燻る
古邑岡早紀
燻る <表>
左手で煙草を弄び、テーブルを軽く2回ノックする。
それから右手でライターを手にし、煙草を咥えようとして、そこでいつも手が止まる。
こんなことを繰り返して、俺は結局八年煙草を口にしていない。
人はそれを禁煙が成功しているとみるらしい。
感心され、禁煙のコツは? 辛くないの? そう突っ込まれるたびに俺はあいまいに笑って適当にごまかす。
そう。もう八年も煙草を咥えていない。
「身体壊しちゃうわよ」
本気でそういっていたのか、いや、最後のほうはほとんど惰性で忠告していたんじゃないかと思うくらい、あいつはその台詞をよく呟いていた。
「あー、うん」
「禁煙するんじゃなかったの?」
「まぁ、そのうち」
そして俺も適当な返答が癖になっていて、そう忠告されている間も視線を愛佳に向けることはなかった。
当時はかなりのヘビースモーカーで、どんなときにも煙草を離すことはなかったように思う。
愛佳はそんな俺を心配してたびたび忠告し、気を使っていた。
八年たってあいつを思い浮かべるときに、一番に浮かぶのは『身体壊しちゃうわよ』の台詞と、そのときの声音ぐらいだ。
あいつの顔だって、姿だって、匂いだって、それこそ抱き心地だっていまだに覚えている。
でも、あいつがどんな表情をして俺を見ていたのか、そういったことは思い出せない。
どんな顔をして、どんな感情を浮かべて俺を見ていたのか。
そのことを考えるととても苦しくなる。
あのころの俺はようやく仕事を覚えて、仕事の全体像を見ることができるようになり、面白い時期にさしかかっていた。仕事が俺の生活の全てだった。
だから愛佳の気持ちの変化や、不安な様子に全く気がつくことはなかった。
愛佳のことは愛しかった。
あいつの明るさにどれだけ救われていたのか、俺はあいつを失って初めて気がついた。
うざいと思っていたあいつの心配する言葉も、すりよる体のぬくもりも、失くしてしまって初めて大切さに気がついた。
「身体、壊しちゃうよ」
あの夜も愛佳はそう言った。
そして俺はまた生返事をした。
自宅に戻ってきてもメールのチェックで忙しく、愛佳の顔を見ることなく適当に返事をした。
実はそれからのことをあまり覚えていない。
というより、仕事に夢中で周囲に目がいっていなかったのだ。
辺りの様子がいつもと違うと気がついたのは、手元にあったはずの煙草の箱がなかったからだった。
先ほどあけたばかりなのに。
そう思って顔を上げるとカートンごと無くなっていた。
ついでに愛佳もいなくなっていた。
何気に辺りを見回して、それからようやくキッチンが煙いことに気がついた。
まさか。
キッチンでは煙草の吸殻を前に、咥え煙草でたっている愛佳がいた。
カートンで封も切っていなかった煙草は全て火をつけてつぶされて、そのうえ封の切っていた煙草は既に吸われて灰皿一杯になっていた。
残っていたのは煙草の空箱と、愛佳の口元の煙草のみ。
「愛佳」
さすがに普通の状態じゃないと思った。
愛佳は煙草を全く吸えない。一度面白半分で挑戦してみたものの、咳き込んで大変な思いをしていたことを覚えている。
その愛佳が煙草なんて。
愛佳は唖然としている俺を前に口角を持ちあげた。
でも目だけは決して笑っておらず、その様に今自分が何か大きな間違いをしでかしたのだと頭をめぐらした。
「別にいいよね。だって禁煙するんでしょ?」
咥えていた煙草を灰皿に押し付ける。
咳き込みはしていなかったが、その目は涙目で、煙が目に染みているのか、はたまた喉がつらいのかわからない。
「あれ? 仕事が忙しくて私と約束したこと、忘れちゃった?」
涙目のままくすくすと忍び笑いをして近づいてくる。
「ああ、もしかしてそんな約束をしたことも覚えていない? 遊びに行こうといったことも、もしかしたら私、異動かも知れないっていったことも、全部聞き流しちゃった?」
「いや。そんなことは」
ちゃんと覚えている。禁煙しようと約束したこと。温泉にゆっくりしに行こうと言ったこと。もしかしたら異動があるかもしれないこと。
ちゃんと聞いている。聞き流しているなんてことはない。
そういおうとしたのに、愛佳はそれを制した。
「ええわかってる。ちゃんと聞いているのよね。聞いている。でもそれは聞いているだけで、心には何も残っていないのよね」
愛佳はちょっと咳き込み、煙が目に沁みるのか涙目になっていた。
いや、それは本当に煙のせいか?
