序章-3

 白髪の家庭教師を連れて来たのは父だった。懇意にしている教会の門下の修道院に美しくて優秀な修道士見習いが居ると聞きつけ、家督を継ぐ予定の息子の家庭教師を任せたいと無理を言って、険しい山奥の修道院から峻峰しゅんぽうの麓の屋敷へ、ある日、突然、連れて来たのだ。礼拝や懺悔は元より、麓の町の教会への寄進に熱心な信心深い父だから、自慢の息子には単なる学問だけでなく、神学も学んで欲しいということなのかと、屋敷に住まう者は皆、納得したようだった。

 彼が初めて家庭教師と対面したのは八歳になる頃だった。屋敷に住む大人たちの誰より──父も母も美しいと言われる容貌ではあったけれども、それらを遥かに凌駕する美貌を持つ家庭教師を見て、この人はきっと聖霊様なのだと直感した。

 それから二年以上、彼は家庭教師と一緒の時間を過ごしている。

 初めて会ったときは成人間もない十代後半だった家庭教師も、今や二十歳過ぎの立派な大人だ。毎日のように顔を合わせているけれど、野性味溢れる美貌にも、清貧を貫いて粗食を続けていた身体にも、日増しにどことない妖しさが漂うようになってきた気がする。それがいったい何であるのか子どもの彼にはわからなかったものの、家庭教師が妖しさを増すにつれ、目が離せなくなっていったのは確かだ。

 家庭教師ではあるけれど、その人の役目は主に子守りなので、寝る前の話し相手も務めてくれていた。修道院で育ったわりには不思議な御伽噺をよく知っていて、まるで見聞きしてきたように語るから、彼は寝る前のその時間が座学よりも好きだった。

 空と海がまだ緑青色だった頃の話。深い色をした原生林の夜露が甘かった話。離島に建てられた修道院の言い伝え。山間の村に訪れた聖霊の使者の話。

 疫病が流行って滅んでしまった村の話を聞いたときには怖くてぞっとしたけれど、家庭教師が優しく手を握ってくれていたから安心して眠ることができた。

 たくさんの話を聞く中で、彼が特に好んだのは伝説の中に出て来る化け物の話だった。人狼と呼ばれる不死の魔物で、体内に月を飼い、人の姿と狼の姿を自在に行き来できるのだという。満月の夜に変身する狼男の始祖のようなものと伝わっているけれど、伝説の中の魔物は時に暴君と闘い、時に研究熱心な修道士たちの実験道具になり、時に破壊の限りを尽くす暴虐の悪魔として数々の英雄に封印された。とても強くて、とても優しく、とても悲しいモンスターだった。

「こんなものが本当に居たら大変だ」

 ある晩、話を終えた家庭教師がぽつりと言った。なかなか寝ない教え子を見て、困ったように笑いながら。

「早く寝ないと悪い子を食べに来るかも知れない」

 夕方、東の空に姿を顕わした満月は、そろそろ空の最も高いところに差し掛かる刻限だ。十歳そこらの子どもには充分すぎるほどの夜更かしである。人狼の恐ろしい話を聞いたあとだから、そう言えば教え子が慌てて眠ろうとすると思ったのだろう。家庭教師の脅し文句に、けだし、彼は笑う。

「僕、怖くないよ」

 子ども騙しの脅し文句など真に受けない。そんなふうに、寝台の傍らの家庭教師を見る。

「ライカンは大きな狼にもなるんでしょう、僕、お腹を枕にして寝てみたい」

 ふふっと声を立てて笑うと、家庭教師は一瞬、何を言われたのかわからないような顔で瞬きをして、じきに柔らかな笑みをふわりと口許に掃いた。

「想像力が豊かなのはいいことだけれどね、ニール」

 父親譲りの黒髪を撫でられながら、彼は家庭教師を見つめる。

「ライカンの好物は君みたいな子どもの柔らかい肉だと聞くよ」

 そう言った家庭教師の眼差しはどこか寂しげだった。まるで、君は食べてしまいたくないと願う人狼のように見えて、彼は家庭教師の頬に幼い指を伸ばす。

「もし、ね」

 家庭教師の頬は柔らかく、温かい。

「もし、先生がライカンだったら、先生にだったら食べられてもいいよ」

 物悲しい色をする漆黒の瞳を見つめ返して、

「僕、先生のことが好きだもの」

 好きという言葉の意味を半分も理解していない幼い唇で告げた。

 家庭教師の漆黒の瞳が揺れる。風が吹いて黒雲が流れていくように、その人の漆黒の瞳から、黄金色の満月が顔を出す。

もね、ニール」

 魔法にでもかかったかのような光景に、彼はじっと、家庭教師の優しい瞳を見つめた。

 暗い色をした月の海までくっきりと見える。遠い夜空に浮かんでいるはずの満月が、今、目の前にある。触れられそうな位置で煌々と輝く優しい色。闇の帳を照らして包む、母性の色。

 骨張った指が、頬に触れる幼い掌を包んだ。

「君みたいな子どもが大好きだ」

 ぽかんと口を開ける彼の顔が、二つの満月にくっきりと映っていた。舌なめずりでもしそうな家庭教師の声色も、伝説の化け物らしき存在がここにいる恐怖も気にすることなく、

「……きれい……」

 ともすれば不吉に輝く満月に、感嘆を零した。

 そのあとのことは覚えていない。いつの間にか眠って起きたら、家庭教師の瞳はいつもの漆黒に戻っていた。あれはきっと夢の中の出来事に違いないのだと彼は納得した。人狼なんて魔物は伝説の中の生き物で、実在するはずもないのだから。

 彼が大人への階段を上るにつれ、幸せに満ちていたはずの環境は、少しずつ、少しずつ、不吉な兆候を見せながら変わっていった。

 美貌の家庭教師が住み込むようになってからというもの、優しくて偉大な存在だった父は書斎にこもりがちになり、三年が経つ頃には不在のことが増えた。父の不在が目立つようになると今度は母が情緒不安定になり、家令や女中頭ディーナーリンに町への使いを頼んでは薬を買って使うようになった。変調を来たした母親は涸れてひび割れた声で子どものような癇癪を起こし、そのたびに息子の名を呼び、駆けつけた息子に父親の面影を見つけては求めるようになった。

 絵に描いたような幸福な家族は破綻した。髪も肌も無垢な色をした家庭教師を迎え入れたことをきっかけとしたように。

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