【第四羽】五、蝶の楽園
少年は、名をキナといった。これから昼飯だというキナに無理やり連れて行かれたのは、船着き場の傍にある倉庫の前だった。日陰になっている石畳の上に腰を下ろすと、先程市場で買ったサンドイッチを取り出した。パンの間から魚の頭が飛び出ている。テフが驚いてそれを見ていると、キナが大きな口を開けてサンドイッチに齧り付いた。そのまま半分に噛み千切ると、齧っていない方の半分をテフに差し出す。
「ここのサンドイッチは美味いんだぜ。遠慮せずに食え」
サンドイッチが欲しくて見ていたわけではなかったのだが、断るのも悪い気がして、もらったサンドイッチを少し齧ってみる。しかし、それは、テフが思っていたサンドイッチの味とはかけ離れていて、あまりの塩辛さに驚いてむせてしまった。キナがそれを見て大声で笑う。
「俺も最初食べた時は、なんだこのくそ不味いサンドイッチはーって思ったよ。
でも、一度食べると、これがなかなかクセになる味なんだよなぁ」
そう言って、手に残っていたサンドイッチを一口で食べてしまった。
話を聞いたところによると、キナも、テフと同じく戦災孤児だという。住んでいた場所は、テフとは違っていたが、戦から逃げて来て、この港町に辿り着いたのだという。左腕は、その戦で失くしたそうだ。今は、船の積み荷を収集したり配達したりする仕事をしているという。テフの視線が自分の存在しない片腕にあることに気付いたキナが、反対側の片腕を上げて、屈託のない笑顔を見せた。
「腕ならここにもう一本、立派なのが残ってるしな」
テフが蝶を探しているという話をすると、そう言えば、とキナが船乗りたちから聞いた話を聞かせてくれた。ここから更に南の方へ船で海を渡って行くと、〈蝶の楽園〉と呼ばれている無人島があるというのだ。楽園というからには、さぞ蝶がたくさんいるのだろうと思わせて、実のところ、その島へ行って戻ってきた人間がいないので、噂は噂のままになっているという。何人かの研究者たちがそこへ出掛けて行ったが、誰一人として帰って来ない。人が住んでいる様子もなさそうなので、今では不気味がって誰も近づかないのだという。
「でも、誰かがそこに行って帰って来ないと、そんな噂も出ないはずだよ」
テフは、きっとそこに自分の探している青い蝶がいると確信した。
「まあ、誰かが嘘の噂を流してるんじゃないとしたら、だけどな」
「誰がそんなことをするっていうんだい。一体、何のために」
キナは、あまりにテフが必死になって主張するので、そばかすだらけの鼻の頭をぽりぽりと掻いて唸った。二つしか年は違わないが、世間の厳しさを知っているキナにとって、テフの純粋さがこそばゆく感じたのだ。
「どうしてもそこへ行きたいってんなら、知り合いの船長にお前を乗せてもらうよう頼んでみようか。どうも海の男ってやつらは、そういうロマンのある話が大好物みたいなんだ。お前の身の上話の一つでも聞かせてやったら、きっと号泣しながら船に歓迎してくれるぜ」
きっとキナが大げさに言っているのだろうとテフは思ったが、実際やってみると、これが本当になった。船長は、顔中ひげもじゃの強面をしていたが、キナがテフの事情を情感たっぷりに話すと、涙を拭いながら、快くテフを船に乗せてくれた。
「気を付けて行って来いよ」
戻ってきたら、一緒にまたサンドイッチを食おう、とキナと約束を交わし、テフは、船に乗り込んだ。とんとん拍子に物事がうまく進んでいくのが逆に怖い気もした。
初めての船旅は、テフが想像していた以上に厳しいもので、始終船酔いに悩まされた。船室で休んでいるよりも甲板で風に当たっている方が良いぞと船乗りたちに勧められ、甲板に出てはみたが、やはり我慢できずに吐いてしまった。テフが海に向かって嘔吐していると、その背中をそっとさする手があるのを感じた。
「もう消えちゃったのかと思った」
「ずっと傍にいたさ。見えないだけで、な」
