【第四羽】四、潮風の吹く町

 テフの父親は、生物学者だった。主に蝶の研究をしていたという。まだ誰も見たことのない蝶を自分で発見するのが夢だと、よくテフに語ってくれた。テフは、そんな父の影響で、物心つく前から蝶の世界に浸っていた。研究でよく家を長期間空けることの多かった父だが、帰宅すると必ずテフに蝶の標本をお土産にくれた。その中に、青色をした蝶がいないことに気付いたテフが父にそれを尋ねた。青色は、テフの一番好きな色だ。


「青い蝶は、夜も昼もずっと飛び続けているから、寿命も短くて、捕まえるのが難しいんだ……て、父さんが言ってた」


 それでも青い蝶が欲しいとねだる息子に、父は約束してくれた。


『ティフが大きくなったら、父さんと一緒に青い蝶を探しに行こう。

自分で見つけた蝶は、きっと特別な宝物になるよ』


 テフの友達も母ですら、呼びやすい“テフ”の名で呼ぶのに、父だけが“ティフ”の名で呼ぶ。そこには蝶好きな父の特別な想いがあったのだろう。テフは、胸元から紙切れを取り出して、開いて中を見た。そこに書かれている情報は全て、息子との約束を果たすために未来へ向けて書いた、父からのメッセージだ。父はもういないけれども、この手記を見て、テフが青い蝶を見つけることが出来たなら、それは父と一緒に約束を果たしたことになる、そうテフは考えていた。


 テフのしっかりと意志を持ち始めた横顔を見て、レインは別れの時が近いことを悟り始めていた。

 

 ずっと南へ下って行くと、やがて海に出た。テフは、生まれて初めて見る海に目を丸くして見ていた。海の傍には港があり、町があった。どうやら戦火はここまで及んでいないようだ。ちょうど食料が残り少なくなってきていたので、買い出しに港町へ降りて行った。


 港町は、海からの潮風を受けて、空気が生暖かく湿っている。風に漂う生臭い匂いの正体がわからず、顔をしかめて歩くテフに、レインが笑いながら、これが潮の匂いだと教えてくれた。


 市場は、これまでテフが見たことのないほど賑やかで騒々しい場所だった。たくさんの人が行き交い、話している言葉も実に様々だ。海の向こうからやってくるお客さんたちが港町には集まるのだとレインが教えてくれた。魚の臭いに香辛料の匂い、テフの嗅いだことのない匂いで溢れかえっている。体躯の良い大人の男たちが大きな声で笑いながら歩いて行くのを見て、テフは急に、自分が子供一人で歩いて回ることに不安を感じた。歩みが止まったテフを心配して、レインが顔を覗く。疲れたのか、と聞くと、少しほっとした顔で首を横に振った。そして、再び歩き出したテフの後ろをレインが付いて歩く。もちろん、他の人からレインの姿は見えないが、テフは、自分の背後に感じている存在に勇気をもらっている気がした。


 市場で干し魚と塩を買うためにテフが財布を取り出したところ、誰かが急にぶつかってきて、テフは倒れた。その誰かは、テフが持っていた財布を奪うと、一目散に逃げ出した。慌てて荷物を拾い上げて追いかけようとしたが、右足を引きずって歩くテフには、走ることができない。人込みの中へ消えていく盗人に向かってテフが叫んだ。


「ど、泥棒―っ、誰か、誰かそいつを捕まえてっ」


 通りを歩いていた人たちが何の騒ぎかと、声の主を探した。


「任せろっ」


 突然、神風が吹いた。と思ったのは、誰かがテフの横を素早く駆け抜けた時に起きた風だった。オレンジ色をした馬のしっぽのような髪と、よく陽に焼けた少年の後ろ姿だけがテフの目に入った。その後ろ姿に違和感を覚えたが、それが何だかわからない。少年は、あっと言う間に、低姿勢で人込みの足元をするすると駆け抜けて行くと、とっくに姿の見えなくなった盗人を捕まえて戻って来た。


「ほら、さっさと盗ったもんを返しやがれ」


 少年は、掴んでいた首根っこをぱっと離し、テフの方へそれを放った。放り投げられた泥棒は、確かに先程テフから財布を盗んだ男……いや、少年だった。それも、テフよりも年下だと一見してわかる幼さだ。顔を真っ黒に汚していて、すす汚れた服からはひどい汚臭がする。袖から見える手足は痩せ細り、服の上からでも、その細さがわかる。ただ、目だけはギラギラとテフを睨み上げている。テフは急に、その泥棒少年が自分の姿と重なった。一歩間違えれば、きっと自分も彼のようになっていたに違いない。そう思うと、財布を盗られた怒りなど、どこかに消えてしまった。


「それ、僕の両親が残してくれたお金なんだ」


 周囲の人たちが何だ、泥棒だってさ、まだ子供じゃないか、という声を上げながら、成り行きを見守っている。


「両親は死んでしまってもういないから、僕もそれがないと、とても困るんだ」


 泥棒少年は、今にも噛み付きそうな目でテフを睨み続けている。人を疑うことしか知らない者の目だ。彼もまた、テフと同じように庇護してくれる両親がいないのだろう。


「でも、僕の親が働いて稼いでくれたお金であって、僕のお金ってわけでもないから……半分こずつにするってのは、どうかな。半分だけでも僕に返してもらえたら、あとは君が自由に使っていいから」


 泥棒少年は、ばかにするな、と叫びながら財布をテフに投げ付けると、再び走って逃げ出した。それを追おうとした、神風の少年の肩を、テフが止めた。


「いいんだ。財布もこうして戻ったし。ありがとう。助かったよ」


 それよりもあの子は大丈夫かなぁと心配するテフを、少年は、珍しい物でも見つけたような顔で振り返った。


「お前、お人好しだなぁ~~~…………うん、気に入った」


 大きく頷く少年を見て、テフは、自分が先程感じた違和感の正体に気が付いた。その少年には、左腕がなかった。少年は、テフの左肩をばしばしと叩くと、明るい口調で言った。


「お前、年はいくつだ」

「え……今年で、十になる」


 少年の勢いに戸惑いながらテフが答えると、少年は、にかっと白い歯を見せて笑った。


「そうか。それじゃあ、オレより2つ年下だから、お前が弟だな」


 何の話かとテフが呆気にとられていると、少年は自分の胸を親指で指して胸を張った。


「今日からお前を、オレの兄弟にしてやる」

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