第2話

 暑い。


 七月の狭い倉庫に籠っているのだから、相応に熱も籠る。ポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認する。結構時間が経ったつもりだったけれど、四時間目の終わりはまだまだ遠かった。


 もぞもぞと電話をポケットにしまうべく身体を揺らす。本当は腕時計を確認できれば幾分楽なのだけど、こうも暗いと必死に目を凝らさなければ、小さな時計の針は見えない。その労力を考えると、おのずと携帯電話を頼るようになる。


「自分で光ってくれるのは大変に助かるなぁ」


 馬鹿なことを言っていると自分でも思う。


 ギィィ…ギィィィ……


 背中の重心を変える度に、壁がきしむような音をあげる。そこそこ大きな音で。


 こんなに音をあげては誰かに見つかってしまう。


 などと言葉を脳内に連ねるも、そんなことありっこない事はわかっていた。


 体育館の側に新しい体育倉庫が造られてから、この古くて辺鄙な場所に建てられた倉庫には誰も訪れることはなくなっていた。だからここで授業をサボり始めてから一ヶ月、誰にも見つかったことはないのだ。


 まぁこんな場所、好き好んで訪れる人などいないだろうしと、自分のことは棚に上げる。


 だから、倉庫の壁がこうしてきしむ音をあげるのは、誰かに見つけてほしいという叫びなのかもしれない。いや音を立てているのは僕なのだけれど。


 蝉の鳴き声が一層うるさく耳を叩く。倉庫の壁にでも引っ付いたのだろうか。


 激しく震える夏の空気に煽られるようにヨロヨロと立ち上がる。ひとまず外に出よう。さすがにこのままでは溶けてしまう。


 鞄を掴み、ガラガラと立て付けの悪い引き戸を滑らせるた途端、数時間ぶりの光が身を包んだ。桶でもひっくり返したかのようなその光に眉を細めながらも外に出る。誰かに見つかった時の事は、その時考える事にしよう。


 思わず俯いた先では、蟻がせっせと餌を運んでいるところだった。右足の前にいた蟻は、数秒待ってようやく左足を通過する。僕が数歩歩くだけでたどり着く場所も、蟻さんたちにとっては途方もない距離だ。頑張ってるんだなぁ、蟻も。僕は頑張っていないけれど。


 教師に見つからぬようコソコソと歩みを進める。生徒が校内でコソコソしなければいけない状況がまずおかしいのだけれど。


 目の前に広がる雑木林を一歩一歩音を殺しながら歩く。生い茂る草木は払っても払っても行く手を阻んできて、今歩いているのが道かどうかも怪しい。こんな場所を通らないと旧体育倉庫には辿り着かないのだから、そりゃ誰も来なくなる訳だ。


 茂みを抜けた頃には光の強さにも慣れてきて、普通に前を向いて歩けるようになっていた。教員用の駐車場を通り過ぎると、校舎も見えてくる。


 木の遮りがなくなり、日光が直接当たるようになった事に気づき、影を求めて隅の石段に腰をかける。


 ふぅ、と一息つき、校舎の方を一瞥する。こうして見上げると、そこはただのコンクリートの塊で、真夏にもかかわらずどこか冷たさすら感じた。そんな塊の中でも、授業は行われている。僕も普通ならあそこにいるのだ。


「………………」


 僕は自分だけ他と違う場所にいる事に優越感を得るタイプではないのだなと、そこで実感する。


 じゃあなんで一人で授業をサボって体育倉庫に篭っているのか。


 ボーっと校舎を眺める。


 一度光を受け入れた目には、学校のあらゆる彩りが映っていた。花壇に植えられた赤や黄色の花、生い茂る緑の草木、地面の茶色さえ美しく見える。空も高く澄んで、古びた体育倉庫とは雲泥の差だ。


 色とりどりの校舎と、灰色の体育倉庫。僕に似合うのはどちらだろう。答えなどわかっているけれど。


 おかしな事を考えているなと自覚しながら、そんな思考を紛らわす為に空を仰ぐ。上を向くと、夏の熱い日差しが真正面からぶつかってくるようだった。なんだか落ち着かない。


 青く染まった空には、白い雲がモクモクと聳える。


「入道雲……だったかな?」


 確かそんな名前のやつ。こうして見ると本当に綿飴みたいだ。


 手を伸ばせば届きそう。


 思わず立ち上がり、右腕が伸びる。空に釣り上げられるように上がるその腕は、まるで羽でも生えたかのように軽く……


「いや、ないな……」


 このまま何処までも伸びていきそうなそれを意識して目が捉えた瞬間、何かが僕にブレーキをかける。そんな事できっこないとわかっているからだ。折れ曲がった肘をダランと落とす。


