いはなかった。

「助けてやった礼がそれか」

 些かムッとしたような人狼の声に、

「助けてくれと頼んだ覚えはない」

 彼も可愛げなく言い返す。

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