【第八羽】二、恐慌

 村の誰よりも早く異変を察知していたリヴは、まだオンバの家にいた。外の様子が大変なことになっているのは、視覚以外の感覚器で大体判ってはいたが、逃げようにもオンバが頑なにそれを拒んだ。だからと言って、腰を痛めて動けないオンバを一人で置いて逃げるわけにはいかない。それに、家の外で待っている筈のレインがいなくなっていることも気がかりだった。


(きっとすぐに戻ってくるわ)


 そう思って、家から動けずにいる。すると、突然ディルクが家の中へ飛び込んできた。慌てて駆けつけてくれたようで、息が荒い。


「オンバは俺が背負う。お前も早く逃げるんだ」

「逃げるって、どこへ。それに、レインがまだ……」


 それを聞いてディルクが舌打ちをする。こんな時にあいつは何をやっているんだ、と言いたげだ。とにかく家の中にいるのは危険だと告げると、嫌がるオンバを無理やりディルクが背負い、外へ出た。リヴもそれに従う。

 外は、まるで地獄絵図と化していた。

砂に混じって僅かだか血の匂いがした。リヴは嫌な予感がした。


「山神様がお怒りじゃ……」


 ディルクに背負われたオンバが低い声で呟く。


「だから言ったのじゃ、あの男は村に災いをもたらす、とな」


 リヴがはっとした表情でオンバを見た。


「あの男って、レインのこと……レインに何か言ったのね」


 レインが災いをもたらす筈がない。災いをもたらすなら、きっと私のほう、とリヴが小さく呟いたが、石の落ちてくる音にかき消されて二人の耳には届かなかった。


「とにかく、他の皆と合流して避難するんだ。俺の親父……村長が皆を誘導してる」

「いや。私は、ここに残る。ディルクは、オンバをお願い。

 レインが戻ってきたら、一緒に逃げるわ」

「馬鹿なこと言うなっ。そんな悠長な時間はないんだ。見ればわかるだ……」


 途中まで言いかけて、ディルクは自分が失言したことに気付いた。見える筈がないのだ、リヴは目が見えないのだから。オンバが持っていた杖でディルクの後頭部をはたいた。


「……あいつならきっと大丈夫。とっくに避難しているのかもしれないだろ」


 はたかれた後頭部をさすりながらディルクが優しく言う。

でも、リヴはテコとして首を横に振って動こうとしない。


「レインが私を置いて行く筈がない」


 ディルクは苦虫を噛み潰したような表情でリヴを睨んだ。この頑固な幼友達は、一度言い出すと自分の意志を曲げないことをよく知っている。リヴにも、ディルクの苛立ちと焦りは伝わっていた。自分を心配して怒ってくれていることも分かっている。それでも、これだけは譲ることができない。


「勝手にしろ」


 ディルクは、そう吐き捨てると、オンバを背負って行ってしまった。

 一人きりになったリヴは、深いため息を吐いた。ディルクの前では強がってみせたが、内心不安な気持ちでいっぱいだった。大事な幼友達だからこそ、自分なんかのことで心配をかけたくはない。オンバにも、早く安全な場所へ逃げて欲しかった。

それにしても、一体レインはどこへ行ってしまったのだろうか。


(ずっと傍にいるって、言ってくれたのに……)


 リヴの足元に、レオンがぴたりと寄り添う。僕はずっと傍にいるよ、と言っているようだ。レオンの柔らかい毛並みをなでると、リヴの気持ちが少し和らいだ。


「大丈夫、だよね……」


 自分に言い聞かせるようにつぶやく。それに答える声は、ない。



 †††



 間断なく降り注いでいた岩が突然止んだ。変わらず砂塵は降っているものの、地揺れも止まり、山は沈黙を守っている。


「止まった……のか」


 皆が一同に山を注視する。これで終わってくれ、と誰もが心の中で祈った。

 しばしの沈黙の後、山頂に赤い何かがちろりと見えた。やがてそれは山脈に沿って流れだす。まるで山が真っ赤な舌を出して、あかんべーをしているかのようだった。


「何だ、あれは……」


 赤くドロドロとした粘土の高い液体状の何かが、じわじわと山から下りてくる。じゅうじゅうと煙を上げているのを見る限り、触ったら無事では済まないことが分かる。


「逃げろっ、早く」

「でも、どこへ逃げればいいの」

「どこでもいいから、早く山から離れるんだ」


 右往左往する人々で村は恐慌の渦に巻き込まれた。


「落ち着け、落ち着いて、高台へ避難するんだ」


 村長の呼びかけで、村のリーダー格の男たちが誘導を始める。赤子や小さな子供を抱えて移動する者、年老いて早く歩けない者たちは、荷車に乗せて男たちがそれを引いた。しかし、いつもはなだらかな道も、今は小石や岩、家屋の残骸が邪魔をして思うように進めない。道が瓦礫で塞がれて通れなくなっている場所もあった。迂回し、岩をどけ、少しずつでも前へ進んでいく。その間にも、赤い液体は、どんどん村へと向かっていた。


 五、六歳の男の子が瓦礫に躓いて転んだ。赤子を抱いて荷車に乗っている女性がそれを見て、息子の名を叫ぶ。ユタだ。仕事で鉱山へ行ったきり帰ってこない父に代わって、自分が母と妹を守ろうと二人を荷車に乗せ、自分は走ってそれを追っていたのだ。転んだ痛みで、それまで必死に堪えていた涙がせり上がり、立つことが出来ない。荷車を引いていた男たちは、前を見るのに必死でユタが転んだことに気が付いていない。ユタと荷車の距離が離れていく。ユタが声を上げて泣きだす寸前、ひょいっと誰かの太い腕がユタを持ち上げた。


 村長だった。一瞬、ユタは父が助けに戻って来てくれたのかと思ったが、違った。村長は、荷車に追いつくと、母親の隣へユタを乗せてやった。


「よく頑張ったな。お前の父さんも、きっとお前のことを誇りに思うだろう」


 その言葉は、挫けそうになったユタの心を再び奮い起こさせた。涙をぬぐうと、ユタが大きく頷く。母は、息子の健気な様子に必死で涙をこらえていた。


「大丈夫だ、まだ間に合う。だから落ち着いて移動するんだ」


 皆を安心させようと呼び掛ける村長だったが、その心中は穏やかではない。高台へ逃げると言っても、村人たち全員を連れて無事にたどり着けるのか、あの赤いドロドロした液体がそれまで待ってくれるのか分からない。


(神に祈るしかない……)


 祈るように仰ぎ見た空は、砂塵と雲に覆われ、まだ真昼だというのに夜のようだ。一条の光すら見えない。果たして、そこに神はいるのだろうか。


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