【第六羽】八、太陽の天使

 燃えるような赤い長髪を後頭部で一つに結わえ、炎のように力強い瞳を宿した天使だった。背中には、純白の一対の翼が広がり、まるで火の女神を具現化したかのような力強さと美しさをクィントゥスは感じた。

 天使は、クィントゥスを憐れむような、慈しむような微笑みを湛えて言った。


「私は、サニア。あなたが幸せになる手伝いをしに来たの」


 クィントゥスの頬を透明な涙が零れ落ちた。自分でも、何故泣いているのか分からない。ただ、心の底で彼女を欲していたのだ、ということだけは分かった。ふと、似たような感動をかつて味わった記憶が蘇る。月の光に照らされて、美しい少女と物悲しいピアノの旋律がひどく懐かしい。もうあの時からずいぶん遠い場所へ来てしまったような気がする。


 お願いがあるんだ、とクィントゥスは、サニアに告げた。


「君の絵を、僕に描かせてくれないかな」


 サニアは、少し照れくさそうに頬を染めると、顎を引いて頷いた。


 キャンバスに絵を描くのは、久しぶりだった。フェリクス家を出てから、何もやる気にならなかったからだ。

 部屋の隅で埃を被っていた画材一式を解くと、懐かしい絵の具の匂いに包まれた。やはり、この匂いが自分は一番落ち着くとクィントゥスは思った。


 クィントゥスは、真っ白なキャンパスに、サニアの絵を描いていった。久しぶりの感覚に胸が躍る。沸き上がる高揚感に、筆が止まらない。

 夢中になって描いていると、あっという間に時間が過ぎていった。絵を描いている間だけは、他のことを考えずに済む。そのことに気が付いてからは、サニアの絵を描くことだけがクィントゥスの心の支えとなった。



  †††



「このままでは、ヴェスヴィアス山が火を噴き、世界は炎と暗黒の世界に包まれてしまうのです!」


 壇上に立ち、大勢の前で熱弁をふるっているのは、黒いローブを身に纏い、丸眼鏡をかけた痩せっぽっちの中年男性で、自分は地質学者だと初めの紹介時に名乗っていた。彼が言うには、ここから東南の方角にある山がいつか火を噴き、世界に終末をもたらすらしい。

 しかし、聴講席に座って演説を聞いていた者たちの多くは、眉をひそめ、中には鼻で笑う者もいた。


――何を血迷いごとを……山が火を噴くなど、ありえない。

――そもそも地質学者とは、何だ。わけがわからん。

――何を言っているのか、さっぱりだな。

――所詮、まがい物の予言者よ。詐欺師と変わらん。


 やがて持ち時間が終わり、地質学者を名乗る男は、脇に控えていた屈強そうな護衛たちによって壇上から引き摺り下ろされていった。それでも男は、最後の最後まで必死に抗いながら叫んだ。


「災厄の時は、必ず訪れる!

 今のうちに、地下に避難所を造り、訪れる災厄に備えるべきだっ!

 戦争などに……うつつを抜かしている場合ではないっ!!」


 男が外へ連れて行かれると、聴講席からは、嘲笑や罵声が挙がったが、壇上に別の黒ローブを着た男が登るのを見て、口を閉じた。そのまま何事もなかったかのように自己紹介が始まる。今度は、海洋学者だそうだ。

 

「どうだね、勉強会は。楽しんでくれているかな」


 唐突に小脇から話しかけられ、クィントゥスは、はっと我に返った。思っていたよりも自分は演説に集中していたようだ。いつの間に隣に座っていたのか、今自分に話し掛けてきた人物の顔を見て、脇を締める。


