【第五羽】予兆 ―暗闇に光る流星―

【第五羽】一、アップルパイの少年

 村を見下ろすように聳え立つ崖の上に、レインは一人で立っていた。高い所に居ると安心するのは、天使としての性なのか、それとも、自分の能力に関係があるのか、レインにはわからない。


 眼下に広がる村は小さく静かだ。周りをぐるりと岩山に囲まれており、自然の要塞のようにも見える。村の北側には、一際大きな山があり、時折風に乗って金を打つ音が聞こえてくる。あのあたりに炭鉱があるのだろう。


「天使の羽根、か」


 レインは、感謝祭で話した伝承のことを思い出していた。


 ――天使の羽根は、その人が幸せになった証――


 レインは、青く晴れた空を見上げた。白く小さな雲が一つ浮かんでいる。そっと左の掌を上に向けて前に差し出し、目を閉じる。

 背中に意識を集中すると、そこにじわりと熱いものが生える気配がした。

 風が吹き、雲が流れる。やがて、ぽつりと雨がレインの左手を打った。快晴の空から降る水飛沫のような雨がレインの頬を、腕を優しく打つ。

 が、それだけだった。

 レインは驚きと動揺で目を開けた。


「力が弱くなっている……」


 これが人と交わる事で天使に影響を与えるという〝歪み〟なのだろうか。胸に沸いた不安を押し殺すように掌をぎゅっと握る。


 ふいにリヴの顔が頭に浮かんだ。あの笑顔を見れば、嫌なことを忘れてしまえそうだった。レインがリヴの家へ戻ろうと村の入り口に降り立つと、村の中からレオンの吠える声が聞こえた。声のする方へと歩いて行くと、すぐにこちらへ駆けてくるレオンに遭遇した。その背後からリヴが息を切らしながら駆け寄ってくる。


「レイン、ここに居たの」


 どうかしたのか、とレインが問うと、リヴは息を整えながら答えた。


「あなたが村を出て行ったのかと、子供達が心配して……」


 ふいにリヴが押し黙る。レインが不思議に思っていると、リヴはそのままそっとレインに近寄り、レインの頬に手を伸ばした。リヴの手がレインの頬に触れた瞬間、レインの頭に〝歪み〟の二文字が浮かぶ。思わずその手を払うと、リヴは弾かれたように身をすくめた。ごめんなさい、とリヴが寂しそうに微笑む。


「なんだか、あなたが泣いているような気がしたの」



 †††



 子供たちが待っているとリヴに促され、レインは渋々彼女に付き従った。仕方ないな、と面倒臭そうに呟くレインに、リヴはくすりと笑みを漏らした。不機嫌そうな顔をしてはいるが、目の見えないリヴには、レインの嬉しそうな様子がその口調と足音から伝わってきた。誰かに必要とされることは、それだけで人の心を明るくする。


 二人が商店街への道角を曲がろうとした時、背中に大きな荷物を背負った少年が現れた。慌てていたようで、リヴにぶつかりそうになったところを、とっさにレインが庇い、少年を抱え込むように倒れ込んだ。少年からは、ふわりと甘い香りがした。


「ご、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい……」


 レインは、文句を言おうと開いた口をへの字に曲げて閉じた。顔を真っ赤にして俯く少年は、レインの顔も見ないまま謝り続けている。そのまま何も言わなければ、少年は永遠に謝り続けそうな勢いだ。


「ミルト、落ち着いて。他のみんなはどうしたの。家で待ってるんじゃなかったの」


 リヴの声に、ミルトと呼ばれた少年がぱっと顔を上げた。真っ直ぐに切り揃えられた胡桃色の前髪から覗く目がくりくりと愛らしく、ふっくらと丸い頬はりんごのようだ。ミルトは、栗色の瞳でレインの姿を認めると、ぱっと果実が弾けるように笑った。


「旅人さん、見つかったんだね。よかった」


 レインには見覚えのない少年だった。後でリヴから聞いたところによると、感謝祭の夜にレインの話を聞いて虜となった子供たちが一勢にリヴの元へ押し寄せてきたらしい。ミルトもその内の一人だった。


「あ、他のみんなは、僕の家でアップルパイを食べてるよ。

 僕の母さんが作ったアップルパイはね、ほっぺたがとろけるくらい美味しいんだ。

 旅人さんにも一度食べてもらいたいなぁ」


 俺はいい、と断ろうとしたレインだったが、ミルトのふっくらした赤い頬っぺたを見ているうちに、なんだかとても、そのアップルパイが食べてみたくなった。


「僕んちは、パン屋なんだよ。この商店街を少し行ったとこにあって……」


 と、そこまで話したところで、突然ミルトがそわそわと辺りを気にし始めた。その様子に、レインが何かを察する。


「おい、こんなところで漏らすなよ」

「ち、違うよ。そうじゃなくて、僕……」


 ミルトは、こっちに来て、と言ってレインとリヴの手を取ると、人気の少ない細い路地へと二人を引っ張った。何すんだ、と抵抗するレインを、いいから早く、と言って急かす。その様子があまりにも切羽詰まったように見えたので、レインとリヴは彼に手を引かれるまま、細い路地へと入る。


「何なんだよ。お前んちのパン屋は、暗殺者か何かにでも狙われてるのか」


 苛立ちを隠さないレインを無視して、ミルトは、壁影から商店街の方をそっと覗いた。


 そして、誰も自分を追って来ていないことを確かめると、くるりとレインに向き直る。


「僕、旅人さんにお願いがあるんだ」


 レインの顔が引きつる。嫌な予感がした。

ミルトは、何かを決意したかのように、ぐっと瞳に力を込めてレインを見上げた。


「僕、家出してきたんだ。旅人さん、僕を一緒に連れて行って」


 呆気にとられたレインを見つめる、ミルトの瞳は真剣そのものだった。


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