第2話 失踪の始まりは自殺偽装
部屋に戻り、持っていくべき荷物を鞄に詰める。
といっても、たいして持っていく物なんてない。
「……これくらい?」
机の引き出しから小瓶を取り出す。以前、母親からもらった香水だ。
母が大好きだった故郷の花畑をモチーフにした香水だという。
もったいなくて、一回しか使っていない。たまに、蓋を開けて匂いを嗅いでいた。
香水をつけて出かけるような機会なんてなかったし。
パーティーで忙しいメリナと違い、テレサはいつも家にいた。当然着飾るような機会はなく、香水をつけようとは思わなかったのだ。
割れないように、ハンカチにくるんで鞄の中へ入れる。
「これで、もうここは出られるけれど」
持っていく物もたいしてないし、別れを告げるような相手もいない。
母が死んでしまった今、バウマン家には何の未練もないのだ。
「きっと探されるわよね」
婚約話が決まっているのだ。どうにかしてテレサを見つけ出し、50過ぎの男に嫁がせようとするに違いない。
「それなら……」
◆
日が昇る前に、こっそりと屋敷を抜け出した。
かなり早い時間だが、街はそれなりに賑わっている。早起きした人が多いのではなく、今から家へ帰る人が多いだけだろうが。
もう少しすれば、洋服屋も開くはずだ。そこで変装用の服を買った後、街はずれの湖へ行く。
そして、入水自殺をしたように見せかけるのだ。
部屋に遺書は残してきた。
虐げられていた女が、最愛の母親が死んだことを嘆いて自殺する。
違和感のない話だろう。
ベンチに座り、ぼんやりと空を見上げる。
こんなに太陽を待ち望んだのは、いつぶりだろう。
◆
開店直後の洋服屋で、ぼろ布のような男物の服を買う。
試着室で着替えさせてもらい、着ていた服はその場で捨てた。
そして次に靴屋で男物の靴を買って履き替え、テレサは足早に湖へ向かった。
「……ついたわ」
湖は澄んでいて、覗き込むと鏡のようにテレサの顔を映した。
昨晩は一睡もしていないからか、目の下には濃いクマができている。
「私はここで死ぬのよ」
鞄から先程脱いだ女物の靴を取り出し、そっと地面に置く。
この靴を見つければ、テレサが入水自殺をしたと思ってくれるはずだ。
というか、そう願うしかない。これが、テレサにできる精一杯なのだから。
「そうだ」
軽くなった鞄から、ハサミを取り出す。
なにかに使えるかもしれない、とペンと共に鞄に突っ込んだものだ。
すう、と大きく息を吸い込む。鏡に映る自分を見つめ、テレサは力強く頷いた。
「今ここで、私は一度死ぬ。そして、生まれ変わるのよ」
もう、虐げられても黙って耐えるだけの人生は終わりだ。
これからは母が望んでくれたように、自由に生きる。
ハサミで、テレサは腰まで伸びていた髪をばっさりと切った。
そして、切った髪を湖の中へ落とす。
頭がかなり軽くなった。
「これで、男に見えるんじゃないかしら……いや、男に見えるはずだ」
元々、声は低い方だ。身長も高いし、身体つきも女らしくない。
口調や振る舞いに気をつければ、女だとバレることはないだろう。
女の姿のまま生活すれば、バウマン家の人間に見つかってしまうかもしれない。
それに、女一人で動きまわるより、男のふりをしていた方が安全だ。
まあ、私がそのへんの男に負けるはずはないんだけど、一応ね。
男に絡まれたとしても、殴れば勝てる。そう言いきれる自信がテレサにはある。
しかし、国王の許可なく異能を使用することは原則、禁じられているのだ。
身を守るために怪力を使えば、後々面倒なことになるかもしれない。
「よし、たった今から私……僕は、テレサじゃなくテレンスだ」
湖面に映る自分に言い聞かせる。
母が死んでから、初めて笑うことができた。
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