【第四羽】六、蝶の正体

 少しすると、低い轟音がテフの耳に届いてきた。どうやらレインは、その音に向かって進んで行くようだ。やがて、ぽっかりとそこだけ穴が開いたように、樹々が途絶えていた。目の前に切り立った崖があり、露出した土肌を水が流れ落ちている。滝だった。それは、地面に深い淵を作り、そこに碧く透き通った水が溜まっている。水面が空から降る陽の光を反射してきらきらと光って見えた。テフは、目の前に広がる光景に口を開けて魅入った。先程まで感じていた蒸し暑さが、その空間だけ滝によって浄化されているのがわかる。


 すごいだろう、とレインがまるで自分のことのように胸を張って言った。


「これで飲み水には困らないな。

 ……あ。でも、滝壺は危ないから、中には入るなよ。

 意外と深くて、水の流れが対流しているから危険なんだ」


 珍しくレインが注意するのを、テフは意外そうな顔で頷いた。


「これでも〈雨の天使〉だからな。水に関しての知識は、お前よりあるぜ」


 腕を組んで自慢げに話すレインを見て、テフは、自分の知らないことを知っている幻覚なんてあり得るだろうか、と考えていた。


 ふと二人の頭上をひらひらと舞うものがある。蝶だ。それは、赤紫色に黒い縁取りと筋の入った美しい翅をしている。蝶は、しばらく空を舞ってから、水際に咲いている赤い花に止まった。よく見ると、他にも同じ種類の蝶が何頭も赤い花に止まっている。


 レインに名前を聞かれて、テフは答えられなかった。幼いころから何度も読んだ図鑑に載っている蝶の名前は全部頭に入っている。念のため背負っていた荷物の中から図鑑を取り出して確認する。やはり、そこに似た蝶は載っていない。手が震えた。


「新種発見ってことか。そりゃすげえ。

 なぁ、確か初めて見つけた人が名前を決められるんだろう。

お前なら、何て名前をつける」


 テフは、緊張して震える声で答えた。


「ユリシス」


 テフの母の名前だ。それは、新種の蝶を見つけたら何て名前を付けるの、と息子に聞かれた父が返した言葉だった。レインがそれを聞いて、いい名前だ、と言った。


 轟々と流れ落ちる滝の水飛沫の上を赤紫色のユリシスが悠々と舞っている。深い緑の色を背景に、水の碧と赤い花が相まって、まさに〈蝶の楽園〉と呼ばれるに相応しい景色だ。この素晴らしい光景を両親にも見せてあげたい、とテフは思った。


 その時、テフの中で何かがすとんと音を立てて落ちていった。テフの瞳から涙が零れ落ちる。両親が焼かれていくのを見ても出なかった涙が、今やっとその死を受け入れることが出来たのだった。少しずつ感情が戻って行くテフを、レインは眩しいものを見るような目で見つめていた。


 滝壺の傍に拠点を置き、軽食を取ると、島内の探索に出掛けた。そこでは、他にも見たことのない蝶が多数見つかった。どれも図鑑に載っている蝶に似てはいるものの、少し違っている。それは、周囲を海に囲まれたこの特異な環境が蝶たちの独自の進化を助けたのかもしれなかった。テフは、この新しい発見に夢中になった。エメラルド色に輝く蝶には、父の名を、薄紅色の蝶には、従妹の名前を付けることにした。


 しかし、青い蝶は見つからない。


 焦燥と疲労の色が浮かぶテフに、レインが今日はもう戻って休もうと声を掛けた。日も落ちてきていて、すぐに足元が見えなくなる程の暗闇に閉ざされるだろう。まだ明日があるさ、という言葉に頷いて見せたテフだったが、その視界が突然ぐらりと揺れた。額から変な汗が出ている。倒れかけたところにちょうど樹が生えていて、それを支えにテフが身体を起こした。大丈夫か、とレインが心配そうにテフの名を呼ぶ。大丈夫、と答えたテフの顔は真っ青だった。疲れが出たのだろうか。テフは、全身に倦怠感と悪寒を覚えていた。レインの声に励まされながら、樹伝いに何とか滝壺まで戻って来た。空は、茜色から群青色に変わるところで、滝壺の水面が赤紫色に変わって見えた。


 火を焚いて何か食事を取らなければ、と思うものの、身体が重くて動けそうにない。荷物から寝袋を引っ張り出すと、中に入って横になった。気温は熱い筈なのに、寒くて震えが止まらない。熱が上がっているようだった。心配するレインに、少し休むと伝えて目を閉じた。


 島には、外から入ってきた外敵から身を守るため、恐ろしい毒を持った生き物や、目に見えないほど小さな病原菌が存在していた。テフの身体に起きた異変は、それらの何れかが作用したのだろう。


 陽が完全に落ちて、辺りを闇が支配する頃、朦朧とする意識の中で、テフは、うわ言のようにレインの名を呼んだ。どうした、とレインがその手を握ってやると、テフが薄っすらと右目を開ける。その目は潤んでいて、手は火が点いたように熱い。


「僕が死んだら、蝶の天使にして」


 荒い息をしながら、テフは、力なく笑って見せた。レインがそれに答えようと口を開きかけた時、真っ暗な視界の中を動く青白い光のようなものがある。はっとレインが顔を上げると、暗い滝壺の周りを青く光る虫が舞っている。最初は蛍かと思った。ずっと東の方には、自ら光を放つ虫がいるとフォーレから聞いたことがある。だが、よくよく見ると、それは、左右に広げた翅を上下に震わせて舞う、蝶だとわかった。レインは目を見開いた。


「テフ……見ろ、こいつがお前の探していた青い蝶なんだろう」


 昼間の太陽の下では赤く、暗い夜の森では青く光る蝶、それがモルフォティフの正体だったのだ。返答がないのを気にして、レインがテフを見ると、テフは、静かに眠るように息を引き取っていた。死の間際に、テフが青い蝶を見ることができたのかどうか、レインには分からない。でも、テフの死に顔は、今までで一番幸せそうな表情に見えた。



†††



 レインは、汗だくになって目が覚めた。


「だから、子供は嫌いなんだ……」


 弱いから、簡単に死んでしまうから――。

それなら自分は一体、何の為にあの少年と共に時を過ごしたのか。


 レインは、一つだけテフに嘘をついた。死ぬことが怖いと言ったテフに、自然へ回帰することは何でもないことのように言ったが、本当はレインも怖いのだ。長い歳月を天使の姿で過ごすうちに、自然であった頃の自分を忘れてしまっているのが天使なのだ。


 その時、ちょうど扉の外では、ノックをしようかどうか迷うリヴの姿があった。

しかし、レインが起きた気配を察して、手を降ろした。たった扉一枚分の隔たりがとても遠い距離に思えた。彼が自分とは違う世界を生きていることに、リヴは出逢った時から気付いていた。彼は、いつかここから去っていく人なのだ。

そう、解っていた筈なのに――。

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