長い夜勤

山麓シシ

長い夜勤

 アラームをかけていたスマートフォンの振動でまどろみから覚め、高村は舌打ちをしながら体を起こす。夜勤中の仮眠から目覚める瞬間のこの腹立たしさはなんなのだろう。本来もっと眠っていられるはずの時間にわざわざ起きて働かなければならないことへの苛立ちだろうか。多分そうだろう。しかし夜勤の手当がなければ給料は雀の涙に等しい。やらないわけにはいかない。

 硬い簡易ベッドから降り、体を伸ばす。なんだかいつもより気怠い。そんなに深く眠っていなかったはずだが、嫌な夢を見たような気がする。

 

 大きくため息を吐きながら仮眠室を出る。人気のない廊下の冷えた空気で少しだけ頭がしゃっきりするが、別に気持ちはしゃっきりしないので、とぼとぼと自身の勤務する病棟へと戻る。

 高村は病院で介護士をしている。特に大きな志は無く、ただ食いっぱぐれがなさそうだったので介護の専門学校に通い、そうそう潰れることもなさそうだと思ったので地元の割と大きめな病院に入職した。

 昔は夜の病院など想像するだけで恐ろしく感じたものだが、いざ病院で働いてみると忙しさの中にすぐに恐怖など埋もれてしまった。

 

 仮眠室のあるフロアから病棟に戻り、ナースステーションに入るが誰もいない。相方の看護師はまだ見回りから戻っていないか、どこかで患者対応をしているのだろう。休憩中に異変がなかったかの申し送りを聞きたかったので、自身も見回りがてら軽く探そうかとナースステーションを出たところ、不意に廊下の向こうに何かの気配がした気がし、足を止める。目をこらすと、長い廊下の奥に何か動くものがあった。ずるずる、ずるずると、何かを引き摺るような音も聞こえてくる。

 それは段々とこちらへと近付いて来ているようで、初めはぼんやりとした影にしか見えなかったそれが、四つん這いをした人のようなシルエットをしているのがわかる。それがゆっくりと、だが確かにこちらへと這ってきている。

 じっとりと、高村の背中を汗が伝った。拳を強く握る。

 それは高村への接近をやめず、更に距離が近づき、形がはっきりとわかり始めた。

 それは概ね人のような姿をしていた。しかし、細部がおかしかった。頭は大きくひしゃげ、歪んだ顔面にある眼窩の奥はただ暗く、そこに眼球は見えない。歯も舌もない口は大きく開かれ、耳のあたりまで裂けた様はまるで笑みを浮かべているようだった。体は胴のあたりが何重にも捻れ、最終的に仰向けの形になっている下半身が引き摺られている。そんな状態で床を這っている。

 明らかに人間ではなかった。人間だったとしたら、そんな状態で到底動くことはできないだろう。

「はあ……」

 高村はいつの間にか止めていた息を吐いた。人間でないなら別によかった。患者が這って来ているのかと思い肝を冷やした。そうだったとしたら事故報告書を書かなければならなかったかもしれない。自分の不注意で起こしたものなら仕方ないが、関知しようのない事故の報告書など書きたくなかった。

 化け物を無視し見回りを再開しようとしたところ、ナースコールが鳴った。どんどん近づき、ついには高村の腰に抱き着いてきた化け物を拳で殴りながら引き摺り、呼び出して来ている患者のもとへと向かう。たいした用事でなければいいが。


 今向かっている部屋にいるのは誰さんだったか、眠気からか名前が出てこない内に病室につく。仮眠の直後が一番眠いのはいつものことだが、今日は一段と頭が重い。

 眠気を追い払うように頭を振り、同じ病室に眠る他の患者を起こさないようなるべく静かに室内に入る。

「どうされましたかー?」

 呼んできた患者に小声で尋ねると、

「窓に変なもんが……」

 と窓の方を指さす。見ると、目が合った。窓ガラスに浮かんだ、大小無数の眼と。

 月もない夜の暗闇に染まったガラスに浮かぶそれらは、時折ギョロギョロと四方八方に視線を彷徨わせたかと思うとまた高村を見、笑うかのように目を細めた。

 高村はそれらを睨み返しながらカーテンを閉め、患者を振り返る。

「これで見えなくなりましたね!」

 にこやかに声をかけると患者の方もよかったよかったと暗がりで頷いている。カーテンを閉めたことにより更に暗くなった室内ではその表情は伺えないが、恐らく微笑んでいるに違いない。上手く体を動かせない方だから、自分でカーテンを閉めに行けなかったのだろう。

 しかしどうして勝手に開いていたのか。休憩前にはカーテンの開いてる部屋などなかったはずだが。不意に苛立ち、部屋を出たところでまだ腰に取り付いている化け物をまた殴る。化け物は顔を歪め、アアアとガラガラした声で呻く。うるさい。

