序章-4

 彼が成人を迎えるまで、あと二年と迫る誕生日の夜だった。

 寝かしつけを必要とするほど幼くはなかったけれど、母親に迫られる行為の意味や背徳を理解できる年齢になっていた彼はどうしても寝つけないからと、久しぶりに家庭教師と寝るまで話をした。家庭教師の血湧き肉躍るような語り口で英雄譚や原初の世界の話を聞くのは大人になりかかった今でも好きで、聞いているうちに微睡み、久しぶりにストンと眠りに落ちた気がした。

 けれど、浅い眠りの向こうで交わされる人の声が覚醒を促し、彼は薄っすら目を開けた。彼の部屋の入り口で家庭教師が誰かと話し込んでいる。美貌の横顔は堅く強ばり、何かを拒絶するような表情をしている。それなのに、相手は家庭教師の意思など無視して話を進めてしまったのだろう。仕方ない、というふうに頷いた家庭教師は、重い足取りで部屋を出て行った。音もなく閉ざされた扉を見て、助けなければと思った彼は寝台を出た。

 僅かに距離を開け、前後に並んだ二つの人影が手持ちの燭台の明かりに照らされている。それを静かに追うと父の書斎に行き着き、更に本棚の隠し通路から下へと伸びる階段が続いていることに気づいた。きっと二人はここに消えたに違いないと、躊躇いなく進んだ。

 階段の先にはひんやりとした空間があった。恐らくは屋敷の地下に位置する場所で、堅牢な石壁に守られた通路が真っ直ぐに続いている。闇に慣れた視界でも、明かりがないために手探りで進むと、じきに大きな扉の前に行き着いた。教会にあるそれを彷彿とさせる両開きの扉にはほんの少し隙間があって、彼は恐る恐る、そこから中を覗いてみた。

 一度に六本の蝋燭を灯せる燭台が、複数、置いてある。その全ての蝋燭に火が灯されているからか、扉の向こうはぼんやりと明るい。

 息を呑むほど荘厳な造りの礼拝堂があった。年代物とわかるパイプオルガンが祭壇の向こうに設えられている。十字架に架かった救世主のブロンズが祭壇の上に置いてあり、かつてはここで様々な祈りや祝福がされていたのだろうと想像できるほど、全てが丁寧に保存されているのだった。

 その、あまりに神聖な礼拝堂の中央で、見知った背中が服を脱いだ。白い髪に隠れてはいたものの、薄い肉付きの背中に刻まれた無数の傷痕がはっきりと見えた。一部は治りかけ、一部は瘡蓋になり、一部は化膿してじゅくじゅくしている。真っ赤な蚯蚓脹れのそれらは、罪人が咎を責められるときに受ける鞭の痕だと、彼にはすぐにわかった。様々な話を聞く中で、鞭打ちの苦行を日課とする会派があることを知っていたからだ。

 そんな、と思う。けれど、衣服を全て脱ぎ捨てた家庭教師の精悍な身体には、紛れもない苦行の痕跡が無数に刻まれている。

 色素欠乏のように真っ白な肌へグロテスクな傷をつけたのが誰なのか、彼はすぐにその目で見ることとなった。棘がついた鞭で肌を破り、肉を裂くのは、虚ろな顔をした父親だった。

 理由もなく鞭打たれた青年が真新しい傷を刻んで膝をつく。苦痛に呻きながら脂汗を流す無防備な背中を父の姿が隠した。次に青年の姿が見えたときには、その人は真っ白な身体と髪を鮮血で汚し、木製の床に倒れていた。

「先生!」

 彼は思わず、扉を開けて駆け寄った。礼拝堂の中にはまだ、家庭教師を殺してしまった父がいるにも関わらず。

「先生、せんせい、死なないで!」

 白く優雅な首筋には深い切り傷があって、そこから止めどなく血が溢れている。ぐったりした身体を抱き起こし、傷口を抑えて止血を試みながら、彼はまだ幼い声で慟哭を叫ぶ。

「僕をひとりにしないで、こんなところに置いて行かないで、先生、お願い、」

 血のぬめりで手が滑る。思うように止血できない。刻々と冷たくなっていく身体を抱き締め、彼は初めて、心から神に祈った。僕は地獄に落ちても構わないから、どうか、この人を助けて──。

 視界に影が差したことで、彼はふと我に返った。誰だ、と思う間もなく、髪を掴まれて白い身体から引き剥がされる。痛すぎて声も出なかった。ゴトリと床に落ちた白い肉体からは未だに黒い血が流れ続け、夥しく床を汚していくのに、彼はそれに触れることもできない。

 頭の皮がちぎれそうなほどの痛みのあと、幼さを残す彼の身体は古めかしい木のベンチに衝突して床へ崩れた。胸を強かに打ち付けたせいで呼吸もままならず、喘ぎながら、どうやら突き飛ばされたのだと遅れて理解する。ささくれ立った床の感触が柔らかな頬に刺さった。起き上がることもできないまま、迫る脅威の気配に視線を向けて、そこに、悪魔を見た。

「……ちちうえ」

 自分が咄嗟に呟いた言葉の意味を、彼は理解できなかった。小振りの鉈を手に提げているのは、自分がよく知る父のはずがないのだ。血しぶきを浴びる凄惨な顔なんか知らない。見知らぬ他人のはずなのに、乱れた黒髪がかかる顔つきは紛れもなく、優しくて偉大な父のそれだった。頬が痩けて目が窪み、変わり果ててはいたけれど、父の面影は残っていた。

 燭台の光で鈍色に輝く鉈が振り上げられる。それが誰に向けられているか、どこに振り下ろされようとしているのか考えることもなく、彼は茫然と、父だったものを見上げていた。

に触れるな」

 不意に、地底から響くような、悍ましい声がした。振り下ろされようとしていた鉈がぴたりと止まる。

「貴様ごときが穢い手で触れるな」

 父だったものがぜんまい仕掛けの玩具のような動きで背後を振り向いた。息さえ忘れて、彼もそちらを見た。

のだ」

 赤黒い血に塗れた白い身体が、ゆらりと起き上がる。美貌の鼻筋に皺をよせ、狼が威嚇するかのような凶相で、白髪の青年がのだ。

 カクカクとした不自然な動きで、父の身体が家庭教師を向く。首筋に致命傷を負っている青年目掛けて鉈を放り投げたところで、彼の意識は闇に飲まれた。

 ニール、ニール、俺の愛し子。

 痛かっただろう、怖かっただろう。

 でも、もう大丈夫だ。

 これは全部、悪い夢だ。

 だからゆっくりおやすみ──

 鼓膜の奥で聞こえる潮騒の向こうで、誰かが慈愛を囁いていた。

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