【第六羽】六、三男の孤独
(あいつ……?)
クィントゥスは、アリウスが敢えて言葉を濁したことに、不穏な何かを感じ取った。これ以上、ここに居て話を聞いてはいけない、そんな気がする。
だが、クィントゥスの足は、床に貼りついていて動くことが出来ない。
アリウスの質問に、アウネリウスが答えた。
「クィントゥスのことですか?
はい。彼も年頃ですし、それで少しでも家業のことに関心を持ってもらえれば、と……」
「ならんっ! あいつにそのような計らいは一切不要だ。
絵を描きたいなら、好きに描かせておけばいい。
家業のことであいつを巻き込むなっ」
「な、何故そのようなこと仰るのですか?
クィンも、もう十三。あと数年もすれば、立派な成人です。ただでさえ、絵を描くこと以外に興味がないのですから、今から少しでも、世の中のことを教えるべきでは……」
「……理由は、あいつが三男だからだ。それ以外には、ない。
良いか、今後あいつに家業のことで絵を描かせるなど、私が絶対に許さんからな!」
その言葉を聞いた瞬間、クィントゥスの中にあった僅かな自尊心と小さな正義感は、いともたやすく打ち砕かれた。
父ですら、自分を認めてくれないのだ。
三男の価値は、クィントゥス自身が思っていたよりもずっと低く、当て馬にすらなれないことに、まだ少年であるクィントゥスの心は打ちのめされた。
(僕は、何を期待していたんだろう……)
紳士倶楽部で自分が見聞きしたことを父に伝えれば、よくやった、さすが私の息子だ、と言って褒めてもらえるとでも思っていたのか。意気揚々と書斎へ向かう少し前の自分を殴ってやりたい衝動に駆られた。
気が付くと、クィントゥスは、階段を駆け下りて、屋敷の外へ飛び出していた。広い前庭を駆け抜け、視界に入った森の方へと全力で駆けて行く。どこへ行くともなしに、ただ走った。全力で、息が続く限り走り続けた。
クィントゥスは、自分でも気が付かない内に、叫んでいた。何を叫んでいたのかも分からない。それは、人間の言葉ですらなかった。クィントゥスの魂の底から絞り出された慟哭であった。
やがてクィントゥスが立ち止まった時、喉は枯れ、涙は渇ききっていた。空を仰ぎ、喘ぐように息を吸う。その時、クィントゥスは思った。自分は、一人ぼっちなのだと。
いつも幼いころから一人で絵を描いて過ごしてきたクィントゥスにとって、〝孤独〟とは、いつも傍にある友のような存在であったが、この時初めて、クィントゥスは、本当の意味で自分は孤独だと感じたのであった。
†††
近頃アリウスは、書斎に閉じこもってばかりいて、家族団らんの場である応接間に顔を出すことが少なくなっていた。食卓の席で、母マルシェラが話しかけても上の空であったり、かと思えば、子供たちの喧嘩する声が煩いと急に怒り出し、一人で食堂を出て行ってしまう。マルシェラは、心配することはない、と明るい口調で言っていたが、その瞳の奥に隠しきれない不安の色をクィントゥスは読み取っていた。
平穏の終わりは、突然、やってきた。
クィントゥスがいつものように森で写生をしていた時のことだ。父と兄の真実を知った日から、クィントゥスは、一人で森へ行き、絵を描いている時間が多くなった。雨の日だけは、自室へ籠り、デッサンを行う。家に居ると、あの日の嫌な思いが蘇るようであったことと、極力家族と関わりなくないと思っていたからだ。
家族との会話も目に見えて極端に減った。家族は、思春期の男の子にはよくある反抗期だろうと、さほど気に留めてはいなかった。ただ誰に迷惑をかけるわけでもないクィントゥスのささやかな反抗は、それ故に、静かに見過ごされていた。
だが、その日だけは、いつもと違っていた。
「クィントゥスお兄さまぁ~~~!!
クィン兄さま~~~!!
どこにいらっしゃるのっ? お返事をしてくださーい!!!」
静かな森の中に、幼い少女の叫び声がこだました。三女のミリエルだった。
その声があまりにも必死な様子なので、クィントゥスは、渋々腰を上げて、ミリエルを探した。森の入口付近で、ミリエルを見つけたクィントゥスは、彼女の取り乱した様子に、ただ事ではない何かを感じて駆け寄った。
「どうしたんだ、ミリエル。何か……」
「クィントゥス兄さま! 大変なの、スピウス兄さまがっ……!!」
しかし、大変だ大変だ、と騒ぐばかりで、ミリエルの説明は一向に要領を得ず、事情が全く分からない。苛立った様子のミリエルが「とにかく屋敷へ戻って」と急かし、クィントゥスは、背の低いミリエルに半ば引きずられるように屋敷へと戻った。
屋敷の中は、緊迫した重苦しい空気が漂っていた。何故か気を失った母マルシェラが従者たちによって寝室へ運ばれていくのを目にし、クィントゥスの不安は一層掻き立てられた。
応接間へ行くと、シャーロットが、この世の終わりだとでも言うように泣き叫びながら机に突っ伏していて、その肩をアウネリウスが支えている。アリウスの姿はなく、従者たちが忙しなく廊下を行き来する音がやけに耳についた。
「兄さん、一体なにが……」
クィントゥスが声をかけると、アウネリウスが青白い顔を上げて答えた。
「クィントゥス。スピウスが…………旗を揚げた」
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