【第五羽】二、少年の夢

 頑として家には帰らないと言うミルトを連れて、リヴとレインは、とりあえずリヴの家へと戻った。ミルトは、道中ずっと下を向いて黙ったままだった。


 リヴが台所から温かいお茶を持って来てくれると、それを一口飲んで少し落ち着いた様子で、ミルトは話し始めた。

ミルトには夢があった。いつか商人となって町から町を渡り歩くこと。そして、いつかこの村へと帰ってきて、たくさんの資材とお金を寄付するのだと言う。


 レインは、それを子供によくある病のようなものだと思った。今自分の置かれた環境に慣れ、飽き、今ここにないものを求める。大人になるにつれて、自分の置かれた環境の良さ、尊さに気付き、かつて夢みていたことすら忘れてしまう。だから、ミルトを旅に連れて行くことは出来ない、と諭した。


 しかし、ミルトは首を横に振って、その逆だよ、と言った。


「僕は、この村が大好きなんだ。小さい村だけど、みんな優しくて、友達もいて、毎日がすごく楽しい。でも……」


 ミルトの表情が曇る。頬っぺたの林檎が一層赤くなった。


「この村がとっても貧しいんだってことは、わかる。毎日の食べるものや着るものを揃えるだけで精一杯なんだ。薬がなくて、簡単な病で人が死ぬ。このままだと、この村はいつか誰もいなくなっちゃうよ」


 だから、とミルトは顔を上げて言った。自分は村を救いたいのだと。そのために商人となってお金を稼ぎ、この村を少しでも良くしたいのだという。


「僕、オンバのところで文字や計算を教えてもらってるんだ。薬草のことも少しなら覚えたし、他にも色々……きっと役に立つよ。だから、僕を一緒に連れて行って」


 ミルトの栗色の瞳がきらきらと揺れ、レインを真っ直ぐに見上げていた。それと同じ瞳をレインは知っている。自分の夢を信じて疑わない、未来へ向けた純粋な想い。かつて出会った少年がそうであったように。


「お前、歳はいくつだ」


 レインが尋ねると、ミルトは、今年で八つになる、と答えた。


「お前が考えているよりもずっと世界は厳しい。この村だけじゃない。今は、どこへ行っても、食べて生きて行くだけで精一杯の暮らしをしている人間たちがたくさんいる。

 俺も全てを見て知っているわけじゃないけど、この村よりもっと貧しい生活をしている者たちを知っている。今、お前がそこへ出て行ったところで商売が成り立つとは到底思えない。売れる物も、買う人間もいないからだ」


 ミルトの目に涙が浮かぶ。それでも、レインの厳しい言葉を受け止めようと視線だけは逸らさなかった。そこにミルトの決意の表れを感じ取ったレインは、でも、と表情を和らげて続けた。


「あと十年もすれば、きっと今よりは住みやすい世の中になっているだろう。

 その時、まだ今と同じ気持ちを持ち続けていたなら、自分の足でこの村を出て、夢を叶えるといい。誰かの旅に同行するんじゃなく、お前だけの、お前自身の旅をはじめるんだ。


 今は、その時のための準備期間だと思えばいい。色んなことを学んで身に着けた分、夢に近づけるんだ」


 わかるな、とレインが念を押すと、ミルトは、涙を拭って大きく頷いた。


「それにな、俺は子供が嫌いだ。だから、旅には絶っっっ対に、連れて行かない」


 レインの最後の言い方があまりに子供っぽかったので、リヴとミルトは二人して笑った。


 大きな荷物を背負った家出少年は、しっかりとした足取りで自分の家へと帰って行った。その後ろ姿を見つめながらレインは、自分が少年に伝えた言葉が本当に正しかったのだろうかと、自問し続けた。


 その夜、レインは眠れなかった。また過去の夢を見るのではないかと恐ろしかったのだ。


 だが、怖がっている自分を認めることが嫌で、ベッドに身を横たえながら必死で睡魔と戦っていた。その内、うっすら瞼の裏に淡い靄のような映像が浮かんできた。はっきりとは覚えていないが、どこかで見たような景色だった。緑に囲まれた青い湖が広がっている。波紋一つ立たない静かな湖面に映る一人の少女。白い着物を着て、白い顔でじっと何かを見つめている。突然、少女の顔が苦悶に歪み、叫んだ。


『死にたくない――』


 はっと目を開けて、自分が夢を見ていたことに気が付いた。夢は夢だ、と自分に言い聞かせるが、動悸は激しくレインを責め立てる。眠気など吹き飛んでいた。


 気を静めるために外へ出た。相変わらず寒くも暑くもない、乾いた夜だった。それでも部屋であのまま籠もっているよりはずっとましだ。レインは、深く息を吸って乾いた空気を肺いっぱいに取り込んだ。しばらく息を止め、今度はゆっくりと息を吐き出す。それを何度か繰り返すうちに、動悸はいつもの音を取り戻していた。


 しっとりと汗で濡れた服が不快だったが、着替えをするのも億劫だ。少し歩こうと、家の前にある畑を横切り、村へと降りる坂道の入り口で立ち止まった。眼下に広がる村は灯り一つなく、暗い海の底に沈んだ遺跡のように見えた。急にレインは、自分が世界にたった一人きりでいるような気がした。


(俺は、ここで何をしているんだ)

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