燻る <裏>


「まさかあの井坂さんが結婚するとは思わなかったよねぇ」

「うんうん。だって井坂さんっていかにも仕事命って感じだったもの」

 化粧品をあける音が響く。

「やっぱり女30も超えると焦るんじゃない? それこそあの井坂さんといえどもね」

「んで、手近なところで高木さん?」

「同期だし。同じ大学出身だし。付き合い長いし? ってな感じ?」

「その上略奪愛だもんね」

「はぁ? 略奪愛? え? うそでしょ?」

「ほんと。あたしの彼って高木さんの後輩でさ。有名な話らしいよ。高木さんの元カノと井坂さんって親友で、その親友から奪ったって」

「うそぉ。それは、ちょっとなぁ」

「しかも。どうやら井坂さんって高木さんを追ってこの会社に入社したらしくてさ。そのころから狙っていたんじゃない? 仕事が忙しくて彼女と会う暇がなくても、一緒の会社だったらいくらでも機会があるわけだし」

「うひゃー。さいてー。親友の彼ってのはちょっとなぁ」

「でしょー」

「でもまあ井坂さんならやりかねないわよね。なんか計算高そうだもの」

「うんうん」

「仕事である程度成功して、グレード高い男を捕まえて、今度は悠々自適の専業主婦かぁ。……さすがだわ。計算しているよね、完全に。勝ち組ってヤツ?」

「まぁある意味ではそうともいえるかなぁ──やだ、もう式始まっちゃうよ! 着席していないとだめだってば!」

 化粧品を片付ける音とともに、走り去る足音が響いていく。



「いつから私と美和は親友になったのかしら」

 あたしのとなりで愛佳は大きく煙を吸い、そのまま吐き出した。

「さぁ……。あたしは一度として親友だなんて思ったことはないけれど」

 それに呼応するかのようにあたしも大きく煙を吸い込んだ。

 久々に肺に入れた煙はとても沁みて、咳き込みそうになるのを何とかこらえた。


 そうね。親友どころか友人でもないわと愛佳は言い切る。


 そう。あたしと愛佳が親友であったことなど一度もない。あたしと愛佳は犬猿の仲、まさに水と油。


 あたしたちは化粧室のすぐ向かい側、中庭に続くこじんまりとした喫煙所で並んで煙草を燻らせていた。

 この喫煙所は施設の中でも一番端に位置し、式に参加する人間がここに来ることはないと踏んでのことだった。

 さすがにウェディングドレスを着て堂々と中央の喫煙所で煙草をふかすわけには行かない。

 まさかこんなところで自分の噂話を聞くことになるとは思わなかったけれど。


「ちゃんと訂正しておきなさいよね。あれ、あんたの後輩でしょ。というより、こういうところで不用意に、しかもあんな大声で噂話をしちゃうあたり、教育なってないわよ」


「もう後輩じゃないわ」


 だってあたしは一ヶ月前に寿退社しているわけだし。


 あたしのそっけない物言いにも愛佳は大して不快に思っているふうでもなく、ゆっくりと煙草の煙に視線と向けている。


 ガラスに映るあたしと愛佳は実に対照的だった。

 きれいに着飾った花嫁姿のあたしと、化粧っ気のない、明らかに仕事然とした格好をした愛佳。


 数年前まではまるきり逆の様相を示していた。


 いかにも女性らしいフェミニンな格好をして、華やかに装っていたのは愛佳のほうで、年がら年中煙草を離すことなく仕事に勤しんでいたのはあたしのほうだ。


 おそらく愛佳も、随分変わったなと思っているだろう。


 愛佳も、あたしが知っている愛佳ではなかった。


 あたしの知っている愛佳は、明るくて、常におひさまの下で笑っているような、そう、男が自然と惹かれて放っておけないようなそんな女だった。


 それがいまじゃどう? 


