人狼亜種は語る
ヘレン、という名前の家庭教師が幼い私に話してくれた物語のうちに、病で滅びた村の話がある。村を訪れた旅人が無実の罪を自白させられ、首を落とされる惨たらしい話だ。旅人の遺体から流れた黒い血が、村を襲った疫病のもとなのだと先生は語った。旅人は、実は天の御使いか悪魔の手下で、彼の無実を信じなかった人々に死の呪いをかけたのだと言って、先生は寂しそうに笑った。
当時は怖くて仕方がなかった物語だが、今は違う。私はもう幼くはない。
一八九二年。旧西方帝国の大都市の広場で私はそれを見た。連続小児強姦殺人の犯人として捕らえられた
死刑囚の身体から噴き出したのは、厳密に言えば血ではない。人ならざる肉体を得た私には、はっきりと見えた。あれは、地獄の底の瘴気だった。
公開処刑の場を離れたあとに思い出したのが、件の村の物語だった。いつまでも眠らない私を脅かすために、先生が選んで話してくれたのだろう、恐怖の物語。あの旅人はヘレンだったのではないかと、不意に思い至ったのだ。
生を蔑み、死を嘲笑い、欲望と本能で呼吸する化け物──
汚臭が漂うセピア色の街並みを、
夕刻。鴉が不穏を告げる。私は人が住んでいるのかどうかもわからない建物の陰に居たが、近づく足音と気配に通りへと出た。
「やぁ、ニール」
首のない身体が生首を抱えて言った。口を開いたのは生首だった。
「お前のことだから俺の噂を聞いたら来るとは思っていたけれど、どうだい、綺麗な死に様だったろう?」
私は返事をしなかった。
身体からも生首からも血は止まっていた。しかし、そもそも出血をするはずがない。奴は
ヘレンの長い髪は断頭台に掛けられたために、無残に切り落とされていた。小脇に抱えられた生首を見ながら、髪が短いのも存外に似合うのだと、私は場違いに思っていた。
季節外れの外套を纏い、フードを被った人間が、二足歩行する首なし屍体と話している様は、傍から見たら滑稽だろうか。私はあまりに見慣れてしまっていて、グロテスクだと感じるような感性は持ち合わせていない。
「子どもの肉は甘かったか」と、私はヘレンに問うた。首なし屍体が小脇に抱えた首を持ち上げ、断ち切られた傷口に載せる。傷が完全に癒える前に小首なぞを傾げるものだから、落ちそうになった頭を慌てて腕が押さえつけた。
「もちろんだとも」
瞬く間に癒合する傷口に痛みなど感じていないように、ヘレンは恍惚とした笑みを掃いた。
「この世で三番目に好きな味だ」
舌なめずりでもしそうな顔で宣う。私は特に相槌を打つことも、一番目と二番目を聞こうともしなかったが、
「処女の次に旨い」
ヘレンのほうから告げてきた。
傷口が癒合して消えた途端、ヘレンの
「一番はお前だから妬くな、ニール」
嘯くヘレンの漆黒の瞳が晴れ、綺麗に輝く
生きていた間も、死んでからも、私がいるのはゲヘナの底だ。希望も絶望もありはしない、無だけが広がる闇の底。月を隠すヘレンの瞳の色のような場所。
「……貴様ごときに喰われた子らが可哀想だ」と、ヘレンの手を払い、私は言った。随分と素っ気のない言い方になった。
「あの村も貴様の仕業なのか」口を開いたついでに尋ねる。
「あの村?」
「寝物語で聞いたことがある、奇病で滅んだ村だ」
「嗚呼──」
感嘆の息をついて、ヘレンは喉を撫でた。つい先ほど癒えたばかりの傷を正確に四本の指でなぞる。
「初めて斬首された場所か」
刃によって首と身体が分断される瞬間を思い出したのか、ヘレンの顔はエクスタシーに染まった。
「お前ももう大人だからな、ニール」
弧を描く唇でヘレンが言う。数多の死を退屈しのぎのように迎えてきた罰当たりが、我らの神をも殺しそうな顔をして笑う。
「本当のことを話そう」
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