【第六羽】九、訃報

「フォルトゥナが君に会いたがっていたよ。

 勉強会に君を誘ったことを話した。もしかすると、あとで顔を見せに来るかもしれない」


 それからルフス侯爵は、最後に「勉強会を楽しんで」とだけ言って、席を離れた。立ち去って行く、広い頼りがいのある背中に、クィントゥスは、沸き上がってくる郷愁の念を無理やり頭から振り払った。


 壇上では、次の演説者が話し始めていたが、クィントゥスは早々に席を立ち、自分の部屋へ戻ることにした。フォルトゥナが自分に会いたがっていた、というルフス侯爵の話が耳に残っている。


(フォルトゥナに会いたい……でも……)


 今の自分は、彼女に会うのに相応しくない。そう、クィントゥスは思っていた。


 講演室を出て、長い通路を急ぎ足で歩いて行く。他の幾つかある講演室の前を通り過ぎると、講堂の出入り口の方から、アラバスターの床をコツコツと踏みしめる音が聞こえて来た。


 そこにあったものに目を奪われ、クィントゥスは足を止めた。


 陽が暮れたばかりの空の色をそのまま流し込んだような豊かな髪、茜色のドレス、誰もが振り返るような美の女神――――見間違える筈がない。フォルトゥナだ。

 久しぶりに見るフォルトゥナは、以前会った時よりも成長して、より美しさに磨きがかかっていた。


 だが、何故かフォルトゥナは、講堂の出入り口を行ったり来たり繰り返している。


 クィントゥスは、それを見て、逃げ場を失って彷徨う蝶のようだと思った。


 いつだったか、部屋の中に迷い込んできた蝶を見つけ、きれいだから捕まえて、とミリエルが言ってきたことがあった。開いていた窓から迷い込んできたのだろう。可哀そうだから、外へ逃がしてあげようね、とクィントゥスが言っても聞かなくて、あんまり駄々をこねるものだから、スピウスが蝶を捕まえて標本にしてやろうか、と脅し、ミリエルを泣かせた。

 結局、シャーロットに非難されたスピウスが渋々蝶を捕まえてやり、ミリエルは、蝶を虫かごに入れて、しばらく飽きるまで愛でていた。


 でも、翌朝、蝶は虫かごの中で静かに動かなくなっていた。

 それを見たミリエルは、泣いた。

 蝶が可哀そうで泣いているのかと思ったら、ミリエルは泣きながら、動かない蝶は嫌だ、と言うのだ。


 アリウスが、泣いているミリエルに言った。


――――蝶は、動いていても蝶だし、動かなくなっても蝶には変わりない。動いている蝶が美しいのは、そこに自由があるからだ。今度からは、蝶を捕まえようとするのではなく、そこにある自由な蝶をたっとびなさい――――と。

 

 あの時は言えなかったが、正直なところ、クィントゥスは、動かなくなった蝶の方が絵に描きやすくて良いと思っていた。もちろん、自由に動き回る蝶も綺麗だ。ただ、虫かごの中で自由を失った蝶にも、言葉にできない仄暗い魅力があることに、クィントゥスは気付いていた。


 そんなクィントゥスの視線に気付いたフォルトゥナが驚いて飛び上がると、顔を赤くした。

 まるで頬を夕陽が照らしたかのようだ、とクィントゥスは思った。


「そこで何をしているんだい?」

「……お、お父様を待っていたのよっ。

 でも、中は、殿方ばかりでしょう?

 だから、ここで出てくるのを待っていたの」


 クィントゥスを見上げる宝石のような瞳が熱っぽく揺れている。ルフス侯爵の言葉を聞いたからだろうか、自分を待っていてくれたのでは……という自惚れがクィントゥスの心を熱くした。


「クィン…………久しぶりね。元気そうで、安心したわ」


 フォルトゥナは、花が綻ぶように笑った。それを見たクィントゥスの胸がとくんと高鳴る。


「フォルトゥナ、君は……いつ見ても、美しいね」


 思わず口をついて出た心の声に、驚いたのは、クィントゥスだけではなかった。

 

