【第六羽】十一、神話
「クィントゥス、お願い。私をここから出して」
金の鳥籠の中からサニアが懇願する目でクィントゥスを見る。
だが、クィントゥスは、それには答えず、傍に置いてあるグラスから水を飲んだ。
(あぁ、喉が渇いた……)
一体この身体は、一日にどれだけの水を必要とするのだろう。まるで干乾びたミイラのようで、いくら水を口にしても足りないのだ。決して癒えない、この身体の疼きは何なのか。
そんなクィントゥスの姿を鳥籠の中からサニアは、静かに見つめていた。彼女の瞳には、はっきりと映るものがある。クィントゥスの後ろで待ち構えている、黒い悪魔の姿が……。
クィントゥスは、キャンバスに絵を描き続けた。金の鳥籠に囚われた、炎のような天使。その姿形は、サニアを模しているが、その表情は、どことなくフォルトゥナに似ている。だが、クィントゥスは、そのことに気が付いていない。
「ねぇ、知ってる?
この世界は、一度、滅びかけたことがあるんだって」
クィントゥスは、ここ最近、講堂へ出掛けて行って見聞きしたことをサニアに話してくれる。今日は、神学者による大洪水の話を語り始めた。
神々による度重なる戦禍は勢いを増し、行き場を失った膨大な力が大きな洪水となって世界を覆い尽くそうとした。
自分たちが招いた惨状を目の当たりにし、悔い改めた神々は、大洪水の力を封印することで、世界を終焉から救ったのだという。
ただ、それ以来、この世界には、雨が降らなくなった。
憐れに思った泉の女神が、地上を生きる者たちが生きていける分だけの水を地下より湧き出る泉として与えた。そのお陰で、人間も生きていくことが出来る。
「サニアは、雨を見たことがある?」
僕も見てみたいなぁ……と呟くクィントゥスの瞳には、サニアの姿が映っていない。絵筆を握り、狂ったようにキャンパスへ色を塗りたくっていく。色と色は幾層にも重なり、不協和音を奏でてゆく。最初に塗った色は、もう判らない。
「水だ……水が足りない……」
そう言って、クィントゥスは、狂ったように水を飲んだ。手にした瓶が空になると、傍に置いてあった絵筆を洗う水を入れた容器を乱暴に掴み取り、顔からそれを被るように浴びた。
唐突に悲鳴が聞こえた。若い女の声だ。
サニアが声のした方を見ると、戸口にフォルトゥナが恐怖を顔に張り付けたまま立ち竦んでいる。
「……お願いクィン、もうやめて。あなたは病気なのよ」
フォルトゥナの声は震えていて、嗚咽を堪えているかのようだった。そのままそっとクィントゥスの後ろに近づくと、絵具の汚水を被り、全身が濡れそぼったクィントゥスを優しく抱きしめる。
それでも、クィントゥスは、筆を躍らせるのをやめようとしない。まるで世界には、自分と、目の前にある絵しかないようだ。
自分が何を言っても彼の耳に届かない、彼を止められない……そう思ったフォルトゥナは、唐突に、サニアを閉じ込めている大きな鳥籠を睨み付けた。
「こんなものがあるから……クィンの心は戻ってこない」
つかつかと駆け寄り、檻を開けようとしたが、錠がかかっている。フォルトゥナは、鍵を探そうと、部屋中の引き出しを開け始めた。
ない、ない、ない、ない、ないないないないないない…………
部屋中の全ての戸や引き出しを開け放ち、フォルトゥナは、茫然と部屋の中を見渡した。彼女の目には、その惨状が写っていないようだ。
フォルトゥナは、鍵が見つからないと分かると、今度は、再び檻に近づいた。傍にあった真鍮の椅子を持ち上げて、力の限り振りかざす。
フォルトゥナの目には、檻の中に居るサニアの姿が見えていなかった。遠慮なく何度も椅子を叩きつける金属音に、何事かと屋敷に居た者たちが部屋の外へ集まってくる。開かれたクィントゥスの部屋を覗いた彼らは、その惨状に息を呑んだ。
やがて、平常心を取り戻した何人かが、フォルトゥナを止めようと部屋へ飛び込んで来た時、錠の開く音が鳴り響いた。
その途端、勢いよく鳥籠の扉が外へと向いて開いた。
フォルトゥナは、勢いに押されて後ろへ倒れた。
彼女を支えようと駆けつけた人たちの目には見えなかっただろう。
しかし、フォルトゥナは見た。鳥籠の中から何か大きな翼あるものが飛び出す姿を。それは、一瞬で、いつの間にか開いていた窓を見つめた。外は、ちょうど陽が沈みかけるところだった。