 できないことはしない。当然だ。


 僕はこの十数年生きてきて、学んだ事が二つある。


 一つは、自分は一人のちっぽけで弱い人間でしかないという事。


 二つ目に、不可能だと確定した事に執着し続けるのは馬鹿げているという事。


 この程度のことなら、十五歳の僕にも簡単に理解できるし、納得もできる。夢を追う事には向かない心得だとは思うけれど、これからもっと大人になるにつれ、そう言ったものはどんどん冷えていくだろう。そう考えると、早いうちに気づけてよかったとも思う。


 だから、届かないとわかっている空には手を伸ばせない。


 でも、僕はそれでいい。


「それでいーんだよー」


 変な歌が口から飛び出る。今日はもう帰ろうかな……疲れてるのかもしれない。


 授業を受けていないのに疲れているとはどういう事か。


 周囲に気を配りながら踵を返し、校門へと足を向ける。


 その刹那。


「あ、雪月ゆづき!」


 後方から響いた姦しい声に思わずビクりと肩が弾んだ。声量もだけど、突然自分の名前を聞くのも心臓によろしくない。何事かと狼狽してしまう。とはいえ、その声の主が誰なのかは、もう分っているのだけど。


陽花ひばな……」


 振り返り、嬉しそうにこちらへ駆けてくる少女の顔を確認するが早いか、彼女の名前が口からこぼれる。陽花の手には、手のひらサイズの桃色のデジカメが握られていた。


「どうしたの?」


 十分に会話のできる距離まで駆け寄ってきた陽花に問いかける。それを聞いてか聞かずか、陽花は持っているデジカメを空に向け、「うわぁ」と声を漏らしながらバシャバシャ連写している。この分だと聞こえていない。


 良いロケーションを探してウロウロと日陰を出たり入ったり。まるで光と闇の塗料を交互に浴びせられているみたいだ。激しく明暗が移り変わって、こちらの目が回りそうだ。思わず目を逸らしてしまう。


 横目にとらえた陽花の髪は陽光を反射し、茶色に輝いていた。ずいぶん明るく見えるけれど、本人曰く地毛だ。肩にかかるか、かからないか位のその髪がぴょんぴょん跳ねる身体に連動してたなびく。


「ふぅ」


 ひとしきり撮り終えて満足したのか、陽花が掲げていたカメラを胸元まで下ろし、息をつく。


「終わった?」

「うん、撮れた撮れた」


 陽花の控えめな釣り目が喜の形に歪む。最初に僕をガン無視したことは微塵も気にしていないようだけど、その溢れんばかりの笑顔を見てしまうと、攻め立てる気も起きなくなる。


「で、何か用事?」


 落ち着いたところで、再度疑問を投げかける。軽くビクりとさせられたわけだし、何か相応の要件であってほしい。


「用事?」

「僕のこと呼んだじゃん、さっき」

「あー、ううん、用事なんてないよ」


 じゃあなんで最初に名前を呼んだんだ……。


「じゃあなんで最初に名前を呼んだんだ……」


 声に出てた。


「べつに用がなくたっていいでしょ、たまたま見かけたんだから呼んだの。」


 そういう物だろうか。見かけた人それぞれに声をかけていたら、口がいくつあっても足りない。


「んで、雪月はなんでここにいるの?まぁ、大体わかるけど」


 文字通り知ったような口を利き、ニヤりと笑う陽花の左の頬が少し上がる。彼女はなぜ僕がこんな所でフラフラしているのか、大体の目星はついているのだ。


「陽花が言えることじゃないでしょ。まだ授業中だよ」

「いやぁ、窓から大きな雲が見えたもんだからつい……って、あぁ!」


 言い終わる前に目の前のデジカメをひょいとつかみ上げる。


「へぇ、それで今日は空か、この前はなんだったっけ」

「えっと、たまたま木にとまってたカブトムシ……っていうか返せぇ!」


 陽花に取られないよう、カメラを高々に上げる。何とか奪い返そうとピョンピョン跳ねる陽花の顔を見て、僕の方が背が高い事を実感する。面白い。


「今日の空は綺麗だもんね、陽花が出てくるのもわかるよ」


 絶えず下から刺してくるような手をあしらいつつ、そんなことが口からこぼれる。


 陽花はいつも教室の窓から珍しいモノや綺麗なもの、その他諸々を見つけると、写真に収めようと教室を抜け出す。彼女のそうした噂は、別クラスの僕の耳にも入ってくる。今日もその例に漏れずといったところだろう。しばらくしたら戻ってくるので、クラスメイトも教師も特に陽花を咎めなくなったらしい。僕からしたら羨ましい事この上ない。授業中に堂々と教室を抜け出すなんて。