「あ……あなたは随分変わったようね。

 そんなことを言うような人だったかしら」


 フォルトゥナの戸惑う様子がいじらしくて、クィントゥスは、つい彼女をからかいたくなった。大仰な仕草で腕を胸に当て、お辞儀をして見せる。


「お褒めに預かり光栄です。幸運の女神フォルトゥナが微笑んでくれるなら、どんなことだってできるさ」


 むっとした表情でフォルトゥナが何か言い返そうと口を開く。

 だが、彼女が何を言う前に、クィントゥスは、仮面を張り付けたままの笑顔で、フォルトゥナの傍を通り過ぎた。そのまま一度も振り返ることなく、講堂の外へと出て行く。


 フォルトゥナが振り返った時、既にクィントゥスの背中は人混みの中へ紛れて行くところだった。


「私は、前のあなたが……」


 その寂しげな呟きは、アラバスターの通路にひっそりと吸い込まれていった。



 クィントゥスが自分の部屋へ戻ると、珍しく来客があった。部屋のある一角を見つめる後ろ姿に見覚えがある。クィントゥスは、露骨に嫌な顔をした。

 来客は、背後で扉が閉まる音に反応して、振り返った。クィントゥスの顔を見て、親し気な笑顔を向ける。


「よお、クィン坊っちゃん。元気だったか?」


「坊ちゃん、じゃない。僕は、もう十六だ」


 棘のあるクィントゥスの物言いなど気にも留めず、来客は、短く切り揃えたアッシュグレイの髪を掻き上げながら白い歯を見せて笑った。年齢を感じさせない若々しさに、女性に好かれる容姿をしている。

 父アリウスの弟、マルクス=ユリウス=ディレット子爵だ。

 クィントゥスは、この叔父のことがあまり好きではない。会う度に違う女性を連れていて、聞いているこちらの歯が浮くような台詞を平然と言ってのける、軟派で軽薄な、掴みどころのない人だからだ。

 

 フォルトゥナと初めて出会った夜、応接間で女性と睦み合っていた男は、この叔父だ。あの時は、ただじゃおかない、と思ったが、おかげでフォルトゥナとの距離が縮んだことを考えると、なんとなく後ろめたさを感じて、結局何も言えないままだ。

 クィントゥスは、ため息を吐いた。


「今更、僕に何の用?」


 マルクスは、フェリクス家が大変な時に一度も顔を見せなかった。そんなマルクスが、今更クィントゥスに会いに来るなど、悪い予感しかしない。


「そう連れないことを言うなよ。血を分けた家族じゃないか。

 今日は、君に手紙を持って来たんだ」


 そう言ってクィントゥスへ差し出された封筒には、フェリクス家の家紋が封蝋に刻印されていた。



 †††



「父が死んだそうだよ」


 クィントゥスは、他に誰もいない部屋で、そっと誰かに話し掛けるように呟いた。

 ……いや、一人ではない。

 夕陽が差し込む窓辺に、大きな金の鳥籠が置いてある。中には、大きな鳥――――ではなく、炎のような美しい天使が怒りの表情でクィントゥスを睨めつけている。

 その赤い瞳には、戸惑いと怒り、憐憫の色が複雑に混じり合っている。


 何か言いたげなその瞳に、クィントゥスは、優しく微笑むと、再びキャンバスの絵に向かう。赤い絵の具を付けた筆を器用に使い、少しずつ色を乗せていく。


「ここへ来る前にね、父と二人きりで話をしたんだ。

 思えば、あれが最後の会話になってしまった……」


 サニアは、口を真一門に閉じたまま、クィントゥスをじっと見つめている。

 クィントゥスは、最後に父アリウスから聞いた話をサニアに聞かせるように話し続けた。



『お前を連れては行けない』


 そう父は言った。


『では、母についてゆくのですね』


 と聞いた僕に、父は、衝撃的な事実を口にした。


『お前は、私の息子ではない。私の血を継いではいないのだ』


 青天霹靂とは、まさにこのことだ。僕は、


『どういうこと……?

 それじゃあ、一体、僕は誰の子だと言うのです……っ!』


と聞いた。

でも、父は、それには答えず、こんな話を僕にしたんだ。

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