†††
連れ戻せ、と大天使ミカエルは言った。その何の感情の色も伺えない声音に、サニアは、戸惑いながらも聞き返した。
「どういうことですか……大天使ミカエル様」
大天使ミカエルは、天界で最高権威を持つ七大天使の一人であり、その筆頭を担う実力の持ち主だ。黄金色の波打つ長髪に、彫刻のように均整の取れた美貌から、天使の中には彼のことを「天使の王子」と呼ぶ者もいる。
太陽の天使サニアにとって、属性が同じミカエルは、師であり、上司であり、保護者でもある。
しかし、こうしてサニア一人がミカエルの自室へ呼び出されることは初めてのことだった。それほど、サニアからとって見れば、雲の上のような存在なのだ。
「今、言ったとおりだ。レイン……あの者は、かつて地上を一掃するためにもたらされた大洪水の化身。放っておいては、危険なのだ」
もし、力を暴走させるようなことがあれば、地上は大雨によって沈んでしまう。そう告げられて、サニアは、信じられないといった表情でミカエルを見返した。ミカエルの表情には相変わらず色がない。それでも、冗談でこんなことを言うような御方でないことだけは確かだ。
サニアは、今までのレインとの記憶を思い返してみた。改めて思えば、彼の能力は、ただの<雨の天使>にしては強すぎる。格が違うのだ。それは、彼が大洪水の化身であったからだと言われれば、納得もする程に。
「そんな……レインは、そのことを知っているのですか?」
「知らない。……いや、知らなかった、と言うのが正しいだろう。
事実、彼は、天界から姿を消した。理由があるとすれば、それ以外に考えられない」
天使とは、人間たちを導くために存在している。そのことに誇りを持って使命を全うしている天使にとって、もし、自分が人間たちの命を脅かす存在であると知ったら、レインの受けたショックは計り知れない。サニアには、想像もつかない。
「更に言えば、サニア、君の今回の行動についても、私は、何か言うべきかな」
サニアの表情が固まる。
ミカエルは、クィントゥスのことを言っているのだ。
(クィンの心を救ってあげられなかった……)
天使の力を前に、人間が作った鳥籠や錠など無意味だ。
サニアは、いつでも好きな時に、鳥籠を出ることが出来たし、クィントゥスを見限り、天界へ戻ることも出来た。
でも、サニアは、どうしても、あの孤独な青年を見捨てることが出来なかった。
「…………大変申し訳ありませんでした。私の力が及ばず……」
「次はない。レインを連れ戻しに行ってくれるな」
サニアには、はい、と答える以外に選択肢はなかった。
「でも、どうすれば……」
レインは、サニアにとって学園へ入学してからの長い付き合いだ。彼の性格は、サニアもよく知っている。レインがサニアの言葉に大人しく従ってくれる、とは到底思えない。
しかし、ミカエルには、既にレインを連れ戻すための策があるようだった。
「これを使え」
そう言って、ミカエルは、机の上に一枚の羊皮紙を広げて見せた。
「これは……」
「〈ラジエルの書〉から書き写したものだ。
そこに書かれている内容を伝えれば、嫌でも帰って来ざるをえなくなる」
〈ラジエルの書〉とは、座天使の長であるラジエルが持つ分厚い書物のことで、この世界の理から神々の秘密までありとあらゆることが記されている。
〈ラジエルの書〉を読むことができるのは、七大天使の一人であり座天使の長でもあるラジエルだけだ。サニアの位ですら決して見ることは叶わない代物であることに、サニアは、震える手でそれを受け取った。そして、そこに書かれていた文字を目で追い、驚愕の表情を浮かべる。
「……っ! なんてこと……レインは……レインがまさかこんな……」
ミカエルは、サニアの動揺を予想していたように何の反応も示さなかった。これで解っただろう、とばかりに話を進める。
「いいか。必ず、レインを天界へ連れ戻せ。
でないと、世界は終わる」
サニアは、自分に課せられた事の重大性に表情を青くし、ただ無言で頷くしか出来なかった。
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