 かつての愛佳はもういない。


 愛佳と直に会うことはなかったけれど、大学の友人からはだいぶ変わったとは聞いていた。

 献身的に雅行を支えていた愛佳が雅行と別れ、西の方へと異動したと聞いて驚いたことを覚えている。

 あれだけ理想のカップルと言われていたあの二人がと、大学の仲間は信じられない気持ちいたに違いない。


 当の雅行は打ちひしがれていた。


 そんな雅行にあたしは同情した。


 仕事は相変わらず忙しかったけれど、それでも調整して何とか雅行といられる時間を増やした。

 煙草も、そのにおいをかぐたびに愛佳との日々を思い出すのか、やたらと辛そうな顔をするのでやめた。


 その煙草をあたしは愛佳を前にして口にしていた。


「で? わざわざ呼び出したのはなぜ?」


 煙草がだいぶ短くなったところで愛佳のほうから話を切り出してきた。


 式には呼ばなかった。


 大学の友人は本当に親しい限られた人間だけを呼んでいる。

 その中に愛佳は入っていない。


 それなのに、こっそりわざわざ呼び出した理由。


 それは。


 あたしは口ごもり、景気づけに盛大に煙草の煙を吸い込んだ。

 何か勢いをつけなければ言葉が出ないような気がしたのだ。


 再びむせ返りそうになったものの身体を曲げて何とか咳だけはこらえた。


 そのまま目を伏せつつ口を開く。


「あたしは幸せだって、見せつけたかったの。……っていったら?」


 あたしは今一番できる限りの意地の悪い笑みを浮かべてみせた。

 自分でもわかるほどのいやらしい笑み。


 愛佳は答えない。


 視線はまっすぐ前だけに向けられている。


 侮蔑の表情を浮かべるわけでもなく、同情するわけでも不快感をあらわにするでもない。


 ただ、煙草を吸ってそこにいる。


 あたしは自分が予想していなかった愛佳の態度に徐々に苛立ちを感じ始めていた。


「それとも何? どうせ雅行は捨てた男だから関係ない?」


 あたしの挑戦的な態度にも愛佳は動じない。

 しばらく煙草を吸い、だいぶ短くなったところで煙草の火を消しつつ言った。


「違うでしょう?」


 愛佳の声はとても淡々としていた。

 事実をありのままに述べているだけの、それ。


「あんたは、自分の幸せを見せつけたいわけじゃない」


 その言葉にあたしは弾かれたように顔を上げた。


 先ほどまで全く視線を交わすことのなかった愛佳が、真っ直ぐあたしを見つめていた。

 その視線はとても痛くて、そして同時に救いだった。


「ただ、誰かに知ってほしかっただけでしょう」


 不覚にも、泣きそうになった。


 弘田愛佳はこの世で一番の天敵で、そして同時にこの世で一番のあたしの理解者だった。

 お互い天敵と認め合っているのに、あたしたちは互いの心を理解することに関して長けていた。


 会社を辞めて、海外赴任となる雅行についていくと決意したことは、後悔していない。

 よく考えた。

 仕事を愛していた。

 でも雅行のことも愛していた。

 だからこそ、あたしは悩んで悩んで、そして結論を下したのだ。


 仕事を辞めて雅行についていくと。


 雅行は喜んでくれた。周囲も祝福してくれた。

 時に先ほどのように、影で繰り広げられる嫌味も聞き及んでいたけれど、概ね周囲の言葉は好意的なのものだった。


 幸せな結婚。理想的な人生設計。


 確かに傍から見たらそう見えるのかもしれない。

 でもあたしは納得がいかなかった。


 皆が言う。


 幸せで、パーフェクトな結婚。


 そういわれるたびに心が軋む。


 そんなに簡単に言わないで。

 あたしはそんなに簡単にこの決断を下したわけじゃない。

 あたしは仕事を愛していた。

 とても、愛していた。

 自分が立ち上げたプロジェクトも、チームも、新たに作り上げた海外事業部の土台も、何もかも。

 あたしが作り上げたという自負と、そして愛着とがあったのに、それを手放す決断をしたあたしの苦悩を簡単に片付けないでほしい。


 簡単なことではなかった。

 簡単ではなかったと、苦しんだんだと、誰かに知ってほしかった。


 でも誰もわかってはくれなかった。


 友人は勿論、社内の誰も、雅行でさえも、あたしの苦悩をわかってくれなかった。

 自分の心の中だけにとどめておけばいい感情だったのかもしれない。

 でも苦しくて。悲しくて。どうしたらいいのかわからなかったのだ。


 だから、自分勝手だとは思っても愛佳を呼ばずに入られなかった。


 この世で一番嫌いな、でも、一番の理解者を。


 そして見事に愛佳はたった一言であたしの気持ちを代弁する。



「高木さまー。高木様、いらっしゃいますかー?」


 あたしたちの間に訪れていた沈黙は、あたしを探す声によって破られる。


「呼んでる」

「そうね」


 それでもあたしはその場から動けずにいた。

 建物の中ではあたしを探す、ちょっと焦っているような声が響いている。


 なかなか立ち上がらないあたしを促すように、愛佳はひょいとあたしの口元から煙草を奪った。


 それをそのまま咥え、軽く煙を吐く。


「行きなさいよ。主役がいなきゃ始まらない」


 そう愛佳に促されてあたしはようやく立ち上がった。

 白いドレスがするりと膝から滑り落ちる。


 行かなきゃ。


 シワを整えて、数歩進み、それから振り返った。


 愛佳は変わらず、あたしを見つめていた。


 何も言わず黙って。


 それでも紫煙のむこうから愛佳の目が雄弁に語る。


 あたしは知っている。

 あんたの苦悩も、悲しみも、愛も、何もかも。だから。


 だから。




 幸せになりなさい、と。


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燻る 古邑岡早紀 @kohrindoh

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