【第六羽】五、真実の闇
書斎を出たクィントゥスは、自室へは戻らず、二階の書斎へと向かった。父が居るとしたらそこだろう、と思ったからだ。先程の紳士たちの顔と名前は、全て記憶している。不可抗力とは言え、紳士倶楽部に同席してしまったことを父に叱責されるのは致し方ないが、このまま黙って何もしないでいるのは、クィントゥスの腹の虫が収まらない。
クィントゥスが書斎の前に着くと、扉の隙間が僅かに開いていて、中からアリウスとアウネリウスの会話が聞こえてきた。
「……そうか、よく耐えた。それでいい。余計なことは一切言うな。
やつらにとって、それこそが反撃の理由となるのだ」
「はい、わかっています。
ですが、彼らは、本気です。止めなくても良いのですか?」
「ダメだっ! いいか、何も言うんじゃない。
こちらが何か一言でも異を唱えようものなら、我々は即刻やつらの敵とみなされ、家督は潰される。見下されているくらいが丁度良いのだ」
いつも相手を敬う心を忘れるな、と諭す温厚な父の言葉とは思えないほど仄暗い口調に、クィントゥスは戸惑った。扉へ伸ばした手が思わず止まる。とてもクィントゥスが中へ入って行けそうな空気ではない。
「はい……ですが、父上。私は、戦争をすることには反対です。
これ以上、この国の民たちを苦しめることに、私は耐えられそうにありませんっ」
アウネリウスの切迫した声は、クィントゥスに衝撃を与えた。アウネリウスも、あの遊戯の真の目的に気が付いていたのだ。
だが、あの緊迫した空気の中で、アウネリウスは、そんな素振りなどおくびにも出さずに笑ってさえいた。紳士たちの思惑に気付いていた上で、自分の発言の影響を考えた結果、敢えて道化師を演じていたのだ。
紳士の問いに答えられないでいたアウネリウスを勝手に可哀想だと蔑み、馬鹿にしていた自分をクィントゥスは恥じた。自分も、あの場にいた紳士たちと同じではないか、と。
静寂を打ち破るように突然、どんっ、と机を叩く鈍い音が聞こえ、クィントゥスの肩がびくりと跳ねた。
「……ふんっ、国か。 ……国だと?
名前すらないものを国などと呼べるものか」
アリウスは、自身に問い掛けるように吐き捨てた。その憎々し気な口調とは対照的に、以前、夜会で乾杯の挨拶をしていたアリウスの台詞をクィントゥスは思い出していた。
『……先の戦では、我々も多くの犠牲を払うことになりましたが、こうして見事、領土を奪還できたこと、誠に喜ばしいことと存じます。これも、ひとえに皆様方のお力があってこそのおかげでございますれば、今後も、我がフェリクス家は、皆様と心を一つにし、共に戦って参る所存であります。
それでは、皆さまの益々のご健勝と、この国の未来と繁栄を祝って、乾杯致しましょう』
クィントゥスには、あの時の父と、今扉の向こうにいる父が別人なのではないか、と疑った。だが、自分の耳に聞こえる声は、確かに父アリウスのものなのだ。
この国に正式な名前がないことは、クィントゥスも家庭教師から教わって知っている。
かつては、この国にも正式な名前があった。だがそれは、まだ国王が健在であった時代のことだ。
この国には今、王がいない。かつての先王は、戦で受けた傷が元で亡くなった、と公表されているが、実際のところはどうか分からない。王位を狙った者に毒を盛られた、または暗殺された、という噂もある。
そして、先王が亡くなって以来、玉座を巡る骨肉の争いが何年も続き、やがて直系の血筋は皆、絶えてしまった。今は、残された傍流出の貴族たちが互いに手を取り合い、共に国を守っている……と、家庭教師は言っていた。
「何が〝貴族院〟だ。〝紳士同盟〟だ。所詮、皆、腹の中で考えていることは同じこと。中央で我々が何かを行ったところで、地方の豪族たちは、とっくに中央を見放しているのだ。我関せずという者もいれば、我こそが王であるかの如く傍若無人な振る舞いをする者さえいる。
……お前も知っているだろう。あちこちの町で小さな小競り合いが絶えず、昨日の味方が今日の敵となるのだ。誰が敵で、誰が味方か……まるで分からない内に命を落とす者も多いだろう。
直系の血が失われた瞬間から、国の名など、とうに
果たして、これが国と言えるのか。
………………だが、そう言うしかないのだっ」
アリウスは、一人芝居をしているかのように自問自答を続けた。事情を知らぬ者が聞いていれば、正気を疑われていたかもしれない。その様子を扉の外で聞いていたクィントゥスは、父の心境を想像して、心が震えた。自分が何のためにここへ来たのかも忘れていた。
「このような乱世が続く中、我がフェリクス家が、連綿と続く血統を絶やすことなく、覇権争いからも一線を画してこれたのは、一重に、処世術のおかげだ。
我がフェリクス家は、元を辿れば王家の血筋に一番近い立場にある。……まぁ、分家の分家で、直接血の繋がりはないが……。
他の貴族連中からの弾圧を避けるため、自ら公爵の地位を放棄し、辺境伯としてこの地に身を置いているのだ。これからも、この領地だけを静かに治めていければ、それでよい」
これは本当に自分の父が言っている台詞なのだろうか、とクィントゥスは思った。アリウスの言っていることは、つまり、例え他所で戦争が起ころうと、自分の領地でなければ構わない、ということだ。
「スピウスは、そうは思っていないようですが……」
アウネリウスの意味深な発言に、アリウスが溜め息を吐く。
「あれには、私も手を焼いている。野心があるのは、悪いことではない。悪いことではないが……生まれてくる時代を間違えたのだ、あいつは。
今、もし何か不穏な発言をしようものならば、他の貴族連中は団結し、一気に牙を剥いて、我が領地を襲うだろう。
……その点、お前は、とても慎重で用心深い。
臆病であることは、当主たり得る素質の一つだ。
いいな。お前は、そのままでいい」
アリウスのその言葉を聞いた瞬間、クィントゥスは、自分が今まで何も理解していなかったことを知った。
誰に対しても平等で優しい敬愛する父は、腹の中で他人を見下し、己の保身しか考えていない卑怯な一人の男でしかなかった。
弟の描く絵を上手だと褒めてくれた優しくて気の弱い兄は、弟の助けなど不要なほど、物事の本質を見抜く力を持ち、家族のために自己犠牲すら厭わない男だったのだ。
(ぜんぶ、全部……僕が見ていたものは、偽りだった)
その時、クィントゥスの足元で、何かが音を立てて崩れていった。
クィントゥスは、これまで自分のことを賢い人間だと思っていた。家庭教師が答えられない質問を投げかけては、彼らが困るのを今まで何度も見てきたし、一から十を教えられずとも、全容を理解できる。だが、それは所詮、与えられた知識の上だけでの浅知恵でしかなかったのだ。
人を上辺だけで判断し、本質を見抜けなかった己の間抜けさと、兄のために何も出来ない己の無価値さに、クィントゥスは、自分でも溢れる感情を抑えられず、悔し涙を流した。自分が何故ここへ来たのか、その理由を思い出すことすら恥ずかしかった。
更に追い討ちをかけるように、父が言った。
「話は変わるが……お前、
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