家庭教師ヘレンの話

「今もそうだけれど、大昔にも修道院は荒れ野や砂漠にあったんだよ」

 と、家庭教師の寝物語が始まると、子どもは瞳をキラキラさせて聞き入るのだ。

「その修道院はどこかの国の荒れ果てた大地にあったのだけど、院長を始め、不真面目な修道士ばかりでね」

 子どもに聞かせる内容だから、家庭教師は言葉を選びつつ話を進める。

「修道院の規則はほとんど守られていなかった」


 聖霊様の御使いである子どもが遣わされたのは、荒れ果てた大地にぽつりと佇む修道院だった。敬虔な信徒のように振る舞いながら、道に背く修道士たちがいるために、神様が彼らを正そうとしたんだ。

 子どもは襤褸を纏った身なりで礼拝堂の入り口に座り込み、彼らが朝の日課を始めるまでおとなしく待っていた。

 修道院の朝はとても早い。夜明け前には起床する。けれど、ここの修道院の人たちは寝坊助でね。多くの修道院で一時課が始まる頃になってようやく、礼拝堂にやって来たんだ。寒い中を待たされたものだから、子どもは熱を出していた。襤褸を着ていたし、とても寒かったからね。

 子どもを見つけた修道士は真っ直ぐな性格の持ち主で、修道院長に掛け合って、行き倒れの子どもを看病することになった。彼はとても真っ直ぐで、すぐに熱くなる性格だから、子どもの看病も一生懸命にしたんだよ。

 その甲斐あって、熱が引くまで世話をされて身体が良くなった子どもは、修道士見習いとして修道院に住まうことになった。

 その修道院には一応、規律のようなものがあったけれども、他の修道院と比べると厳しくはなかった。起床は夜明けと同時、朝の日課は一時課から始まる。九時課が終わると自由時間で、寝る前のお祈りは各自で行う決まりだった。主日の前日は徹夜祷てつやとうをする習わしのところも多いのだけれど、その修道院は一日五回の祈りと掃除や炊事を除いて自由時間にしていた。

 その修道院の良いところはね、土地をちゃんと耕して作物を作り、ほとんどを自給自足で済ませていることにあった。荒れ野の真ん中にある修道院だから、周りの集落から物資の寄付なんてそんなに集まらない。質素で味気ない食事が並んでも、誰も文句を言わずに食べていた。育ちが良さそうに見える修道士もいたのにね。

 戒律で禁じられた七つの罪源を知っているかい。そう、前に話したことがあるね。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰の七つだ。聖霊様の御使いは悪魔のように振る舞って、彼らが敬虔な信徒であるかどうかを試したんだ。

 神様は乗り越えられない試練は与えない。試練を試練だと気づき、歯を食いしばって耐え抜く人々をこそ祝福する。

 中には真面目な修道士も居たけれど、彼らのほとんどの信仰は強くなかった。教会の決まり事が会議で活発に変わっていく時代だったから、仕方なかったのかも知れない。みんな、修道士であることを忘れて、七つの罪源に溺れていったんだ。色欲を求めて強欲になり、互いに嫉妬して憤怒する──そんなふうに。

 子どもが修道院に来て二年目の春、院長を補佐していた司祭がひっそり居なくなったことをきっかけに、修道院からは規律も秩序もなくなった。みんな、子どものことが大好きだったからね。子どもに嫌われて院から去られたら大変だ。朝な夕なに修道士たちの相手をし続けることに疲れてしまって、子どもも静かに院を出て居なくなってしまった。これに修道士たちは慌ててね。みんなが激怒した。きっと、厳格な院長がみんなの様子に呆れ果てて子どもを隠してしまったに違いないと、修道士たちは院長を襲って殺してしまった。それでも子どもが見つからないものだから、彼らはお互いを疑い合って、遂に殺し合いを始めたのさ。

 やがて修道院には誰も居なくなり、ひっそりと廃れてしまったそうだ。


「その子は何処へ行ったの?」

 子どもの問いに、家庭教師はにこりと笑った。

「聖霊様の御使いだからね、空へ還ったのさ」

 もちろん、それは子ども向けの嘘だ。

 その子ども──シオンは、今、ここにいる。シオンは当時、修道士が仮として付けてくれた名前で、本当の名前はヘレンだ。遠い昔、悠久を生きる魔女が付けてくれた名前。

 あの子どもは聖霊の御使いなどではなく、ましてや悪魔などでもない。人の欲望を食い物にする、この世で最も邪悪な化性だった。

 あの修道院に目をつけたのは、滾る欲望の匂いがしたからだった。案の定、そこには敬虔で初心ウブな信徒に目をつけてハーレムでも作ろうとしているかのような司教と、その司教に洗脳されつつある司祭、彼らの本性を知らぬ純朴な修道士たちがいた。

 司教は自己愛の強い性格で、美しい見た目の少年が好きな男だった。対して司祭は自分に自信がなく、卑下ばかりする腰の低い男で、真反対の司教を敬愛し、盲信しているような人間だった。

 彼らの目を欺くのは容易だった。容姿は司教の好みのようだったから、神秘的な子どもに選ばれた人間であると少し仄めかしてやれば、勝手に暗示に掛かったようになった。司教が子どもを気に入ってさえしまえば、彼を敬愛する司祭は反発できない。

 こうして修道院に潜り込んだヘレンは、子どもの姿を利用して、若き修道士から餌食にしていった。殊に、神だけを信じる堅物の修道士を傀儡にして弄び、種明かしのように罪の記憶なぞを呼び起こしてやったときは愉しかった。

 子どもは次々と禁欲的な修道士たちを誘惑し、嫉妬に狂わせていった。独占欲を煽ることで司祭が人知れず修道院を去ったことをきっかけに、薄弱な彼らが守ってきた規律が壊れ、司教殺害の暴徒化と、誰が子どもを独占するかの殺戮に発展したのだ。

 そんな真実は無垢な子どもには語れない。だからこそ、七つの罪源について説く聖典の話型を使う他ない。

 ──俺は秩序の真反対の存在なんだよ、ニール。欲望に飲まれ、塗れた世界が好物なのさ。君が見ている姿は仮初に過ぎない。容姿端麗、品行方正なんて家庭教師は最初から、この世の何処にも存在しない。無垢で美しい君はそれでも、俺を好いてくれるだろうか。

「その子は先生みたいだね」

 子どもが言って、家庭教師は息を呑んだ。

「先生も聖霊様の御使いみたいだもの」

 無垢な色に騙されてはいけない。そう思いながら、家庭教師は子どもの艶やかな黒髪を撫でる。この無垢を秩序なき混沌に引きずり込みたいと願いながら、

「おやすみ、ニール」

 眠りを促した。
















【819 A.D.-了】

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