「聞いてくれている。こうして会ってくれている。返事もしてくれている。でも私はいつも独りだったわ」
わからなかった。何が不服なのか。愛佳が何に怒り、そして憂いでいるのか。
愛佳は呼吸を整えて、それから俺の唇に軽くキスをしてきた。
口元に広がる煙草の味。
肺に煙を入れることはできなくても、あれだけの本数を口に含んだならばそりゃあ煙草のかおりが口いっぱいに広がっているだろう。
そのおこぼれを俺はもらった形となった。
舌先に煙草の味が沁みていく。
いつもは自分の気持ちを整え、胸に染み渡るその味が、妙な苦味となって俺に下りてくる。
「身体壊すわよ」
「あ、ああ」
「禁煙、するんでしょう?」
「ああ──。愛佳」
呼び止める俺の言葉はしっかりと遮り、そして続ける。
「そう。じゃあこれで最後にしよう」
これで最後。
それが煙草のことだけではなく、俺たちの関係のことも含んでのことだと気がついたのは少し経ってからだった。
いや。俺は気がついていた。
愛佳が別れを選んだ理由を。
どうして『ずっと独りだった』なんていいだしたのかを。
そうだ。俺はずっと愛佳を独りにしていた。
会う時間を工面し、一緒に食事をし、一夜をともにすればそれでいいだろうと適当にあしらっていた。
愛佳が欲しがっていたものはそんなものではなかったのに。
愛佳は自分を見て欲しかったのだ。どんな短い時間でも、愛佳自身ときちんと向き合う俺を欲しがっていた。
そのことに気がついていながら、気がつかない振りをしていた。
あの日を最後に愛佳とは会っていない。
大学の友人から、その後すぐに愛佳が大阪に転勤になったと聞いた。
本当はきちんと謝りたかった。
どうしようかと逡巡し、一度だけ携帯を鳴らした。
でもその後に俺には彼女に言い訳をする資格はないことに気がついて、その一度きりでやめた。
愛佳から連絡はなかった。
「お時間です」
ドアが開くのと同時に俺は我に返った。
人生一度の晴れの舞台に一番苦い思い出を思い返すなんて。
俺は真っ白な袖口を少し直して促されるまま足を運ぶ。
これから式が始まる。
今日はまだ花嫁の姿を見ていない。新婦のドレス姿は事前に見てはいけないそうだ。
その辺りを必死に言い募る美和の顔が思い浮かぶ。
あたしは幸せになりたいの。迷信だと言われればそれまでだけど、そこはきっちり守って頂戴。絶対に、見ないでよ。
そういった美和の姿は、何人もの部下を抱えてつっぱしっていた営業部のトップとは思えないくらいかわいらしかった。
思わず笑ったときだった。
眼の端に映ったものが俺の気を引いた。
反射的に振り返り、その姿を追う。
──愛佳?
庭をゆったりと歩いていく後姿。
無造作に伸ばしたストレートの髪を左手でかき揚げ、それからゆっくりと紫煙に包まれていく。
あれは。
その姿はこちらに向かってくる人込みにまぎれてしまい、あっという間に見失ってしまった。
愛佳?
いや。
煙草を咥え、深く紫煙を吐く姿は到底愛佳とは思えない。
こんなときまで愛佳のことを思い出すか、俺は。
これから俺の隣に立つのは愛佳ではないというのに。
愛佳のことは今でも後悔している。申し訳なく思っている。
あのときもっと大切にしてやれなかったのかとそればかり思う。
だからこそ。
そう。だからこそ今俺の隣に立つはずの女性を大切にしようと思う。
俺はいまだ持ったままの煙草をそっとポケットに忍ばせた。
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