序章-5

 起き抜けの身体が酷い疲労と倦怠感に包まれるほどの悪夢を見た、翌日。五年も共に過ごした家庭教師が屋敷を出て行った。誰に聞いても、解雇の理由はわからなかった。山奥の修道院に戻って神に献身するよと、その人は苦笑した。子どものように大泣きする彼の頬を撫でて、

「寂しくなったら、いつでも名前を呼んでごらん」

 と言った。

「何処にいても、どれだけ離れていても、きっと駆け付けるから」

 漆黒の夜のような瞳は優しく彼を見つめていた。いつか見た夢の中のように雲が晴れて、現実のそれよりも美しい満月が見えないものかと、彼はひたすら、その静かな目を見つめ返した。

「きっと、君を助けに来るから」

 しかし、手品のような奇跡は起きなかった。やはりあれは夢だったのだと落胆する彼の涙を指で掬い、困ったようにその人は笑って、触れるか触れないかのキスをした。

「約束だ、ニール」

 涙を掬ったしょっぱい指が、彼の下唇に触れて撫でる。

「苦しくなったら、ヘレンと呼んで」

 鼻先で囁いて、その人の指が離れていった。寝台に腰掛けたまま動けない彼を置いて、部屋を出て行った。

 その人が触れたところにいつまでも熱が残っている気がして、ニールは自分の指で、そこをそっと撫でた。


 パチパチと爆ぜる音がする。炎が迫っている。重く冷たい身体は床に貼り付いたように動けない。炎の色に染まる視界には、死の匂いしかしない。

 ようやく、地獄が終わる。夢魔に怯える聖職者のような日々が終わる。自分が産まれてきた場所に精を吐き出す苦行が終わる。母を拒めない背中に後ろ指を差されることもなくなる。陰鬱な顔をした家令や女中に用を言い付けなくて済む。不在の父の代わりに慣れない執務をしなくても良くなる。

 心から安堵しているはずなのに、彼の心にはぽっかりと空虚の窩が開いていた。何をしても埋まることのなかった虚ろだ。この窩はあの日、信頼していた人を失ってからずっと、この身に巣食って存在していた。彼自身の原罪を象徴したかのように、共生していくはずだった窩。

 最後に、これを埋めたかったな──落ちてくる瞼を閉ざし、彼は思う。肌を舐める炎はすぐそこにある。パチパチと脂が爆ぜる音を聞きながら、真っ赤な闇に、白い背中を思い浮かべた。白い髪がかかる、精悍な背中。最期に顔が見たいと思って、懐かしい美貌に振り向いて欲しくて、

 ──ヘレン。

 と呼んだ。

 生きていることを後悔したくなる苦痛に意識が攫われた。

 あまりの痛みに、痛みとして認識できない。吐きながら苦悶し、床を這う。はらわたを引き摺り出されるのとは逆の感覚が、下腹部を満たして猛っている。

「ふむ」

 と、満足気な声がした。

「ようやく安定したか」

 悶絶する姿を嘲笑うような気配もした。

時間クロノスめ、記憶が解離していたら意味がないだろうに」

 白い爪先が視界に入る。遠のきそうになる意識を苦悶に縫い止められたまま、足の持ち主を見上げる。

 腰に届きそうな白髪、無垢を表わしたかのように白い肌、夜の底のような漆黒の瞳、嘲りを刻んだ薄い唇、薄い肉付きの精悍な身体。

「ヘレ、ン……」

 苦悶の合間、掠れた声で名前を呼ぶ。変声して間もなかったはずなのに、もうすっかり、大人の声になっている。

「やっとお目覚めだな、眠り姫」

 言って、男は尊大な雰囲気の笑みを浮かべた。彼がよく知る家庭教師の面影は微塵もないけれど、そこに居るのは確かに、触れるか触れないかのキスをした相手なのだった。

「なかなかを呼ばないから、すっかり忘れられたかと思ったが……」

 男は胸の前で腕組みして、鋭い牙を剥き出すように笑った。素肌に纏う白い毛皮がはらりと床に落ちる。

「思い出してくれて何よりだ」

 彼は大きく息をついて、ようやく痛みが去った下腹を撫でた。

 食い破られたはずの腹にはすっかり皮膚が張り、内部がギュルギュルと蠢いている。これは悪夢の続きだと思いたいが、想像を絶する苦痛は本物だった。じわりと肌に浮かぶ脂汗が気持ち悪い。息を乱しながら上体を起こすと、すかさず、男が目の前に膝をついた。

「おはよう、ニール」

 そして、心から愛しそうに目を細める。幼い彼が大好きだった、家庭教師の優しい眼差し。

 黒雲が風で流されるように満月が二つ、現われた。この世で何よりもきれいだと思った月光だ。本物の月よりも美しい月に、彼はようやく、空虚が埋まる感覚を覚えた。













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