He said me,
砂乃らくだ
序章
序章-1
長い夢を見ていたような気がするし、束の間、うたた寝をしていただけのような気もする。
冷たい夜気が頬を撫でて薄目を開けた。漆黒の空を背景に、
彼は誰だろう。
野性味を帯びる顔立ちは古代彫刻を彷彿させる黄金比に整い、肌も髪も無垢なほど白い。瞳は満月のような金色。こんな目をする人間がいるだろうかというほど、優しさに満ちた視線を投げている。
「おはよう、ニール」
と、白髪の美丈夫が言った。
「俺の愛し子──」
形のいい唇が笑みの形に釣り上がる。彼を見つめながら、ゆっくり、瞬きをする間に猛烈な睡魔がやって来て、閉ざした瞼を開ける気力もない。
おやすみ、と、どこかで誰かが囁いた。ついさっき起きたばかりなのにと思いながら、意識を連れ去る睡魔に身を委ねた。
鼻腔の奥がきな臭い。パチパチと爆ぜる音がする。何かが燃えている。燃えているのはわかっているのに目が開かない。起きなければと焦燥する。焦燥するほど瞼は重くなる。まるで、間近に迫っているだろう炎に包まれたいかのようだ。焼け死ぬなんて嫌だと思う。嫌だ、嫌だ、嫌だ──!
バチンと目が開いた。正しくは、魘され続けた悪夢からようやく解放された。
身体中の関節が、全身を強ばらせたあとのように軋む。ぎこちなく起き上がって視線を巡らすと、見慣れたはずなのに見知らぬ様相の自分の部屋だった。家具にも床にも埃が積もり、寝台の天蓋には蜘蛛の巣まで張っている。まるで人が住まなくなって久しい廃墟のような有り様に瞠目する。
此処は何処だ。
そろそろと寝台から降りて更に驚いた。視線の高さが最後の記憶と全く違う。
最後の記憶──それらしいものを思い出そうとして、ズキン、とこめかみが疼いた。頭蓋の骨を内側からノックするような痛みを堪えつつ、窓辺の机へと歩み寄り、すっかり真っ白になってしまった天板を指で拭う。埃と黴の入り交じった汚れが白い指先を汚した。
改めて室内を見渡す。ある時から誰からも忘れられてしまったかのように取り残された部屋。壁も床も、天蓋付きの寝台も、全て見知った自室なのに、どういう訳か他所他所しく感じる。それは例えるなら、とても長い旅に出て、数十年ぶりに帰ってきたかのような感覚だった。持ち主を忘れた部屋が部外者の侵入を拒んでいるかのようだ。
一歩ずつ床を踏みしめるたび、膝の力が抜けそうになる中をどうにか踏ん張って、室内を一通り巡ってみた。キャビネットの上にある楕円の鏡が曇っている。うすぼんやりと映った人影を怪訝に思い、鏡面の汚れを袖で拭って絶句した。
顔立ちは紛うことなく自分だが、雰囲気も年齢も、自覚しているものとはだいぶ違う。顎のラインで切り揃えていた黒髪は三日月を彷彿する銀色に変わり、成人したばかりの歳頃の面立ちはいつの間に青年期へと突入している。
此処は何処だ。
これは一体、誰だ。
動揺して後退った拍子に視界が揺らいだ。思うように動かない足から力が抜け、感覚まで変わってしまった身体が真後ろに倒れていく。
「おはよう、ニール」
いつか聞いたことのある声が唐突に沸いた。よろめいて倒れかけた身体を受け止める体温から反射的に逃げようとし、前に転びかけたところ、腕を引っ張られて踏みとどまる。
振り向いた先には男がいた。六フィート以上ある背丈に、腰まで届く長さの白髪、透けるような白さの肌、野性味を帯びた整った顔立ち、闇の深淵のような漆黒の瞳。
誰だ。
胸郭を打つのではないかと思うほど鼓動が跳ねる。男の瞳には、彼を見上げて茫然とする自分の顔が映っている。
突然、ここは見知ったようでいて、全く見知らぬ世界なのではないかと思い至った。深く深く眠るうちに、似て非なる場所で起きたのではないかと思ったのだ。つまり、これは夢の中で現実ではない。そうであるならば、あらゆることが腑に落ちる。
「痛いところはないかい」
と、男が聞いた。男の真っ黒な瞳の中で、自分の顔が目を見張っている。男と揃いのような漆黒の瞳から、ゆらり、と光が差した。そんなはずはないと思ったのも束の間、怯えを湛える瞳は黒から淡い金色へと変わる。雲が晴れて月が顔を出すように。
はっ、息を呑んだ。眼球が零れ落ちてしまいそうなほどに見開いた目の奥の視神経を、怒涛のように色彩が駆け抜ける。
父上。
母上。
どうしてこんな……。
此処が地獄なら良かったのに。
どうか神様。
お願い、傍に居て。
行かないで。
──ヘレン。
狼の遠吠えがした。それは紛れもなく、人である自分の唇から漏れた声だった。
身体中の皮膚が燃え上がるように熱くなる。パチパチと爆ぜる音がする。きな臭い。焼け死ぬ。死にたくなんかない。けれど、地獄が終わるなら、それもいい。
次に目を開けたとき、視界は床の上だった。倒れ込んでしまったらしい。男の白い素足が見える。唸り声を上げながら起き上がり、目眩を振り払うように首を振った。男を見上げる。悠然とした笑みと共にこちらを見つめる男の瞳には、大きな体躯の狼が映る。滑らかな質感の毛並みは銀色だった。これも自分なのだと悟り、ますます、これは悪夢の一端だと思った。
「ふむ」
と男が意味深に目を細める。
「起こすのが早すぎたな、
その言葉に耳を疑った。
ヒト型と狼型を持ち、変幻自在に姿を変える不死の化け物、
伝説や御伽噺の中にのみ生きる、途方もない存在なのだと思っていた。神話や伝承が数多の自然災害を神の存在に仮託したように、人狼もまた、何かの喩えなのだとばかり思っていた。
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