【第五羽】五、それだけのこと
レインの唐突な質問にリヴは首を傾げた。彼は何を言おうとしているのだろう。
「人はいつか必ず死ぬ。怖くはないのか」
それは、レインがずっと胸の内に燻らせていた疑問だった。
なぜなら、天使は何よりも死を恐れるからだ。そもそも死という概念のない純粋なエネルギー体からできている。その力の源でもあり象徴でもある翼を奪われない限りは永遠に生き続けることができる。だからこそ、己の消失が何よりも恐ろしい。自分が一体どうなってしまうのかまるでわからないのだ。
しかし、人間は、その死を生と等しく確実に与えられている。
恐いよ、とリヴは答えた。
「でもだからと言って、どうしようもないじゃない。その時が来れば何か感じるのかもしれない。でも今は、毎日を生きるのに精一杯」
小さな村だ。誰もが皆顔見知りで、誰かが命を落とせば、すぐに伝わる。そして、皆が集まる場所にその者の姿だけがないことを、リヴだけが見ないで済む。それを揶揄されることもよくあるが、皆知らないだけなのだ。リヴは目が見えない分、他の人よりも多くのことを耳や匂い、肌で感じ取ることができるということを。
「俺は、見てきたんだ。たくさんの人間が、死にたくないって強く願う瞬間を。それは、死への恐怖もあったかもしれない。でも、それよりも、もっと強い何かが彼らをそう思わせていたんだ」
今日夢で見た少女の白い顔が真っ先に頭に浮かんだ。彼女は、ある村の巫女を務めていた。毎日、神に祈りを捧げるだけの人生だった。ある時、村に謎の疫病が流行った。治療法もわからず、次から次へと村人たちが死んでいく。彼女は祈った。大事な人たちが死なないように。自分の寝食すら忘れて。しかし、それでも疫病は収まるどころか被害を拡大していく。村の三分の一が息絶えた時、彼女は言った。
『神などいない』
その時、レインは彼女の前に姿を現した。レインは彼女に言った。
『神に祈る前に、自分で何とかしようとは思わなかったのか』
その言葉は、人生を神に祈ることだけに費やしてきた彼女の全てを否定する言葉だった。
残った村人たちは、疫病を神の怒りだと受け取り、怒りを静めるため最後の手段に出た。生け贄だ。そして、その役に巫女である彼女が選ばれた。儀式の前夜、彼女はレインに言った。
――神様に殺される――
彼女は逃げだそうとした。しかし、そこへ一人の悪魔が現れる。
「君の魂を私にくれたら、村人たちを助けてあげよう」
レインは、悪魔の甘言に騙されるなと必死で説得しようとした。生け贄の儀式などに意味はなく、単なる人間の自己満足にしか過ぎないと。それに、なぜ自分を殺そうとしている人たちを命を賭して助けなくてはいけないのか、とも。
彼女の決断は早かった。
『私の死で、一つでも多くの命が救われるのなら、それだけで私の生には意味がある』
悪魔は、彼女を手に入れるため村に疫病を流行らせた。そして、まんまと彼女を手に入れた。
『何も努力しようとしなかった、罰なのかしらね』
そう悲しそうに笑いながら、彼女は湖に身を投げた。
「自ら死を選ぶ者もいた。俺の一言で、死に追いやってしまったやつもいた」
その度に思った。彼らは何故、死を恐れない。
「人間は、弱い生き物だ」
神や天使に救いを求める。時には、己の欲望のため悪魔に魂までをも売り渡す。
「人は簡単に死ぬだろう。だから嫌いなんだ」
戦災孤児の少年は、幸せを目の前にしてあっけなく病死した。
神への生贄となる事を拒んでいた少女は、悪魔の言葉に耳を傾けて自ら命を絶った。
弱い筈の人間がなぜ死という恐怖に立ち向かい生きていけるのか。
死への恐怖すら超越する彼らの想いとはどこにあるのか。
「私、よくわからないけど……」
それまで黙ってレインの言葉に耳を傾けていたリヴが口を開く。
「その人たちにとって、死よりも譲れない大事なものがあったのね」
