第16話 嫌な記憶
とっさに人影に隠れ、メリナから見えないように俯く。
そしてそのまま、馬車が過ぎ去るのを待った。
どくん、どくんと心臓がうるさい。
「テレンス? おい、急にどうしたんだ?」
フランクに名前を呼ばれても顔を上げられない。しばらく経って、馬車が通り過ぎたのを確信してから、テレサはゆっくりと顔を上げた。
「お前、酷い顔だぞ。何かあったのか?」
「いえ、もう大丈夫です」
王都にいれば、バウマン家の馬車を見かける機会も、メリナを見かける機会もあるだろう。そのたびにこれほど動揺するわけにはいかない。
そう分かっているのに、心臓はいつもの調子を取り戻してくれない。
お母さんは死んだ。もう、私がバウマン家に従う理由なんて一つもない。だから、気にする必要なんてないのに。
たとえ今バウマン家に連れ戻されそうになったって、言うことを聞く必要はない。何を言われても、殴って逃げ出したっていい。
分かっているのに、虐げられた記憶は頭の中にこびりついているのだ。
「さっきの馬車、バウマン公爵家のものだろう。お前、もしかしてなにかバウマン家と縁が……」
「やめてください!」
とっさに大きい声が出てしまった。
「すいません。ただ、その……」
違うんです、とも、なんでもないんです、とも言えず、テレサは黙ってしまった。
上手く嘘がつけないのは動揺しているからだろうか。それとも、フランクと過ごした時間のせいだろうか。
「ちょっと気分が悪くなった、それだけなんです」
「そうか」
フランクはそう言って頷いた。そして、それ以上は何も聞いてこない。
「なら、今日はもう帰って休むか?」
「……はい」
並んで歩く。沈黙が気まずくてなにか話したいのに、口にすべき話題が分からない。
バウマン家の馬車を見て顔色を変えたテレサを、フランクはどう思ったのだろう。
「あの」
「なんだ?」
「バウマン家の娘……メリナのこと、御存知ですか?」
「まあな。王都で知らない奴はいないだろう。なにせ、聖女様だ」
どうしてメリナのことをわざわざ聞いたのか、自分でも上手く説明できない。バウマン家との繋がりを悟られたくないのなら、彼女の話なんてしない方がいいだろうに。
「だが、詳しくは知らない。俺みたいな下級貴族は、バウマン家の人間に会ったことなんてないからな。彼女が治せるという石化病だって、俺はこの目で見たこともない」
石化病。聖女であるメリナだけが治療できる奇病だ。
石化病とは名前の通り、身体が石化する病である。まずは手足が石化し、徐々に身体全体が石化していく……というものだ。
しかし、発症例は極めて少ない。今まで発症したのは王族や上級貴族の一部だけで、全員が発症当日にメリナの治療を受けて回復している。
そのため、下級貴族や平民は石化病を詳しくは知らない。
「確か、最近姉を失って悲しんでいるという話だったな。姉についての話はほとんど聞いたことがないが」
テレサが怪力の異能持ちだという話は、バウマン家の人間しか知らない。野蛮な能力を持つ娘を恥だと思ったのだろうし、縁談話に響くとも考えたのだろう。
貞淑な妻が理想とされる貴族社会において、怪力持ちの娘が歓迎されるはずがない。
「とても、美しい人です」
メリナのことは大嫌いだが、彼女の美しさは理解している。
きっと、フランク様がくれたピアスだって、私よりもずっと似合うはずだわ。
そんなことを考えてしまい、自分が嫌になる。どうしてこんなに卑屈な気持ちにならなければならないのだろう。
それに私、フランク様に何を期待しているの?
事情も伝えずにメリナの話をして、あの子を否定してくれるわけないのに。
「そうらしいな。実際に見たことはないが。ただ……」
フランクはいきなりテレサの頬を両手で挟んだ。そして、ぐいっと顔を近づけてくる。
「世界一の美人の前で、他人を褒めるのはどうかと思うぞ」
「……世界一の美人って」
「もちろん俺だ」
自信たっぷりに答え、フランクはにっこりと笑った。
「落ち込むことがあったら、俺の顔を見るといい。美しいものを見ると元気が出ると言うからな」
「それ、自分で言っちゃうんですか」
「お前が言うのを待っていたら日が暮れる」
待たれたってたぶん言いませんよ、とは口にしない。
「なんか、ちょっと元気出たかもしれません」
「美しい俺のおかげだな」
フランク様の美貌のおかげかは分からないけれど、確実にこの人のおかげではあるわね。
テレサの中には嫌な記憶がたくさんあって、きっとこれからも、日常のいろんな場面でそれを思い出してしまう。
けれどそんな時、フランクの顔を思い出せば、少しは明るい気持ちになれる気がした。
「ありがとうございます、フランク様」
この人といれば、私はいつか、嫌な記憶を完全に過去のものにできる気がするわ。
忘れることは一生ないだろう。でも、こうして思い出して気持ちが沈むことはなくなると思う。
そう思えただけで、一歩前に進めた気がした。
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