【第三羽】五、櫓火

 リヴの問いに、レインはぐっと言葉を詰まらせた。人の幸せを願うのが天使なのだから、自分の幸せのことなど考えたこともない。


「さあ、俺は天使じゃないから……わからないよ」


 レインが目を反らして答えると、リヴがそれ以上問うことはなかった。


 子供達は、レインのことを村の外から来た旅人であると他の大人たちから聞いていたのだろう。その後もしきりに旅の話を聞きたがった。初めは面倒そうにあしらっていたレインだったが、それくらいで諦める子供達ではない。この村の他に人の住んでいる場所はあるのか、それはどんな場所なのか、どんな人たちがどんな暮らしをしているのか、海を見たことがあるか、雪とはどんなものかなど、あれやこれやとレインを質問攻めにした。渋々レインがそれらに答えていくうちに、気付けば自ら実体験を語る形になってしまっていた。


 この村の周囲は荒野が続いているが昔は緑豊かな場所であったこと、王様が戦で亡くなり世継ぎ争いの絶えない国のこと、誰もいなくなってしまった廃墟の話など。自分が天使である事実を隠しつつ、これまで出会った人の話も交えて面白おかしく語ってみせた。


 そのうち、それまでずっとレインに近づこうともしていなかった村の大人たちまでが集まり、気付けばレインの周りに大きな人の輪ができていた。彼らは、レインの話に時折野次を入れながら耳を傾けた。皆、村の外から来たレインを警戒しつつも気になって仕方がなかったのだ。


「兄ちゃんは、どうして旅なんかしてるんだい。

いや、言いたくなければ聞かないが……ちょっと気になってね」


 お酒で顔を赤くした男が、レインの杯にお酒を注ぎながら尋ねた。自分はまだ幼い頃に親に連れられこの村へ避難して以来、一度も旅らしいことをしたことがないので興味があるのだと話した。ただ、旅はしてみたいが、きっかけがない。だから、もし差し障りがなければレインの旅の理由が聞きたいのだという。


「別に、そんな大した理由は……」


 レインは、注がれた酒杯を目を細めて見つめた。薄く濁った酒の表面に、櫓火の灯りがちらちらと揺れている。


「自分の中にある矛盾に気付いたから、かな」

「自分探しの旅ってわけだな。そりゃあ、いい。青春だなあ」


 男は、豪快に笑い、酒の入った杯を呷った。


 皆、幸せに満ちていた。貧しい生活の中でも確かにある幸せを知っている。

 レインの胸にあたたかい波が打ち寄せた。人と接していて、こんな気持ちになるのは初めてのことだった。ふと、リヴに投げかけられた言葉が頭に浮かんだ。


『天使様は、幸せなのかしら』


 そもそも幸せの定義とは何なのか。衣食住に困らない生活のことか。家族や恋人のいる満たされた人生のことか。もちろん、幸せの感じ方など人それぞれだろう。


 これまで数多くの人間と出会い、時には死に直面する事もあった。


 しかし、それらに一々感情移入をしていては、天使としての役目が成り立たない。だからこそ、割り切って人と接してきた。


 それに、常に死というものに怯える天使にとって、人と深く交わる事はとてつもなく恐ろしい事だったのだ。死に怯えながらも、人を見守る役目を持つ天使としての暮らし。


 果たして自分は、今まで幸せだったのだろうか。


 レインの話に目を輝かせて聞き入っていた子供達は、夜半に近づくにつれ、一人、また一人と睡魔に負けて、母親に連れられ家へと帰って行った。年寄りもいつの間にか姿を消しており、残ったのは、若い青年たちが数名と、中年の男性たちばかり。


 途中、若い男女が二人きりでどこかへ行くのを何度か目にしていた。こういう祭事には付きものなのだろう。


 櫓火は、ほとんど灰になり消えかけていた。残り火が名残惜しげにちろちろと燃えているのをぼうっと見つめていると、ふいに肩に重みを感じた。見ると、リヴがレインの肩にもたれかかって眠っている。やはり疲れていたのだろう。レインがリヴの家へ戻ろうと腰を浮かしかけた時、しわがれた声に呼び止められた。


「あんた、旅の人だってね」


 見覚えのある老婆だった。昨日、カリヤの産婆を務めた老婆だ。確か、皆にはオンバと呼ばれていた。レインの目の前に腰を下ろすと、持っていた杖を足下に置く。


「この子は、いい子だろう」


 オンバのしわだらけの目が、すやすやと安心しきって眠るリヴを見つめる。その表情は、とても穏やかだ。


「誰に対しても分け隔てなく、優しく、厳しくできる子だ」


 若い頃の私に似ている、とオンバは言った。


 強い子ですね、とレインが答えた。リヴを見るレインの頬が無意識に緩む。リヴの周りの空気は、とても穏やかで暖かい。まだ知り合って間もないが、傍にいると居心地が良いのをレインも自覚していた。それは、リヴ自身が誰にでも心を開き、全てを許諾しているからだろう。自身の境遇さえも。


「見えるもの全てが真実とは限らないよ」


 え、とレインが顔を上げると、予想外に厳しい目を向けるオンバの視線があった。


「あんたは、村に災いをもたらす」


 その声と視線の鋭さにレインは背筋がぞくりと震えるのを感じた。オンバの白く濁った目は、見えていないようでレインの内側にあるものを全て見透かすかのような目だ。


「悪いことは言わない。早く村を立ち去りなさい」


 この子のことを大事に思うのなら、と最後に付け加えると、オンバは腰をあげた。曲がった腰を支えながらゆっくりと歩き去っていくオンバの後ろ姿をレインは無言で見つめ続けた。


 櫓火が消える頃、レインは、眠ったままのリヴを背負って家へと戻った。ベッドに横たわってもずっとオンバの言葉の意味を考えていたが、いつしか深い眠りへと落ちていった。

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