「ルフス侯爵…………はい、とても興味深いです」


 クィントゥスは、本心からそう言ったのだが、口調が固くなった所為か、ルフス侯爵には、気を遣っていると受け取られたようだ。

 ルフス侯爵が人の良さそうな笑みを浮かべて手を振る。


「いや、気を遣わなくていい。これは、まだ実験段階でね。

 上流階級には、まだまだ頭の固い連中が多いだろう。

 私が思い描いている勉強会では、もっと若者たちが溌溂はつらつと自分の意見を述べ合う、活気ある会にしたいと思っている。

 まぁ、新しい意見というのは、得てして受け入れられないものだがね」


 そう言ってルフス侯爵は、幅広の肩をすくめて見せた。先程の演説の最中に聞こえた野次のことを指しているのだろう。

 しかし、そうは言いつつも、壇上を見つめながら未来について語るルフス侯爵の横顔は、とても溌溂としていて、見るからに楽しそうである。

 クィントゥスは、思わず頬を緩め、同調するように頷いていた。

 すると、その表情かおを見たルフス侯爵は、目尻を和らげ、まるで親戚の子供でも見るような目つきで言った。


「……うん、顔色が良い。食事は、ちゃんと取れているかね。

 何か必要なものがあれば、何でも気兼ねなく言ってくれ」


 はきはきと物を言うルフス侯爵の口調は、聞いている者の耳に心地が良い。気を引き締めておかなければ、つい緩んでしまう頬を叱責しながら、クィントゥスは答えた。


「はい。色々と……ご配慮頂き、ありがとうございます。

 僕なんかのために、どうしてこんな……」


 クィントゥスが表情を暗くする。本来であれば、人質である自分が、自由に街中を歩き回ったりすることは許されない筈だ。屋敷からこの講堂へ来るまでの間、付添人が傍に付いてはいたものの、それは単なる道案内役だったようで、講堂に着くなり、すぐクィントゥスの傍を離れて行った。

 普段の生活でも、特に厳しい監視がつくわけでもなく、基本的には自由にさせてもらっている。このような待遇は、人質の立場を考えると、異例の扱いであった。


「若い者の芽を摘むことは、私の本意ではない。

 この国の未来のためにも、今の若者たちこそが希望なのだと、私は思っている。

 君を私の庇護下においたのは、娘から言われたから、というだけではないよ、決して。私は、無駄なものに投資はしない主義でね。いくら私が、愛娘の頼みに弱いとは言え……ね」


 人懐っこい笑みを浮かべるルフス侯爵を見て、クィントゥスは、自分が居心地の良さを感じていることに気付いた。ルフス侯爵と話していると、心が温かくなる。彼の人柄の良さがそう感じさせるのだろうか。


「そう言えば、君は最近、絵を描いているそうだね。

 ティンバーから聞いたよ。

 ……ああ、ティンバーは、君の身の回りの世話をしている男のことだ。無口だが、よく気の利く男でね。何か必要な画材や道具があれば、彼に言うといい。

 なに、お金のことは気にしなくていい。未来への投資だと思ってくれたまえ。

 それで……君は今、どんな絵を描いているんだい?」


「あ……えっと……宗教画、のようなものでしょうか」


 まさか本物の天使の絵を描いている、とは言えず、クィントゥスは言葉を濁した。後から気づいたのだが、どうやらサニアの姿は、クィントゥス以外の人間には見えないようなのだ。


「ほう……! それは素晴らしい!

 こう見えても私は、芸術にも造詣が深いのだよ。

 是非、私にもその絵を見せてもらえないだろうか」


 ルフス侯爵がまるで子供のように目を爛々と輝かせながら距離を詰めるので、クィントゥスは「見せます」とだけ約束をした。

 

 その時、ちょうど壇上での演説が終わり、周囲から拍手が挙がった。今度の演説者は、聴衆たちの意向に沿えたらしい。

 クィントゥスは、ルフス侯爵との会話でほとんど聞けなかったことを少しだけ残念に思った。


 ルフス侯爵、と誰かが離れた場所から声を挙げた。どうやら知り合いらしいその人に、ルフス侯爵は、手を上げて笑顔で答えると、クィントゥスに断って席を立った。

 しかし、すぐに何かを思い出したように、クィントゥスを振り返って口を開く。

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