後編
見慣れない部屋で、インティスは目を覚ました。
そこが自分の部屋であることに少しして気付く。普段はフェレナードの部屋や、すぐ隣の護衛用の小部屋にいるから、自分に割り当てられている部屋の間取りを忘れてしまう。
何がどうなって自分がここにいるのか、思い出そうとすると息が苦しくなった。怪我をしたのだ。体が痛い。
フェレナードはインティスの意識が戻ったことに気付くと、部屋に入るなり慌てて駆け寄って来た。
「……具合は?」
目が覚めてほっとした気持ちと、どう声をかけていいか戸惑う気持ちが混じり合い、変に簡素な質問になってしまった。
答えようとしたインティスは、自分の右手が胸元に固定されていることに気付いた。無意識に動かそうとした瞬間に痛みが走り、思わず顔が歪む。
「無理に動かさないで、右腕が折れてるって医者が言ってた」
「え……」
頭が真っ白になった。どうりで尋常じゃない痛みだ。確かに、文献調査で訪れた墓には遺産を守るものがいた。大きな四つ足歩行の生き物で、前足で勢いよくはね飛ばされた時、咄嗟に庇うように出した右腕から石畳の上に落ちたのだ。
フェレナードは床に膝をついて、インティスの首筋に触れた。気を失っている間に出ていた酷い熱は下がっている。気が抜けたように大きく息を吐いた。
インティスにはその顔色が良くないように見えた。部屋のカーテンは開いていて、室内は明るいのに。
視線に気付いたフェレナードが苦笑した。
「……焦ったよ。血が出なかったとは言え……」
「……ごめん」
ここまで大きい怪我は初めてだが、それ以上に、今までで一番心配させてしまったのかもしれない。
覚えているのは激しい痛みだけで、彼は必死に声をかけていたというが記憶にない。目は開いていたが焦点は合っていなかったそうだ。半分気を失っていたのだろう。その状態で声をかけても返事がないというのはかなり不安だったと思う。
だが、何とか死なずに済んだ。
右腕はこんな有様だが、左手は無事だ。
文献調査は中断せざるを得ないけれど、体を動かすことはできるはずだ。
「ねえ、左手だけでいいからダグラスと……」
「稽古したいって? いいって言うと思う?」
「…………」
提案は逆に問い詰められ、思わず口ごもる。
「医者も言ってたけど、まずは怪我を治すこと。他はそれからだ。わかったね」
そう言って、彼は隣の自室へ消えた。
ベッドにいてもやることは何もないので、インティスも彼の後を追う。
片腕が使えない分、いつもやっていたフェレナードの生活補助は不便になってしまった。見かねた厨房係が、治るまでは部屋まで食事を運んでやると申し出てくれた。
だが、問題はそこではないのだ。
夕食を終え、その後更に文献や遺産の調査を続けた後、真夜中になってフェレナードは椅子から立ち上がった。
インティスは嫌な予感がした。
目が合うと、彼は淡々と答えた。
「ダグラスの所に行ってくる」
「…………」
堂々と言われ、止めることはできなかった。できるはずがない。この怪我では、これまでの半年のような彼の相手などできないからだ。そして、以前のように迎えに行ったところで、彼を抱えて戻ってくることもできない。
沈黙は了承と捉えられ、部屋に取り残される。
ただ、彼なりに自分を気遣ってくれていたのかもしれない。頻度が週二回にとどまっていたことに気付いたのは、大分後になってからだった。
『あいつは、人に八つ当たりできない分、自分にされて悦ぶやつだからな』
ダグラスの言葉を思い出す。
フェレナードは、これまでの半年の間、ずっと自分に対してする側であり続けた。常にそうしてなだれ込んでしまうので、逆でやってみてもいいと言い出せなかった。
右腕の大怪我は失態だ。彼がダグラスの所へ戻ってしまう。
一度だけ、少し間を置いて彼の後を追ったことがある。ダグラスの部屋に着いて、寝室に通され、事が始まる頃合いを見計らって。
ダグラスは恐らくインティスのその行動を予想していたのだろう。いつも必ず部屋に鍵をかけるはずなのに、その時だけは開いていた。
音を立てないように開け、応接室に一歩踏み込むと、その奥の寝室の扉も僅かに開けられているのか、声が漏れ聞こえた。
ダグラスの言葉を嫌でも思い出させる、そうされることで溢れる嬌声。
すぐに部屋を出た。
そういうことなのだ。
◇
人の気配で目が覚めた。
インティスが起きたことに気付き、フェレナードは小部屋を覗いたまま声をかける。
「……ただいま。自分の部屋で寝てても良かったのに」
「……今更広くて落ち着かない」
嘘をついた。半分は本当かもしれない。怪我のせいとはいえ、自分だけのうのうと一晩中寝ているのははばかられる。
部屋は暗く、控えめな明かりは彼の部屋側にしかないが、逆光の中でも彼の顔色は心なしか良いように見えた。ダグラスの部屋に行ったから。
そう? とだけ言って、フェレナードが自室に戻って行く。
その後ろ姿を見つめ、悔しいとは違う、怪我をしてしまった自分の不甲斐なさにインティスはシーツを握り締めた。
◇
その年も終わりに近づこうとする頃、固定されていた右腕はようやく自由になり、痛みもなくなった。
実に三ヶ月振りの右手だが、肩からぐるぐる回しても、折れた部分を叩いてみても、何ともない。
ただ、これまで何かと痛みを伴ったせいで、いつも通り動かすのを躊躇ってしまう。
その躊躇がなくなるように日常生活を送ること、と医者から言われ、晴れて療養を終えることができたのだった。
これから三ヶ月くらいは様子を見て、大丈夫そうであればもう三ヶ月で剣技の勘を取り戻せるよう、ダグラスと予定を組んでおいた。