背中に白い翼を生やした天使は、何故か少し悲しそうに笑っていた。
目的の島は、黒々とした樹木が山のようにこんもりと生い茂る小さな島だった。大きな船で乗り付けることはできないので、甲板から垂らされた縄梯子を降りて小舟に乗り移ると、船乗りの一人が櫂を漕ぎ、テフを浅瀬まで連れて行ってくれた。三日に一度は、この付近を通るから、帰る時には、合図を送ってくれと狼煙の上げ方も教わった。テフは、わかったと頷いたが、青い蝶を見つけた後、自分がどうするのか、全く考えていなかったことに気が付いた。船が去って行くのを浜辺で見送りながら、テフは、この旅の終わりが近いことを予感していた。
島は、テフが見たことのない植物で覆われていた。港町でも潮風が肌にべた付いていたが、ここはそれ以上に空気が重たく感じる。
とりあえず、島を囲っている浜辺をぐるりと一周してみたが、テフの腰の高さまである下草が群生しており、人が歩いて中へ入っていけそうな場所は見当たらない。
やはり無人島というのは本当らしい。テフは額にかいた汗を袖で拭った。いつまでも浜辺にいては暑くて堪らない。
そこで、思い切って適当な場所から中へ入ると、下生えが生い茂っているのは砂浜のある外側だけのようで、中は意外と歩きやすい。と思って油断していると、ぬかるみに足を取られて滑ってしまった。
大丈夫か、といつもならここでレインが声を掛けてくれるのだが、辺りはしんと静まり返っている。気味の悪い形をした植物や、背の高い樹木が密に並んで生えている所為で、太陽の光が届かず、まだ昼前だというのに薄暗い。湿気をはらんだ空気は淀んでいて、じっとしていても肌から汗が噴き出してくる。
テフは急に恐ろしくなり、レインの名を呼んだ。
しかし、答える声はない。さっきまで自分の後ろをついて砂浜を歩いていたのに、今はどこにもその姿が見えない。
消えてしまったのだろうか、という考えが頭に浮かぶ。
そもそも、初めから天使などいなかったのではないか。全ては、自分の願望が見せた幻だったのではないかとさえ思えてきた。天使なんて非現実的な存在を、何故自分は素直に信じ、受け入れられたのか。それほどまでに自分が孤独を感じていたということにテフは、その時初めて気が付いた。一度は全てを失った自分がここまでやってこられたのは、全てレインの存在が傍にあったからだ。いつの間にか現れて、自分の傍にいた天使が、テフの中で大きな存在となっていたことをテフは知った。
レイン、とテフは、彼の名を呼び続けた。ぶっきらぼうで偉そうだけど、時折見せる優しい笑顔がテフは大好きだった。幻でもいいから、もう一度、僕の前に現れて、と強く願う。その時、森のずっと先の方から人の声が聞こえた。それは、だんだん近づいてきて、木々の間からレインがひょっこり顔を出す。よほど自分はひどい顔をしていたのだろう、こちらを見てレインが噴き出した。
「そんなところで何泳いでるんだ。顔に泥、ついてるぞ」
レインが自分の顔を指さして教えてくれた。テフは、自分がまだ泥の中に浸かったままであったことに気付いて慌てて立ち上がると、服の袖で顔についた泥を拭った。
「どこに行ってたんだよ」
「早くこっち来てみろよ、すごいもん見つけたぞ」
レインは、テフが怒っていることにも気づかず、高揚して目を輝かせている。気勢をそがれたテフが溜め息をつき、先を行くレインの後を追い掛けた。レインは、背中の翼を小さく折り畳み、狭い密林の中をするすると飛ぶように進んで行く。まるで木々の方がレインを避けて動いているかのようだ。それを見て、テフは、彼が本当に僕の創り出した幻覚なのかなと思う。そのことに言いようのない胸の痛みを感じながら、とりあえず今はただ、彼を見失わないよう、必死になって白い背中を追い掛けた。
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