 そうしている間に、またナースコールが鳴る。今度はトイレからだった。誰か介助の必要な方が入っていたのか。

 

 どれだけ殴っても全く離れない化け物を引き摺りながら、コールのあったトイレのドアをノックするが、返事がない。もう一度ノックをし、やはりなんのリアクションも返って来なかったので、大丈夫ですかーと声をかけながらドアを開ける。車椅子でも入れる広さのその空間は電気がついておらず、真っ暗だった。電灯のスイッチを押すが、明かりはつかない。仕方なくそのまま目を凝らすが、誰の姿も見当たらない。

 誤動作だろうかと思ったところで、天井から何かがぽたぽたと滴っていることに気付く。見上げると、そこには人の頭のようなものが浮かんでいた。青白い肌をした虚な表情のそれは、首から下が切られたように無くなっており、その断面から青黒い液体が垂れてきていた。最初はわからなかったが、よく見ると床には水溜りができていた。

 高村は舌打ちをする。誰がこの床を掃除するんだ?

 ずっと得体の知れない液体でトイレを汚され続けるわけにもいかないので、とりあえず天井の頭を引きずり下ろすために何かないか探しに行こうと踵を返すと、またナースコールが鳴る。

 どうしていつもこう立て続けに鳴るのだろうか。きっとこのコール音で皆起きてしまうのだろう。仕方はないのだが、息つく暇もない。

 

 呼び出しのある部屋に向かいながら、それにしても看護師の姿は全然見えないな、と思う。病棟に戻って来たときは静かだったが、何かトラブルに見舞われているのだろうか。

 そもそも、今日は誰と一緒の夜勤だったか、不思議と思い出せない。

 早足で歩く高村の足首を、 壁から生えた白い手が掴んでくる。腹が立って蹴飛ばすとすぐに離したが、数歩進むと新たに生えてきた手にまたどこかを掴まれる。振り払う。それを何度か繰り返している内に、壁には夥しい量の手首が並んでいた。進む先にも生えているそれは、おいでおいでと手招きするように揺らめいていた。不意に腰の化け物が一段と低く呻く。目線を下にやると、さっき窓に張り付いていた目たちがいつの間にか高村を囲むように周りの床に張り付いていた。また化け物が唸る。いや、その声はどこか離れた位置から聞こえてきた。ずるずると、暗がりから音が聞こえる。ぴちゃぴちゃと水が跳ねるような音も微かにする。被さるように鳴り響くナースコール。それを鳴らす名前の思い出せない患者の部屋にはまだつかない。そもそも何号室に向かっていただろうか。この音は、どこから聞こえる。暗くて何もわからない。

 この廊下は、こんなに長かっただろうか。



 アラームをかけていたスマートフォンの振動でまどろみから覚め、高村は舌打ちをしながら体を起こす。夜勤中の仮眠から目覚める瞬間のこの腹立たしさはなんなのだろう。本来もっと眠っていられるはずの時間にわざわざ起きて働かなければならないことへの苛立ちだろうか。多分そうだろう。しかし夜勤の手当がなければ給料は雀の涙に等しい。やらないわけにはいかない。

 硬い簡易ベッドから降り、体を伸ばす。なんだかいつもより気怠い。そんなに深く眠っていなかったはずだが、嫌な夢を見たような気がする。

 高村は、大きくため息を吐きながら仮眠室の扉を開け、暗い廊下へと踏み出す。


 どこかから、何かを引き摺るような音がした。

 



 

 眩しい日が窓から院内に差し込み、病院は朝の喧騒に包まれていた。

 少し眠そうな顔をしながら出勤してきた職員が、朝食を食べ終わった患者の膳を下げている介護士に声をかける。

「おはようございますー。鍵田さん夜勤明けなんですね、昨日何かありました?」

「おはよう。静かな夜勤だったよぉ。ってか最近ずっと静かだよね」

 鍵田と呼ばれた職員はにこにこしながら答える。

「いいことじゃないですか。……そういえば、まだ高村さんって連絡ないんですか?」

「無いみたい。どうしちゃったんだろうね、こないだの夜勤中にいなくなって、家にも帰ってないんでしょ。やだねえ、なんか事件に巻き込まれてんのかね」

 心配だねえ、と言いながらもせかせかと鍵田は夜勤の仕事を片付けるべく動き回る。一晩働いて体も疲れているはずだがもうすぐ退勤の時間だと思うとその足取りは軽い。

 



 スマートフォンのアラームの振動で目を覚ました高村は気怠い体を起こす。なんだか嫌な夢を見た気がする。ここ最近ずっと嫌な夢を見ている気がする。

 ため息を吐きながら暗い廊下を歩き、病棟へと戻る。

 高村の夜勤は終わらない。


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