「はい、ごめんごめん、返すよ。」


 十分楽しんだからと、カメラを陽花に返す。


「もぉ」


 陽花が軽く唇を尖らせるも、本気で怒っているわけではないだろう。陽花とは春先に知り合ったばかりの仲だけど、それくらいはわかっている。


「教室、戻ったら?」

「うん。雪月は……戻らないか」


 陽花の方もよくわかっていらっしゃる。


「……今日はわたしも授業サボろうかな」


 陽花がポツリとつぶやく。今更そんな事をとも思うけれど。何だか僕がたぶらかしたみたいにならないか?それ。


「あとちょっとで授業も終わるし、いいかなって。雪月もどうせずっと体育倉庫にいたんでしょ?」


 僕が何か言う前に陽花が重ねて補完する。確かに、教室に戻ってすぐに授業が終わるなら大して変わらないかもしれない。いやどうだ?


 陽花はそうと決まったらと、体育倉庫の方へ足を進めていた。その決断力と行動力は、見習うべきなのかもしれない。そんなことを思いながら、小走りで陽花に追いつく。


「…………あのさ」


 ザッザッという二人分の不揃いな足音が響く中、僕が横に並んだのを確認して陽花が口を開く。


「今日の写真、上手く撮れてた?」

「いや、上手くはないかな」


 お世辞にも上手い写真ではなかった。僕から感想を言うことはまずないけれど、求められたからには正直に言わなくては。


「やっぱりなぁ」と陽花の肩が分かりやすく力をなくす。


「上手くならないなぁ」


 デジカメのディスプレイに映る自分の写真を見て陽花がつぶやく。歩きスマホならぬ歩きデジカメだ。そろそろ草木の茂った舗装されていない道になるから、ちゃんと下を見て注意してほしいのだけど。


「陽花の写真は上手い下手っていう問題じゃないと思うよ」


 くいっと首を傾けて陽花の手元のデジカメを覗く。そこにはさっき撮ったと思しき空模様がディスプレイに映し出されていた。ボッケボケの入道雲が。


 今日の写真以外もそうだ。空も花も虫も水も、陽花が撮った写真は決まってピンボケ、どうやって撮ったらこんなピンボケ写真ばかりになるのだろう。


「雪月、ちょっと撮ってみてよ」

「いいよ僕は」


 差し出された桃色のカメラをグイと押し返す。さっきは自分から奪っておいて、いざ差し出されたら拒否する。反抗期の子供みたいだ。でも写真なんか撮りたくはない。


「……嫌いだよねぇ、写真。」

「別に、嫌いとかそういうんじゃない」


 嘘じゃない。なんというか、写真に意味とか必要性を感じないのだ。目の前の景色を保存して何になるのかと。


 陽花のデジカメに映る雲も、実際の空ではもうとっくに違った形を形成している。写真に写っているのは、過去にそうだった物でしかないのだ。


 日々は絶えず流れていくもので、特定の瞬間をいつまでも保存しようとする方がおかしい。


「……おかしい?何が?」


 右から不思議そうに小首を傾げる陽花の声が聞こえた。どうやら知らず知らずのうちに考え事が口に出てしまっていたらしい。


 さっきもこんな事があったな。気をつけた方がいいかもしれない。


「別に。時の流れに逆らうなんて愚かだって話」

「うーん……何で写真からそんな話になるの……?雪月の話は時々よくわかんないんだけど」


 カメラを見つめながらも怪訝な顔をしている陽花を目の端に感じつつ、息を吐く。


「そりゃ悪かったね。そろそろ足元見ないと、転んで怪我するよ。」

「へ?……うわぁ!!」


 太い枝でも踏んづけたのだろう。落とし穴にでも落ちたかのように派手に陽花がずっこけた。


「もっと早く教えてよ!」と、やいのやいの騒ぐ陽花の腕を引っ張り上げる。幸いカメラは無事なようだ。


 やっぱり歩く時は転ばないようにちゃんと足元に注意しないといけないなと再確認する。


 みっともなく転んだ瞬間を写真にでも撮られたら、たまらない。

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