文献調査は大分遅れてしまう。インティスが謝ると、フェレナードは気にしなくていいと言って、背中をぽんぽんと叩いた。
◇
夕食を終え、食器も自分で片付けられるようになり、厨房から戻って来ると、解読中の文献を開いたまま、フェレナードがぼんやりと考え事をしているようだった。
手元を照らす明かりは炎の精霊によるろうそくの火だが、それにしても顔は青白い。
彼がダグラスの部屋に行ったのは一週間前。
長い期間がちょうどいい区切りになったかもしれないと思っているのは、恐らく自分だけだろう。
「……ねえ」
怪我をする前と同じように、インティスから声をかけた。
視線を上げた青い目は、少し陰鬱そうだ。
「着替えてくるから」
そう言って、控え用の小部屋に引っ込む。
「大丈夫?」
時計を見てタイミングに気付いたフェレナードが、慌てて聞き返してきた。
「大丈夫」
どうせ脱ぐのに、と思いつつ、最初から脱ぎっぱなしで始めるのはあからさますぎて抵抗がある。特に今日においては尚更だ。小さく深呼吸した。
寝間着に着替えて部屋に戻ると、彼はもうベッドに座っていた。まだ彼にとっては、今日は三ヶ月前の延長でしかない。
いつもなら枕に頭を沈めるのは自分だが、今日は、今日からは違う。
「俺がする」
「え……?」
それはフェレナードにとっては不意の宣言だった。
「できる?」
「多分」
たったそれだけのやりとりだったが、インティスの心臓がどきどきした。ここで断られた時に、何と言って突き通そうかを考えていなかった。
「……じゃあ、やってみる?」
そう言って、フェレナードは自らの体をベッドに横たえた。宣言を却下されなかったことに、インティスは胸を撫で下ろす。
「断られるかと思った?」
「そりゃね……」
くすくす笑うフェレナードに、インティスは多少げんなりしながら応じた。まだそれくらいの余裕すら、自分は持てない。
以前の自分は何をすればいいかもわからない状態だったが、今はとりあえず、何をされたかはわかっている。できなくはないはずだ。
覆い被さるようにして、自分の体を支えながら唇を重ねた。
自分がする側になったのは初めてだ。けれど、彼に何をしてやるべきかは、事を進めるうちに感覚で理解できた。
ダグラスが言っていたことは本当だった。
◇
頭の奥で痺れている余韻を振り払う。
息が切れるが、フェレナードはインティス以上に肩で息をしていた。乾いた二人分の荒い呼吸がしばらく続いた後、沈黙に耐えかねたフェレナードが、座り込んだインティスへ声をかけた。
「……なんでいきなり?」
確かに、フェレナードにしてみればそうだ。これまで教える立場上する側だったのが、突然の配置転換である。
「……多分、するよりして欲しいんだろうなと思って」
後始末が面倒になったのか、隣に突っ伏したインティスの返事は相変わらず直球だった。飾らない言葉といえば聞こえはいいかもしれないが。
「…………」
当たってる。
言い当てられて、フェレナードは何も言い出せなくなってしまった。
彼が剣や魔法の訓練をしている時、その習得は随分感覚的だと思ったものだ。
目の前で示された手本を、具体的なことを教えなくても見事に再現してしまうのだ。魔法の扱いに困っていても、こういう風に、と言うだけでその通りに実現させる。勘がいいとはこういうことを言うのだろう。
それをこんなところで体現され、言葉がない。
「……そしたら、ダグラスの所に行かなくても良くなるだろ」
彼の言葉は続いていた。顔が枕に埋まってるので、声はかなり籠もっている。
インティスに護衛の話を持ちかけたのは自分だ。当時は彼自身が生き方に迷っていたからその選択肢として示しただけで、ここまで深く関わらせるかどうかは考えていなかった。彼には彼の生き方があるし、他に道が見つかれば、後任を探すのは面倒だが護衛を離れてもいいと思っていた。
だが、彼は忠実に自分の側にいた。ダグラスから身辺警護について教わり、それをやり通す。それだけで年月は過ぎて、自分とダグラスの関係についても知られることになってしまった。
そして、今度は彼がダグラスの代わりをすると言う。
話だけ聞けば冗談かと思えるが、こうして成されてしまった今、彼との関わり方を見つめ直す必要があるだろう。
護衛として彼は三年間側にいた。一線を越えてまで自分を守ろうとする彼に、そろそろ全てを預けてしまってもいいのかもしれない。
沈黙が続いたせいで、不安になったインティスが枕から少し起き上がる。
「さ、さすがにその、ダグラスみたいにはできないけど……」
「そう?」
「えっ?」
肯定されると思ったのに違う返事が返ってきて、インティスの声が上擦った。
「俺の扱いなんてそんなに難しくないよ。長く側にいるお前なら、きっとすぐできるようになる」
汗が冷えた肌の上に薄い掛け布団を羽織ると、フェレナードはインティスに覆い被さるように手をついた。
「ちょ、ちょっと……まだやるの?」
「あれで終わりなんて言わないだろ? むしろこれからが本番だ」
「えー……」
嫌そうに唸りつつ、体はフェレナードの方を向ける。わがままを無条件で受け入れてもらえることに感謝しつつ、フェレナードは彼の肌に触れた。
応えるように、インティスがその頬に手を伸ばす。
一度冷え切った体は、すぐに熱くなりそうだった。
脱依存式療法 リエ馨 @BNdarkestdays
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