第2話 失踪の始まりは自殺偽装

 部屋に戻り、持っていくべき荷物を鞄に詰める。

 といっても、たいして持っていく物なんてない。


「……これくらい?」


 机の引き出しから小瓶を取り出す。以前、母親からもらった香水だ。

 母が大好きだった故郷の花畑をモチーフにした香水だという。


 もったいなくて、一回しか使っていない。たまに、蓋を開けて匂いを嗅いでいた。


 香水をつけて出かけるような機会なんてなかったし。


 パーティーで忙しいメリナと違い、テレサはいつも家にいた。当然着飾るような機会はなく、香水をつけようとは思わなかったのだ。


 割れないように、ハンカチにくるんで鞄の中へ入れる。


「これで、もうここは出られるけれど」


 持っていく物もたいしてないし、別れを告げるような相手もいない。

 母が死んでしまった今、バウマン家には何の未練もないのだ。


「きっと探されるわよね」


 婚約話が決まっているのだ。どうにかしてテレサを見つけ出し、50過ぎの男に嫁がせようとするに違いない。


「それなら……」





 日が昇る前に、こっそりと屋敷を抜け出した。

 かなり早い時間だが、街はそれなりに賑わっている。早起きした人が多いのではなく、今から家へ帰る人が多いだけだろうが。


 もう少しすれば、洋服屋も開くはずだ。そこで変装用の服を買った後、街はずれの湖へ行く。

 そして、入水自殺をしたように見せかけるのだ。


 部屋に遺書は残してきた。


 虐げられていた女が、最愛の母親が死んだことを嘆いて自殺する。

 違和感のない話だろう。


 ベンチに座り、ぼんやりと空を見上げる。

 こんなに太陽を待ち望んだのは、いつぶりだろう。





 開店直後の洋服屋で、ぼろ布のような男物の服を買う。

 試着室で着替えさせてもらい、着ていた服はその場で捨てた。


 そして次に靴屋で男物の靴を買って履き替え、テレサは足早に湖へ向かった。


「……ついたわ」


 湖は澄んでいて、覗き込むと鏡のようにテレサの顔を映した。

 昨晩は一睡もしていないからか、目の下には濃いクマができている。


「私はここで死ぬのよ」


 鞄から先程脱いだ女物の靴を取り出し、そっと地面に置く。

 この靴を見つければ、テレサが入水自殺をしたと思ってくれるはずだ。


 というか、そう願うしかない。これが、テレサにできる精一杯なのだから。


「そうだ」


 軽くなった鞄から、ハサミを取り出す。

 なにかに使えるかもしれない、とペンと共に鞄に突っ込んだものだ。


 すう、と大きく息を吸い込む。鏡に映る自分を見つめ、テレサは力強く頷いた。


「今ここで、私は一度死ぬ。そして、生まれ変わるのよ」


 もう、虐げられても黙って耐えるだけの人生は終わりだ。

 これからは母が望んでくれたように、自由に生きる。


 ハサミで、テレサは腰まで伸びていた髪をばっさりと切った。

 そして、切った髪を湖の中へ落とす。


 頭がかなり軽くなった。


「これで、男に見えるんじゃないかしら……いや、男に見えるはずだ」


 元々、声は低い方だ。身長も高いし、身体つきも女らしくない。

 口調や振る舞いに気をつければ、女だとバレることはないだろう。


 女の姿のまま生活すれば、バウマン家の人間に見つかってしまうかもしれない。

 それに、女一人で動きまわるより、男のふりをしていた方が安全だ。


 まあ、私がそのへんの男に負けるはずはないんだけど、一応ね。


 男に絡まれたとしても、殴れば勝てる。そう言いきれる自信がテレサにはある。

 しかし、国王の許可なく異能を使用することは原則、禁じられているのだ。

 身を守るために怪力を使えば、後々面倒なことになるかもしれない。


「よし、たった今から私……僕は、テレサじゃなくテレンスだ」


 湖面に映る自分に言い聞かせる。

 母が死んでから、初めて笑うことができた。

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