【第五羽】四、温泉

 暗がりの中、レインは温泉に浸かっていた。湯の温度は少し高かったが、すぐ傍に冷水を入れた桶が用意してあり、そこから水を汲んで湯の温度を調節するのだとリヴが教えてくれた。洞窟の中に灯りはない筈なのにうっすらと物の輪郭が見えているのは、壁に埋まっている鉱石が僅かながらも自ら光を放っているからのようだ。湯の色まではわからないが、肌に触れる触感はさらりと軽く、身体の芯まで温まる。


 ごめんなさい、とリヴの声がした。レインのすぐ後ろには、大人が2人手を繋いで囲えるほどの岩が湯面から突き出ており、声はその向こう側から聞こえた。


 どうやらリヴは、自分一人でここへ来た事を気にしているようだ。


「本当は、今日ここへ案内しようと思っていたの。

 でも、なんだか疲れているようだったから……」


 ミルトが帰って行った後、レインはリヴと距離を置いた。家で一緒にいても目を合わさず、食事中に何か話しかけられてもただ適当に相づちを打ち、食べ終わるとすぐ部屋に籠もった。今思うと、まるで思春期の子供のようだ。サニーとフォーレにもよく言われるが、自分は何か考え事をしていると、周りが見えなくなるらしい。レインは急に自分の態度を恥ずかしく思い、顔を半分湯に沈めた。その頬が赤いのは湯の所為だけではないだろう。


 レインは無性にリヴを虐めたくなった。


「……お前な、こういうこと、いつもやってるのか」


 え、とリヴが聞き返すので、レインは苛立ち紛れに声を荒げた。


「だから、他の男とも平気で湯に浸かってんのかって聞いてんだよ」


 今度はリヴの顔が真っ赤になった。


「いくら真っ暗で何も見えないからってな、こういう状況を自分から言い出すってのは、いくらなんでも警戒心が足りなさすぎるんじゃないのか」


 誘われたからといって一緒に湯に浸かっている自分もどうかと思うが、とレインは心の中でだけ呟いた。温泉への誘惑に打ち勝てなかっただけだと言い訳しておく。


「ち、違います。いつもは一人で入って……って、そうじゃなくて。

 私は、自分だけ入るのは、あなたに悪いと思ったからで、だから、そういう意味で誘ったわけでは…………あ~もういいです、今すぐ出てってくださいっ」


 予想以上のリヴの狼狽っぷりに、レインは声をあげて笑った。顔を真っ赤にしたリヴの顔を見られないのが勿体ない。


「あなたの方こそ、女性に誘われたら、誰とでもこうしてお湯に浸かるんでしょう。

もっとも、女性の扱い方には慣れていらっしゃらないようだけど」

「俺は温泉に入りたかっただけだ」


 二人は岩越しに互いを見合うと、声をあげて笑った。二人の笑い声は、真っ暗な洞窟の中で明るく響いた。


 人というのは、裸の付き合いをすると、心の内をさらけ出してしまいたくなるものだと聞いたことがある。ただ布切れを身に纏っているかそうでないかだけで、どうしてこうも心の距離が変わるのか、レインには常々不思議だったが、今はその気持ちがわかる気がした。


