旅人アドルフの記憶
一一四七年、夏の終わり。私は帝都を飛び出し、帝国北部のとある郡を訪れていた。というのも、そこで採れる農作物や果実がすこぶる美味しいとの評判を聞き、帝都で売ることができないかと考えての視察だった。
有閑階級でありながら、私はそれらしい振る舞いをすることが得意ではない。故に、馬車を使わず、供も連れぬ旅になる。身なりも庶民に近いものだったが、前もって訪問を告げていた郡都では歓待された。
私は冬までの間に、郡内の村や町を数ヶ月かけて巡る予定だった。どの町も村も山や森に囲まれた自然豊かな土地のため、人々の暮らしや季節の農作物、耕作地での工夫などを見るにはそれでも足りないくらいの旅程だった。
しかし、不安なこともあった。郡都と交流のある町ならともかく、村のように人口の少ないところは閉鎖的だと噂で聞いている。どう繕ったところで私が有閑階級であることは透けてしまうのだ。帝国を支える屋台骨とも呼ぶべき彼らに受け入れられるかどうか、そればかり心配していた。
郡都を出たのは八月の半ばだった。各村や町には二週間から一ヶ月の逗留予定だった。馬で巡る旅路だから各地でのんびりする訳にはいかないのが残念でならない。この周辺の積雪は多くて九フィート以上にもなるというから、降雪の時期までに郡都へ戻らなければならないのだ。
立ち寄った町や村では危惧していたことは起きなかった。皆、田舎の人間らしい鷹揚さで私を迎え、帝都の話を聞きたがる。私は一介の商人のフリをして、帝都での暮らしや経済、流行りなどを語った。
郡都と交流のある町は煉瓦の家並みが美しかった。それらの民家に混じって建っていたのは古めかしい教会で、帝都では少なくなってきた工法のものだった。驚くべきことに、町の教会は東方正教ではなく、西方の帝国で国教とされているものだった。帝都よりも西方帝国の国境が近いからかも知れない。
帝国の国教は東方正教と定まっているが、この辺りの村では土着の信仰がまだ根強い。聞いたことのない神の名前と風習が残っている。私の信仰は厳格な東方正教だが、修道者ではないので、彼らの文化を知ることは純粋に楽しかった。
例えば、我々、帝都の人間は十月の初めに収穫祭をやるが、各村に住む人々は十月の終わりに豊穣の祭りをするのだという。豊穣の女神に一年の実りを供え、夜通し食べたり飲んだりして過ごすのだそうだ。
そんな話を聞きながら、郡内では大きな規模の村に逗留している間、私は一人の娘に恋をした。生まれつきだという
彼女と離れがたく思って過ごすうち、逗留期間は二ヶ月になろうとしていた。九月の頭に訪れたのだから、このままズルズルと長居してしまっては冬までに郡都へ戻れなくなる。
名残惜しいと思いつつ、明日にでも村を出ることを彼女に告げた。とても寂しそうな顔をして、彼女はソバカスの浮かぶ頬を赤らめ、私の手を取った。喜ばしいことに、彼女も私を好いてくれていた。しかし、叶わぬ思いであることは彼女とて理解している。だから、彼女は豊穣の祭りの晩に私の種を求めた。それがどれほどの決意だったか──思い出すだに彼女に会いたくなる。
身が引き裂かれる思いで村を出たのは十一月の初めだった。次の村まで向かう道中、私の視界からは色彩が消えた。色づく落葉樹林、寒さにも凛とした瑞々しさを湛える針葉樹林。それらを眺めることもなく、ただ黙々と、麗しく儚い娘のことばかりを考えていた。
次の村には二週間ほど逗留した。人口百人になるかという小さな村だ。豊穣の祭りが終わってしまうと農閑期に入るため、人々は冬篭りの支度をしていた。男たちは森に入ってひと冬ぶんの薪を集め、女たちは縫い物や編み物に精を出す。これから厳しく雪深い冬を越すというのに、彼らは皆、和やかな日々を過ごしていた。
あれは確か、村を訪れて数日後のことだった。私が最後に訪れようとしていた村の異変を聞いた。何でも、突然に身体が腐り出す奇病が蔓延しているという。帝都でもそんな病は聞いたことがない。その病に罹ると、全身の至る所が腐り落ちて必ず死んでしまうのだそうだ。まるで何かの呪いのようだと思いながら、私は密かに神に祈った。
おかしな噂を耳にしたのもこの頃だ。奇病が流行る村に、私を名乗る旅人が訪れ、無実の罪で刑に処されたというのだ。村では年端もいかない子どもたちが惨殺されており、村人たちは余所者である旅人の犯行であると証言したらしい。
旅人の特徴は彼女を彷彿させた。精悍な青年であるとのことだが、絹糸のような真っ白な髪、透けるような白い肌、神に祝福された美貌といった特徴を聞くと、否応なしに彼女が思い出された。しかし、不思議なことに彼女の面立ちをはっきり思い出すことはできなかった。特徴は覚えているものの、彼女が美しかったこと以外、どんな顔をしていたかは思い出せなかった。
十一月半ば。遂に病で壊滅した村が焼かれているのを遠巻きに眺めて、私の旅は終わった。初冬を迎えたばかりの冴えた青空に黒い煙が立ち上って消えていく。馬に跨ったままそっと神に祈り、私は郡都へ戻ることにした。
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