「なんだ、それは」
うーん、と言葉を探してリヴは首をひねった。
「例えば、これだけは譲れないっていう自分だけのこだわりとか、大切な家族や友人を守るためだとか……自分が死ぬことよりも、その大事なものを失うことの方が怖かったってことじゃないかしら」
レインには分からない。死よりも尚、恐ろしいことがあるというのか。
「誰にだって、弱い部分と強い部分があるのよ。それが表に出たり出なかったりするだけで、どちらの性質も持っているのが人間なんじゃないかしら」
なんだそれは、とレインは納得のいかない顔で言う。それではまるで、
「私だって、死ぬことを考えたら怖いって思う。でも、一人じゃないから」
弱い部分を補って、強くなる。それが人間だという。夢を持ったり、仕事を持ったり、今生きていることに生きがいや希望を持てるから、人は死への恐怖に負けず生きていける。
「誰かが傍にいてくれる、それだけで人は強くなれる」
リヴは話しながら、自分自身に言い聞かせているようだった。
「何かをしてあげようとか、考えなくてもいいのよ。ただ傍にいて、友達になればいい。
それだけで、人は強くいられる」
「そういうものか」
そうよ、とリヴは力強く頷いた。
確かに言われてみればその通りだった。この村の住人たちは皆が互いに協力し合い、助け合って生きている。その統合的な姿は、天使であるレインからして見ると、とても強く、逞しい。
(ここに俺の居場所はない)
薄々とわかってはいたことだった。人間から必要とされない天使に、居場所などない。世の中には、救いを求める人たちで溢れているが、ここは違う。ただひっそりと息をこらし、今この一瞬一瞬を必死になって生きている。
人々の救いの重圧に耐えられず逃げ出した天使は、どこへ行けばいいのだろうか。
リヴは、レインの心を見透かしたように、優しく微笑みかけた。
「大丈夫よ。レインも、一人じゃないわ」
もともと寄せ集めのような村だ。レインさえ良ければ、ずっとここにいたっていい。また旅に出たとしても、この村は、レインを優しく迎え入れる、と。
「俺は……俺には何もないんだ。何も持ってない」
レインは自分の掌を見る。そこにあるのは、ただ死への恐怖だけ。
「俺は、彼らに何もしてやれなかった」
救えなかった。レインの掌に雫が落ちる。レインは、自分でも気付かないうちに泣いていた。
リヴがレインの方へと手を伸ばした。今度は、レインもその手を払わない。リヴが優しくレインの頬を包み込んだ。
「ばかね、レインったら。傍にいてあげたんでしょう。
きっと、彼らは幸せだったと思うわ」
「お前に何がわかる」
「わからないけど。……わかる、気はする。
だって、人は一人じゃ生きられないから」
レオンが自身の存在を主張するように吠えた。それを見てリヴが微笑む。
「誰かが傍にいる。それって、とてもすごいことなんだと思う。
それだけで、人は自分が孤独じゃないって、知ることが出来るもの」
レインの表情から毒気が抜けるように、涙が頬を伝っていった。
(ああ、なんだ。そんな簡単なことだったのか)
レインは、自分が何故この村に居続けているのか、その理由がわかった気がした。
リヴは、レインにとっての天使だった。天使を本当に必要としていたのは、自分の方だったのだ。
二人の頭上には満点の星空が広がり、幾つも星が流れていく。
(キレイだ……)
と、初めて思った。この村は、確かに生きているのだ。それは、今まで自分が見た事のない世界だった。いつも天界から見下ろすだけの地上は、レインの知らないことで溢れている。そして、その地上から見上げる夜空は、こんなにも美しいのか、とレインは思った。
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