序章-2

 これが悪夢でないとするなら、まさしく現実だとするなら、人狼は実在したことになる。狼男に噛まれた人間が狼男になってしまうように、人狼に喰われた人間もまた、人狼になるのだろうか。

 十三夜の月を思わせる淡い金の瞳が男の瞳の中で揺れていた。銀の毛並みの巨大な狼は耳をぺたりと後ろへ倒し、ふさふさの尻尾を脚の間に挟んで恐れを示す。

 嗚呼、そんな。そんな馬鹿な──。

 しかし、人狼に喰われた人間が人狼として蘇った話など聞いたことがない。ならば、これはきっと悪夢の中の出来事だ。早く目覚めたい。待ち受けているのが地獄でも、荒唐無稽な悪夢よりはずっといい。

 ベロリ。男の真っ赤な舌が、男の薄い唇を舐めた。イヌ科の動物が舌なめずりするような仕草にぞっとする。彼は、ヒトに化けた狼だ。か弱い存在を喰らう、ずる賢いけだもの。

 笑みに引き上げられた男の口角がビキビキと耳まで裂けていく。形のいい鼻梁がイヌ科のマズルのように尖っていく。漆黒を湛えた男の瞳が晴れ、完璧な真円の満月が黄金色に輝いた瞬間、男の姿はヒトの皮を脱いだように巨大な白狼へと変わった。

 完全体の人狼だと直感した。

「ニール、おいで」

 マズルから舌を垂らし、短く息を吐きながら、白狼が言った。銀の毛並みの狼よりも更に一回りは大きい体躯で、純白の毛並みは絹糸のような艶を放っている。そうと知らずに森で見かけたら、神獣と見紛ってありがたがってしまいそうだ。オオカミと名のつく獣の王にして、森の生態系の頂点に君臨し、群れを率いて野山を翔け、時に英雄に乳を飲ませて育てる神秘の存在として。

 けれども、この聖霊の化身のような狼は聖なる見た目に反して純然たる悪なのだと、本能が告げていた。言うことを聞いてはならないと、警鐘に従ってジリジリ後退る。

 ウゥ、と口から漏れるのは獣の唸り声だった。よく知る自分の声とは程遠い。

 これは夢だ。とても悪い夢。一刻も早く目覚めなければ。阿片中毒の実母と姦淫し、戻らぬ父の代わりを務める日々に戻らなければ。そこが神の国に行けない永遠の地獄でも。どうか早く。早く目覚めろ。

「さぁ、おいで、ニール」

 白狼の姿をした悪魔が唆す。羅列する牙を見せつけるように哄笑する。

「俺の同胞はらから、俺の愛し子」

 白狼は言って、身体を低くした。

「俺の贄」

 仔馬ほどはあろうかという巨体が飛び掛ってくる。逃げなければ、と身体を翻して駆け出した瞬間、銀の毛並みに覆われた脚がヒトの白いそれに変わる。けれども、それはあまりにも無力な変化だ。狼の巨躯が肉体を捉え、前脚の鋭い爪が肌に突き刺さる。迫る牙と爪の痛みに声を上げる前に、尖ったそれが喉を突き破った。

 背中に触れる硬い床が生温かくぬめっていく。か細い喘鳴が聞こえる。狼がはらわたを引き摺り出して貪るたび、凄まじい吐き気を伴う痛みがして、気が遠くなっていく。

 これは夢なんかじゃない──嫌な確信の仕方だった。死に向かう身体が冷えていく。現実を認識したばかりなのに終わろうとしている。感覚を手放し、明滅する意識の中、骨ばった指が頬を撫でた気がした。視野が暗転し、潮騒のようなノイズだけが残る聴覚に、

「さぁ、起きろ」

 愛を囁くような声音が響いた。


 せんせい、と、少女のような唇で、彼は家庭教師を呼んだ。

 彼付きの家庭教師は屋敷に住み込みで務めていた。背中の中ほどまである長い白髪は生まれつきの色らしく、漆黒の瞳以外は色素が薄い。野性味溢れる美貌をしているから、同じく住み込みの年若い女中たちがしょっちゅう、頬を赤らめて話しかける様子を見かけた。そのたびに、しかつめらしい顔の家令が彼女らを叱責して蹴散らし、色恋沙汰を起こさぬようにと、家庭教師に滾々と説教している姿を見た。

 大人は大変だなぁ、と彼は思っていた。家庭教師が美貌に生まれついたのは本人の責任ではないのに、容姿のせいで誰かに叱られるなんて可哀想だ。彼自身も、両親譲りの美貌だと周囲が持て囃し、侯爵家に連なる生まれと相俟って縁談の持ち込みが絶えないようだから、家庭教師の気苦労は何となく理解ができ、同情した。

 先生、と彼は家庭教師を呼んだ。ある昼下がり、白い日差しに満ちたテラスのことだ。

 丸テーブルには羊皮紙や羽根ペンといった勉強道具が広がっていた。青インクで数式を書き込む手を止めて、彼は傍らに座る家庭教師を見る。

「この間、家令フェアヴァルターが先生を怒っているところを見たの」

 白髪を後ろ頭で一つに結わえた家庭教師は、早々に算数の授業に飽きてしまった教え子を見て、ぱちくりと瞬いた。すぐに困ったように微笑む。

「見られてしまったか」

 この家庭教師は教え子に甘い。飽き性の教え子が授業を逸脱しても叱ることは滅多になく、苦笑しながらもお喋りに付き合ってくれる。だからこそ、彼も安心して甘えていられた。

「先生は綺麗だからマークトたちが騒ぐのも何となくわかる、僕にもよく、女の子みたいだってはしゃいでいたもの」

 テーブルの下で行儀悪く足をぶらつかせながら、彼は羽根ペンの羽毛を唇に当てた。

 十歳を過ぎた今でこそ、彼は見目麗しいながらも少年になっていたけれども、幼い頃は本当によく性別を間違えられていたのだ。麓の町の教会まで両親と主日礼拝に行くのだが、「とても可愛い女の子ですね」と声を掛けられたのは一度や二度ではない。

 家庭教師は教え子の率直な言葉に苦笑いした。

「父と母のどちらに似たのか、要らぬ苦労を抱えてしまったよ」

 彼はきょとんとした。

 人に好かれることは悪いことなどではない。最もわかりやすい特徴を褒められるのに、この人は嬉しくないのだろうか。

「先生は、自分が嫌いなの?」

 彼が首を傾げると、

「知らなくていいことまで知ってしまった、という意味ではね」

 家庭教師は答えて、どこか切なげに微笑んだ。

 子どもの彼には大人の気持ちがよくわからない。僕もあと十年ほど生きたら、先生の気持ちがわかるようになるかしらと思っていると、

「私は修道院の孤児院に居たからね、君は違うよ、ニール」

 それは生まれのせいなのだと家庭教師が言うので、そういうものかしらと頷いた。

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