湖畔の村にて-1

 蒼色をした湖面は静かに凪いでいた。空を写す巨大な鏡面のようだった。対岸は見えない。湖の中央には堅牢な建築の聳える孤島があるためだ。

 さらさらと心地よい風が吹き抜けて、湖面には漣が立つ。冷たい水に浸した白い足が脛まで濡れる。風がどこか遠くへ旅立つと、湖面もまたよく磨かれた鏡面に戻った。

「あぁ、ニール、ここに居たのか」

 湖岸の砂を踏みしめる足音と共に、忌々しい声が彼の名を呼んだ。振り向かずに孤島の島影を眺めていると、足音は彼のすぐ後ろで止まる。

「困ったことになった」

 と、足音の主が言うので、彼は湖に足を浸して涼んだまま、仕方なく後ろを振り向いてやる。

「町のホテルに空きはなかった」

 そう言ったのは彼の家令だった。品のいい服装に身を包み、長い白髪はくはつをオールバックにして束ねている。主人の纏う衣服よりは流行遅れの服を着て、きちんと教育された家令であることがわかるのに、誰もが息を呑むほどの美貌に浮かぶ表情はどこか不遜だ。

「貴様は肥溜めの中でも眠れるだろう」

 彼は不機嫌な声で、気が利かない家令を叱責する。こういうときは主人を優先するものだと暗に告げると、家令は恥じ入って詫びるどころか、無礼にも肩を竦めて見せた。

のお前もじきにそうなる」

 押し黙る彼の銀髪を風が揺らした。

 一八九三年、夏。旧王国内の片田舎。中規模の湖に沿って避暑地が点在する地域は、バカンスを楽しむ人々によって一時の賑わいを見せる時季になっていた。おまけに、湖の中央に存在する曰く付きの孤島がある種の人々には有名なお陰で、ゴーストを見たいと願う不謹慎な輩までがバカンスを利用して集中する季節でもある。

 湖の小さな波に削られること幾星霜。絶壁──といってもさほど高さはない──によって外界と遮断された孤島には、荘厳で古めかしい修道院が建っている。今は誰もおらず、廃止されて久しいそうだが、霧が出るような日の朝方や夕方に賛美歌が聞こえる、などという話は枚挙にいとまがない。

「……懐かしいな」

 岸から数マイルは離れているだろう島影に目をやって、白髪の家令が感慨深く吐息した。

「お前が存在しなかった場所はないのか」

 嘆息して、彼も家令から島影へと視線を戻す。

 写実主義の肖像画家が筆を折って廃業し、皆、自らの才能の限界を神に祈って嘆くだろう──と言われたほど、彼も家令に負けない美貌の持ち主だった。顎の辺りで切り揃えられた髪は三日月の光を彷彿するような銀色、どこか儚げな印象の瞳は新月の夜空のように暗い。

「そうさな、黄金の国と呼ばれた場所には行ったことがない」

 彼の問いに、家令はくつくつと喉で嗤って答えた。

「さすがの貴様も海は渡れぬ、か」

 彼が島陰を見つめたまま、目を細めて呟くと、

「黄色い奴らは口に合わない、それだけだ」

 スラングを使って答えた家令は肩を竦めた。侯爵家に連なる血筋の家に仕える家令にしては野卑な言い回しだった。

 それもそのはずだ。白髪の男の家令姿は擬態の一つで、その本性は人狼ライカンと呼ばれる不死の化け物である。体内に満月と同等の魔力を有することで人と狼の姿を自在に行き来することができ、銀や聖遺物というような明確な弱点を持たない。首を落としても心臓を刺し貫いても頭を潰しても、この男は全て再生してしまう。更に言うならば女体にも両性体にも化けられるので、性別すらないのかも知れなかった。

「……逗留先がないなら仕方ない」

 彼はさり気なく話を戻して、湖に浸けた足で水面を蹴り上げた。日差しに水しぶきが煌めく。

 元より目的も行く宛てもない長い旅路だ。彼も後ろに立つ人狼と同じ生き物になって久しい。不死であることは衆目の中では悪目立ちするのだ。日頃から髪の色と絶世の美貌を隠すように暮らしていたけれど、あの人は曽祖父も見かけたことがある、などと噂になることは避けたくて流浪を始めた。後ろの人狼は自意識過剰だと嘲笑ったが、家令や婚約者フィアンセ、社交界の友人といった擬態でついて来るのだから、これはこれで楽しんでいるのだろう。

「ふむ」

 と家令が考え込むように顔を伏せ、顎に指を添える。髭が生えた様子もない顎先をさりさりと撫でながら、

「五百年前から変わっていなければ、二マイル離れたところに村があったはずだ」

 言うが早いか家令の姿は液状化したように溶け落ち、瞬きのあとには同じ場所に小柄なメイドが立っている。

「男の姿だと何かと面倒なの」

 と、人狼はソバカスのある顔で含羞んだ。

「ちょっと不自然になるけど許してね」

 彼は大きな溜息で答えた。

 通常、男の主人には家令が付き従い、女の主人にはメイド長が付き従うのが慣例である。主従が異性同士であることは滅多にない。が、社交界に詳しくない人々にしてみたら、どうでもいいことなのかも知れない。

 二人が村に着いたのは夕暮れ時だった。ちょうど夕餉の時間帯のせいか、外を出歩いている人影は見えない。それでも、遅くまで残って作業をしていたらしい中年の農夫が彼らを見つけ、自宅に招いてくれたことで、今夜の宿くらいはどうにかなりそうだった。農夫は主人とメイドの取り合わせであることに何の疑問も抱くことはなく、二人の事情に親身に耳を傾けてくれた。

 幸いにして村には宿泊場所を提供してくれる教会があった。この時期、付近の街々で宿にあぶれた人や、曰く付きの修道院を探索しに訪れる不届き者のために解放しているのだという。

「……やれやれ」

 礼拝堂とは別棟の宿泊所に二人が通された頃には夜になっていた。案内してくれた神父が部屋から離れるなり、主人の傍らでニコニコしながら佇んでいたメイドは本来の姿に戻り、窮屈そうに吐息する。もはや家令の姿ですらない。

「人に化けるのは肩が凝る」

 簡易ベッドの硬いマットレスに腰掛けて、彼は胡乱に人狼を見た。肩が凝ると言って伸び上がりながら、相も変わらずヒトの姿を取っている。素肌も顕わな姿から目を逸らす。横暴な人狼は好かないが、柔らかで滑らかな毛並みを持つ狼型の巨体に触れるのはなかなかどうして好きだった。幼い頃に温かな毛並みに埋もれて眠りたいと夢想したからだろうか。あの頃は、まさか自分も同じ生き物になってしまうとは思いもしなかった。

 ここは地獄だと思いながら生きてきた。死んでしまった今もさほど変わらない。余生にしてはながすぎる命だ。本当なら今頃、土の下で朽ち果て、骨も残らなかったはずなのに。

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