 昼間の、とリヴが先に話を持ち出した。


「子供が嫌いって、あれは嘘ね」

「どうして」

「一緒にいたらわかるわ。レインは、優しいもの」

「少しくらい一緒にいて、何がわかるっていうんだ」

「わかるわよ。特に私は、人より見えない分、他の感覚が鋭いの。

 あなたのは、嫌いなんじゃなくって……そう、恐いんじゃないかしら。人と深く接して互いに傷つくのが。その痛みを知っているから」


 レインは何も言わない。


「ミルトのこと、本当にありがとう。あの子、両親にパン屋を継げって言われてるの。

 彼、一人っ子だから。遠くへ手放すのが辛いんだと思う」


 レインの脳裏に、昼間会った少年の林檎のような頬が浮かんだ。両親に大事に愛されて育ってきたのだとわかる笑顔をしていた。


「でも、ミルトは本当に賢い子なの。私でも知らないことをよく知ってる。

 毎日お店を手伝いながら、オンバのところにも通って勉強してる。

 私は、彼の夢を応援してあげたい」


 レインは、何故だか無性にアップルパイが食べたくなった。


 湯から上がり洞窟を出ると、外の空気が火照った肌に心地よい。レインは着替えを持ってきていなかったので、汗をかいたままの服を着ていた。早く家に戻って着替えたい。洞窟の中で目が暗闇に慣れたおかげか、帰りは、来る時よりも足下がはっきりと見えた。


 二人は黙って歩いた。しんと静まりかえった村は、まるで打ち捨てられた廃墟のように不気味な陰影を造っている。


 リヴがこんな時間になって温泉へ浸かりに来ているのは、他の村人たちに気を遣って、というよりも、自身を守るためなのかもしれない、とレインは思った。リヴに好意的な村人たちばかりではないことを本人も知っているのだ。きっと余計な諍いを生み出したくないのだろう。


 リヴは、灯りのない道を平時と変わらぬ速さで歩いて行く。彼女に灯は必要ないのだ。あっても見えないのだから。そんな当たり前のことをレインは今初めて気が付いた。リヴは、いつもこんな暗闇の中を歩いているのかと思うと、胸が締め付けられる。


 怖くはないのだろうか。もうずっと長い間見えないでいるのだから慣れるのかもしれない。目の見えるレインには、想像することしかできない。彼女の見ている世界は、一体どんな姿をしているのだろう。


 リヴの家へと続く坂を登り切ると、リヴが背後を振り返った。


「星、綺麗でしょ。ここからが一番よく見えるのよ」

「見えないのに、解るのか」

「うん、私の目、生まれつきってわけじゃないから。ずーっと幼い頃には、見えてたの。ここから見える星空が大好きだった」


 そう言って、明るく笑った。その笑顔に暗いところは見あたらない。


「なんで、見えなくなったんだ」


 口にしてからしまったと思った。自分はすぐに思ったことを口にする癖がある。言いにくかったら答えなくていい、とレインが付け足すと、リヴは屈託なく話してくれた。


 昔、この村を流行病が襲った。子供から年寄りまで病に罹った者は、皆死んでいった。村の3分の1以上の人が亡くなったそうだ。その病に、まだ幼かったリヴが罹った。誰もがもうダメだと諦めたが、父だけは諦めなかった。僅かでも病に効くと聞けば薬草を求めて荒野を探し歩いた。オンバに煎じ方を習い、自らの手で薬を娘に飲ませた。寝る間も惜しんで看病を続け、神に祈った。


――頼む、娘まで連れていかないでくれ――


 その父の願いが届いたのか、飲ませた薬のいずれかが効いたのか、リヴは一命を取り留めた。父は泣いて喜んだが、リヴが意識を取り戻した時、両の目の視力は完全に失われていた。

 父は、そんな私をずっと一人で私を育ててくれたのだ、とリヴは感謝の念を口にする。ふいにリヴが押し黙る。リヴの表情が曇る理由をレインも察していた。リヴの家で、レインが感じる黒い影の存在を。死が迫っているのだ。リヴもその気配に気が付いている。


「お前は、強いな」


 レインが何気なしに呟いた言葉に、リヴがほんの少しだけ表情を曇らせたことをレインは気が付かなかった。そんなことないよ、と言ったリヴの声は、どこか投げやりだ。


「一人で旅してる、あなたの方がよっぽど強いわ」


 当たり前だ、といつものレインなら答えた筈だった。なぜなら自分は天使なのだから。弱い人間とは違う。純粋で高潔な天使。人間を正しい道へと導く存在。

 しかし、本当にそうだろうか。


「お前は、死が怖くはないのか」

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